私たち現生人類”新人”の出アフリカ後のアジアへの移動、進出について、既にお伝えしているイメージに合った図がネットに出てきました。当時のパンカル半島Sundalandの意義を押さえていないと思いますが。

私は、この半島地域を「アジアの楽園」と表現しています。当時の遺跡にも見られますが、温暖で動植物に恵まれた広大な地域でしたので、基本的な素質では現代人にあまり遜色無い多くの人々が出入りし混じり合って文化が生まれていた楽園と考えています。

各地に拡がり、豪には数十kmの海を舟か筏で数百人が渡り根付いていますし、地域の洞窟には人手型や動物絵など当時の精神性あるものが残されています。

残念ながら、北東アジア、日本に関してはラフですので東アジア平野、東亜地中海、そして日本国内を2ルートでの北上としました。

日本列島へは、東アジア平野沿岸地域で暮らす海の民が、東亜地中海の北部と南部から舟で入ってきました。

当時の人の骨は本土地域が酸性土壌のこともあり、発見は容易でないですが、石器などが残された遺跡を見ますと、1万年くらいの間にほぼ日本列島の沿岸部(水平拡散)や一部の高原地域(垂直拡散)に拡がっていたようです。

既に、伊豆沖の神津島に黒曜石を求めて舟で渡っていますし、その貴重な黒曜石が広域で交易されており、また、冬の寒さの北海道の大平洋岸に進出していたことなどが注目されます。

容易でない船路を渡って来た海の民の家族の群れが、今よりも海水面が数十m低下していた黒潮沿いや瀬戸内盆地などの海浜・河川沿いに北上し、主に水産物や植物を食べ狩の獲物を加えて、自殺する人もいない案外と結構な暮らしをしていたのではないでしょうか。

日本列島地域の魚介・海藻類の豊かさや雨と多様な地質のもたらす植物の豊かさも特筆すべきでしょう。主に海辺、一部は川辺の暮らしであったでしょう。

その後、2万年前頃、大陸から大型哺乳類を狩猟する寒冷降雪地に適応した人たち(北方適応型)が入って来てますし、今日に至るまで途切れることなく人は入ってきています。

しかし、日本史は後から来た多数の人が前から居た人を排除して入れ替わるというようなことではなかった(攻防はありましたが)と見られていますので、地震津波、火山の噴火もある列島地域のこの頃の万年の海の民の暮らしと精神性は、基層としてわずかですが今でも残っているように感じます。

下図のように、ずっと下った紀元後の古代でも「海部」という名が広域の沿岸地域に、一部の高原にも残っていますし、また、薨去された三笠宮様は、「お舟入り」(我々の納棺)されます。

日本の祭りには、相当古い伝統なのではと感じさせるものもありますし。

そして今、そんな4-3万年、2万数千年前の海の民である日本祖人が注目されるには実は訳があります。

近年、アメリカ人は、自分たちの住む大陸に最初に人が来たのはいつ頃、どうやってということに大きな関心をやっと持つに至り、精力的に研究が進んでおり、新たな発見が出てきています。

その一つは、下図のように海水面が低かった万年の大昔にマンモスなどを追ってシベリアとカナダの間のベーリング地峡を越えて新大陸アラスカに入り込み、従来は米大陸氷床の空き間の回廊ルートから南下してきたと見られてきました。

ところが最近の研究により、1500kmになろうかという回廊ルートは、動ける夏・秋の間でそういう状況になったのは暖かくなった12600年前頃以降であり、回廊にはそれ以前の古い痕跡も全く発見されていないという状況です。

従って、既に北米で発見されている14000年前頃の遺跡状況を説明できず、その後の海水面上昇で痕跡は海中だが太平洋岸ルートだろうとなってきました。

現生人類が世界に拡がったグレートジャーニーにおいて、北米、南米で14000年前級の遺跡が発見されてますが、下図のベリンギア地峡ルートでないとなりますと太平洋岸ルートをよく見なければということになります。

すると、ベリンギア地峡南側のルートA、アリューシャン列島沿いB、そして海流に乗る北大平洋ルートC が一応考えられますが、この新大陸行き問題を日本の先生は誰もまともに相手していませんので仮説も無い状況です。

更に昨年、ハーヴァード医科大のチームが、アマゾン3部族のDNAを調べたところ、大変古いとみられるとともに、南米はもとより北米のネイティブインディアンにもシベリアにも近いものが見つからず、パンカル地域の豪アボリジニやアンダマン諸島の人のものが近いという驚きの結果を発表しました。

