現生人類が出アフリカを果たし、現在のイラン―パキスタン地域から東進し、東南アジアから北上して、当時の海水面低下で現れていた東アジア平野(朝鮮南部~台湾の東シナ海、黄海部分)から海を渡って九州に入って来たのが4万年前頃とみられています。
その後、太平洋側と日本海側の両方向から北上して拡がり、3万年前頃には北海道太平洋岸に至っています。
さて、日本祖人の北海道太平洋岸からの米新大陸への進入問題についての話ですが、結論的に、
当時は海水面が数十m低かったためシベリア東端とアラスカは陸地が現れたステップツンドラのベリンギア地峡となっており、前回まで説明しました日本祖人の移動進出のルートとそこにおける主要な問題点は、①最北の寒さは大丈夫だったか? ②千島列島の長距離の海峡は越えたのか? ③アラスカ湾岸の一部には氷床があったが問題は?でしょう。
さて、九州から北海道太平洋岸まで1万年という長い期間を要していますが、これは今よりも2-4℃くらいは低かった時代の環境にあると思います。
そもそもアフリカを出て赤道から北緯20度くらいまでの暑い・暖かい地域を行動していた人類が、年のうち3-4ケ月も雪の降る、草原と針葉樹の列島北部(北緯40度越え)にまで生活圏を伸ばしましたので。
他方、暖かい黒潮が北上する細長い日本列島を南から北へ、海水面が数十m低下した津軽地峡を越えて北海道太平洋岸で生活するようになったことは、大きな環境変化に着実に順応しつつ歩み得た大変ラッキーな事だったと考えます。
更に、後続の人々を含めて太平洋岸を進んだ人々と日本海側を進んだ人々の血と生活が、1万年の間に細長い地で混じり合えたことも正に「二本」祖人で、いよいよ出北海道、千島列島から北のベリンギアに進んで行く上で大変良かった、ラッキーだったと思います。
因みに、縄文人(1.65万年前頃から)と呼ばれる前に南方海人型の人々は、更に1万年間、特に直前には大陸の大柄な北方適応型の狩猟民族を北から、西からも交えています。
日本祖人は、素朴なものではあったでしょうが、この列島に籠ったように特有の精神性ある基層となる暮らしの列島文化の芽を育んでいたと考えます。
おそらく、九州に入った頃は色黒だった人々も北海道に入った頃には、茶褐色に変わっていたことでしょう(欧州白人が、アフリカの色黒からユーラシア北部暮らしを経てそうなったのは約8千年間でと言われてますので)。
さて、出発点として現在分かっている当時の日本北端遺跡である帯広地域の遺跡は次のとおりで、下図の右手の大平洋に注ぐ十勝川の南、平野の中央に最古の若葉の森遺跡の他、縄文時代などの多くの遺跡が確認されています。
若葉の森遺跡では、9,700点の石器が出てきていて、その殆どが当時の貴重な黒曜石、かつ、地元十勝産であることが大変興味深く、数km歩けば手に入る恵まれた、万年の昔から道東の中心であったのかも知れません。
そして海水面の低下を考えれば、今は自然豊かな海に近い浦幌や長節の台地などにも人々の暮らしがあったことだろうと思います。
野火でしょう、焼けた土から年代が分かり、また、炭化した木からエゾ松、グイ松などの針葉樹林が拡がっていたことが分っています。ヤチカンバ(湿原の塚状の高まりヤチボウズの上に株立ちし、5-15本の幹を持つ株が多い。成熟しても樹高1.5mほどの低木にしかならない)もありました。
沿岸部の特色は、降水量が内陸より多く夏は海霧で気温が低いというものです。
注目の冬の気温ですが、真冬は平均して―10℃、寒いときは―20℃で当時は2-4℃低く、雪は北海道の他地域(南部除く)よりは少なく(年:3-4m)、北のオホーツクから風向きで2-3月に流氷が来ます。
さて、南方海人型の日本祖人がこの帯広の気温の環境下で、食材豊かな、動物毛皮利用の衣食住を整え暮らし得た経験を有します。毛皮は風に強いことが良く、エスキモーの人たちの様々な生活の工夫が当時の暮らしを窺がわせます。
(この南から北へ無理なく移動進出していった経験をよく認識しないことが、渡米問題論の低調の一因でしょう。)
さて、日本祖人の渡って行ったルートについて状況を見ていきます。
まず、千島及びカムチャッカですが、千島列島のウルップ島勤務の旧軍兵隊さんやカムチャッカ半島沿岸(ペトロ、パブロフスク)で日本語・文化を9年教えた先生の体験記などを読みますと、―20℃が寒い時期の気温のようです。
ウルップ島の兵隊さんは、雪の積もった中、2月末上陸したが思ったより寒くなかったとし、厳冬期含む1年半の滞在での印象はおいしい魚、岩のりなどを食べたことが書かれています。
カムチャッカ駐在の先生は、冬(厳冬は―20℃)が6ケ月と長くて雪が多く夏が短くて暑くないとし、沿岸暖流のためか寒さの印象の記述がないです。鮭、鱒の大漁や温泉、夏の木の実や秋の茸などが書かれています。
カムチャッカに抑留された兵隊さんもやはり―20℃で、ストーブの火を消した後の幕舎の朝、起きるとまつ毛が凍っていたとし、-40℃(かっての不凍液も凍るか)になったときは作業は休みだった(頻度少ない)と書いていますが、水産物やアイヌネギを食べれたときのおいしさが印象深く書かれています。
以上のように、千島列島やカムチャッカ半島太平洋側沿岸の状況は、霧、風の強さや冬長く雪が多いことはあっても寒さが厳しく非常に辛いということではないようで、帯広とそんなに変わらないようです。
次にベーリング海周辺ですが、最北端のシベリア東端南部沿岸(上図1.A)のナヴァリン岬の真冬(12月―3月)の最低気温は、23-24℃であり、帯広の冬の最低気温とそれ程大きな差はなく、やはり期間が長く夏の気温が低いという特徴も千島、カムチャッカと同様であり、訪れた者は想像に反しそんなに寒くはないという所感を述べています。
(Vacations To Goから)
ベーリング海東南部の沿岸島では、冬12-2月は―13℃(夏6-8月は12℃)で流氷が接岸する。また、南のアリューシャンでは1月が―19.7℃、夏の7月9.9℃で帯広の最低気温の暮らしで対応できます。
また、アラスカのアンカレッジでは、12-1月の最低気温が―13℃、夏は15℃くらいで問題ありません。
なお、北海道大学での勤務経験がある米ミシガン大のセオドア・バンクは、アラスカ・アリューシャンは北海道の島々と気候・地形・動植物に驚くほど類似性があると書いていますが、こういう所見が一般的です。
帯広の若い人たちが、東京大阪よりもカナダ北米に親近感を持って旅行に出るというのも私には何とも示唆的です。
因みに感じでは、風が無ければ-20℃は、鼻毛むずむずそこまで10数分なら手袋・耳覆い等をせずに歩ける気温で、-30℃くらいは天幕で寝て起きたらまつ毛凍ってる、-40℃は体内の骨が凍ると言いたい寒さです(-50℃は出たお小水を手で払いながらする?)。
以上の検討で明らかになりましたように、日本経由の米新大陸への進入がこれまで歴史考古学において相手にされていないのは、①3-2万年頃という人の遺骨や遺物がベーリング海地域ではっきり見つかっていない ことのほか、②槍持った裸・毛皮イメージの原始人が「あのシベリア・アラスカ」を行動するのは無理 ということがあるのでしょう。
①については、海水面の上昇で当時の遺跡が海面下であることや沿岸で万年の間に津波を受けていることもあるでしょうし、人口少ないシベリア・アラスカでの遺跡発見の機会の乏しさもあるでしょう。
②については、ア 日本祖人が南から北に結果として長い間の良い準備行動をしていたことや出発点の帯広の遺跡と寒冷状況で動物毛皮利用の衣食住を整えて日本祖人が暮らしていたことが世界の学者によく認識されていない。 イ 何より、-40℃が普通の内陸のシベリア・アラスカとは異なる沿岸の状況が、イメージと違って帯広とそんなに違わないことがよく知られていない。ウ 帯広出発の頃は寒冷が進んだ時期であり、最寒のベーリング海地域に進出した頃は寒冷緩和期に通過したことになる。 などの理由のためと思っています。
そして、歴史考古学界をリードする欧米は、子供のころから欧州アフリカ中心の地図を見ているため、シベリアとアラスカが紙の右端と左端に全く離れている、なども案外、総合的な連携研究が乏しかった一因ではと思っています。
次回から、第2、第3の渡海・氷床の問題点や寒冷降雪地での暮らしぶりなどを探り紹介していきます。
(了)