チームは、途中に居た人たちは既に痕跡も無く消えている種族であり、そもそもそんな古い時代にどうやって南米・アマゾンに来たのか何とも言えないとし、冗談に太平洋でも渡って植民したんだろうと言って笑うしかない状況です。

人類が大平洋ポリネシアのイースター島やハワイにたどり着いたのはゼロが2つも違うかという新しさですので頭を抱えます。

ともかく、当時の人たちの痕跡が残っていたとしても数十mの海面下ですのでどうしようもありません。しかし、出発点と終着点は明らかになっていると考えられる正に、日本の歴史学にはない「理論先史学」の分野です。

出アフリカの現生人類が、パンカル地域から寒冷降雪地適応のDNA変化を生ずることなく南方の海の民の子孫として南米に至るのは、日本列島経由でしょう。

日本祖人は、ベリンギア地峡南方・北太平洋沿いを米新大陸に渡り南米にまで沿岸を南下したという、日本の歴史考古学の先生方が誰も相手にしないことに思い至ることになります。

次回、更に深掘りに挑戦します。

(了)

現生人類が、数万年前に出アフリカを果たしてインドを経て東進し、サフルランド(豪オーストラリア)には5-4万年前頃に数十kmの海を越えて移動進出、また、パンカル半島地域から北上して日本には、大陸沿岸Xルート・比Yルートを経て4万年前頃に同じように海を越えて入ってきました。

日本人のDNAが、遠く離れたアンダマン諸島の人と近いことや日本語がインドのタミル語と近いという話を聞いても、私は驚きません。

当時は海水面が数十m低かったために、北の朝鮮山地と南の台湾高地の間に広大な東アジア平野が形成されており、今よりずっと近づいた日本列島との間に台湾の凌教授が命名した東亜地中海がありました。

パンカル半島地域のスラウェシやパプアなどに残された古い洞窟絵には舟を描いた(帆があるのは驚き)ものがあり、発掘された貝塚遺跡からは、外洋を含む水産物を食した海の民の暮らしぶりが広範囲で確認されていますので、東亜地中海のほとりは、舟を操り水産物を主に食する人たちで満ちていたことでしょう。

それは、木、竹、石器、骨器を使って様々な物を作りだし、葬送、祭祀、信仰、素朴な芸術のある文化を有するはっきり新人になった、類人猿・旧人とは全く異なることが窺える暮らしぶりです。(日本祖人は、もしかしたら東北の金取遺跡などの旧人と遭遇していたことでしょう。「なまはげ」などはその遠い記憶かも知れませんね。)

 

この海の民は、内陸で主に大型動物を狩猟して暮らしている人たちとは明らかに違う習俗で、寒冷降雪地に適応した色白になり大型の人たちと風貌もすでに違っていました。

パンカル地域では、今も大竹を使用する筏が普通に使われており、山中であっても伝統様式の家々は舟を模るもので海の民の末裔であることを誇りにしています。

 

そのような文化の流れと同様な暮らしが、氷河期の寒さが少し緩んだ東亜地中海のほとりでは一般的でしたでしょう。

そして、多くの男女家族が舟で海を渡って来るということが決して容易ではない時代に、海についての知識、造舟及び操舟のノウ・ハウを有する海に馴染んだ人たちであり、十分に実際の経験を積んだ潮の香りのする人たちであって内陸の山野狩猟人とははっきり異なります。

このことが、日本祖人始まりのイメージにとって大変重要な事で、黒潮に沿う形で沿岸を北上してやがて北海道にまで至りますが、2万年は続いた日本人の基層、原風景です。

貝塚、海人、西日本の広い範囲の沿岸から長野などに残る海部の人名、山中であるのに舟・船の名の地名など、遠い昔からの深い結びつきを窺がわせます。

さて今では、4万年の時が流れて地形も変わり、海水面も上昇しており生活の痕跡を見出すことは困難ですが、米国に残る海辺のネイティブ・アメリカンの暮らしのようなものであったでしょう。漁撈、採集を主に狩猟や植物の栽培も並行的にあり得たものと考えます。

何しろ、パンカル地域の豊かな文化の海の民の子孫が、北上して東亜地中海を男女家族のグループが舟で渡って来て定着したのですから。

それではどんな人たちだったのでしょう。

まず第1に、海の民であったのでその後の状況から一部の地域では現在まで続く、入れ墨・文身で描き飾っていたものと思います。海中で活動する場合、サメなどに襲われないため入れ墨が効果的で一般的だったと言われていますし、他部族もいる社会生活で意味を持っていたものと思います。

 

も一つは、現在も首都ジャカルタの高層ビル街から200kmくらい南西の山中で全く独自の伝統文化を守り、世間と隔絶して暮らしているバドュイ族の人たちに見られる首飾り、腕輪などの装身具をしていただろうということです。

これは、パプアなど原始的な暮らしを残す世界の各地で、今も一般的によく見られます。東亜地中海では、貝がよく使われたことでしょう。

さてでは、どんな風貌の人たちだったのでしょう?

これは全く難しい質問ですが、強いて答えれば、大陸沿岸の江南に見られる海の民の絵の人と、比の先住民の人たちの混ざり合った人のようであったのではと思います。

いずれにしても大事なことは、当時の東亜地中海のほとりの人々が概ね同様で、日本列島に東アジア平野の北部から入って来ても南部から上がって入って来ても似たような人たち、暮らしぶりの人たちであったろうということです。

アフリカを出た黒い肌の人たちは、その後、約8千年くらいで今の欧州人のように肌が白くなったそうですが、4万年前頃の東亜地中海のほとりにおいては、前述の案のようでしたでしょう。日本祖人の始まりの風貌です(何方か絵にしてください)。

その後時代が過ぎて、地形もそして大陸の内陸から多くの人たちの進出で沿岸の人たちも大きく変わりましたが、現在の私たちはこの東亜地中海に思いを致し、も少しお互いが仲良くしてもよいだろうと思います。

(了)

 

 

 

 

前回、人類史上の現生人類の移動進出の流れから、日本列島へは東南アジア方向から沿岸を北上し(仮に内陸からであったとしても)、数十mの海水面の低下で現れていた広大な東アジア平野に至り、舟で海を越えて来たことをお伝えしました。

同平野北部のAルートか、それとも南部の南西諸島沿いのBルートからCルートにより、九州南北のいずれに先に達したのだろうかは大いに興味のあるところです。

南部に先に達しているでしょうが、B—Cルートは、長距離で一部地域では生活は厳しかったのではと言われる島伝いです。しかし、どちらが先に達していたとしても、台湾の凌 教授が名づけられた東亜地中海の周りの出来事だということに思い至ります。

4万年前頃、女性をなどを含む家族で日本列島へ渡ることは、舟で来たことを思えば決して容易ではなく、、水産物・植物を多く食す明らかによく海に馴染んだ海の民で、内陸で大型動物を狩猟して暮らす人たちとは違います。

石器偏重史観は、狩猟にウエイトを置いた先史の見方をしますが、日本の始まりは海の民であっただろうと認識することは重要です。勿論、今は海水面が上昇したため当時の沿岸の人、いや生活の痕跡すら見つけることが困難で実証できませんが。

実証できないことは相手にしないということでは当時の事は考えられませんが、至当に考えればこうだろうということは言え、物理など他学問同様にこの「理論先史学」をもっと一つの分野として確立する必要があります。

ゼッタイと思われたニュートン力学も、アインシュタイン以降、大いに見直され発展を続けています。新たに人骨・遺物などが見つかり、必要になれば理論・定説を修正していけばいいだけのことです。

洞窟絵に舟が描かれていますし、時代はずっと新しくなりますが、入れ墨に鯨面の人(もっと色黒?)が倭人として魏志倭人伝にも書かれており、縄文時代の丸木舟や埴輪の舟なども見つかっています。

いずれにしても現代よりもゆっくり歴史が動いていた時代、意外に万年前の人たちは進んでいたというギョベクリ・テペ遺跡や洞窟絵など、近年の発見を踏まえた旧石器人のイメージはカエル必要があるでしょう。

4万年前当時の赤子を今、東京に誕生させるなら、あまり今の子と遜色なく成人するだろうと言われていますので。そして、東南アジアのパンカル半島(Sundaland)地域を北上してきた子孫は、その海辺での暮らし・操舟のknowhowは相当なものでしたでしょうから。

3.2万年前頃には、黒曜石の採取で伊豆半島と神津島の少なくとも10数kmは舟で大いに行き来していましたし。

一部に、大陸内陸の人のDNAと縄文人などが近いのでと言う人がいますが、日本祖人については、この地中海のほとりで海に馴染んだ民であるということを踏まえていない論です。それくらい内陸の民と海の民は、長い長い間に受け継いできた暮らしぶりが違います。

大陸の陸地がもっとずっと日本に近かった東亜の地中海のほとりの人々について思いを巡らし、舟で海を渡ることが容易でなかった時代に日本列島に至ることを考えますと、何といっても先ずは黒潮流があります。逆流していたとすれば、我々にはクレオパトラの鼻どころではないでしょう。

従って、東アジア平野南部の台湾高地地域へは、ベトナムなどの沿岸から北上したXルートにしろ、フィリッピンを北上するYのルートも無視できない興味あるものです。

当時の遺跡は、むしろYルート上のボルネオや比・フィリッピンの方で発見されていますし、比では、アフリカを出た頃とあまり変わっていない肌の黒いネグリト族もいますので。(従って、東亜地中海人は色黒?としました)

そして、比のルソンから台湾高地、南西諸島を経て南九州までうまく島々が点在していることが、舟で海を越えた移動進出を裏付けるものとして第2の要素と考えさせられます。沖縄では、日本で唯一、3.5万年前の人骨が発見されていますし。

東南アジア直系ではと思わせる風貌の南九州の隼人族、以南の人たちは、日本史において古い独特の文化を保ってきたと感じさせます。

 

さて、列島に拡がった日本始まりの日本祖人は、下図のAルート北部九州なのか、B・Cルート南九州だったのかが次の問題です。

当時は氷河期でしたので、台湾高地から朝鮮山地への展開は緯度を大きく変える気温の低下(3℃前後?)があり、南西諸島沿いは、石垣島—沖縄本島間の長距離渡海やトカラ列島の小資源、黒潮流越えという問題もありました。

東亜地中海人は、日本列島を丁度黒潮の流れるように北上して北海道にまで拡がって行って日本祖人となったわけです。

祖人は主に、北からの人か南からの人かは、無論、解明は容易でないです。

しかし、例えばその後の生活に大きな影響を及ぼした貴重な石器となる下図の黒曜石の交易の拡がり(産地のお蔭でもあり)を見ると、また、既にお伝えした瀬戸盆地・日本海の遺跡などの状況から、日本祖人の原動力は北説であったのではとなります。

  

実は2.9万年前頃、南九州・錦江湾の姶良カルデラ大噴火が、大変な被害を九州に齎しました(西日本、更に火山灰は東北まで)ので、肝心のCルートの分がよく分かりません。

もしかしたら、北から進出して来たまだそれ程違いの無い人たちが被害の鎮まった後、逆に南下して沖縄の方に行ったのかも知れません。

いずれにしろ日本の始まりは4万年前頃、この東亜地中海のほとりの海の民の人たちですが、台湾の凌 教授のこの命名が今は顧みられず教科書にも出てこないのが全く不思議な事だと歴シニアは思います。

そして最近の沖縄での人骨発見やDNAの研究の進展などを見てますと、始まりの頃の東亜地中海のほとりの人たちのイメージは遠からず生まれるものと期待しています。

(了)

現生人類は、出アフリカを果たして緯度にあまり差がない印度南部から東方の海浜沿いにパンカル半島Sundalandを経て、4.5~5万年前頃には数十kmの海を越えて豪に達しています。

他方、遺跡などから4万年前頃には、日本列島に達していると考えられています。まずはベトナム方向からとフィリッピン方向から北上したことが考えられ、内陸方向からもあり得ますが、内陸は起伏激しい道なき道で猛獣や毒蛇などもおり、寒暖の差も大きいです。

DNAを調べますと、日本人は近くの中国や朝鮮半島の人たちでなく、なんとパンカル半島に近い西のあまり人が行かないアンダマン諸島及び内陸奥のチベットの人たちが近い、古い痕跡が残っているということでということですので、始まりの4万年前頃は、この地域が広い範囲で同様の人たちであったことが分かります。

いずれにしても日本へは、東アジア平野に至り東部沿岸から舟で海を越えることになります。海で舟を操って目的地に達するためには多くのknowhowを必要としますので、九州へは、沿岸ルートを北上してきた海辺の民であったろうと考えます。

日本へ渡来する1万年前の約5万年前頃に、現生人類は、画期的な進化を遂げたとみられています。それは神経系の進化による言語コミュニケーションの大きな進化と複雑な自然や自分たちの社会を把握理解し、それへの対応を組み立てる脳力だと言われています。

日本へ来る前のパンカル半島地域では、洞窟において岩絵が描かれており、豪へは舟か筏か、数十kmの海を越えて渡り住んでいます。また、貝塚などから水産物をよく食していたことが知られています。

これらのことから、日本祖人は、はっきり原人・旧人と異なり、現代人への一歩を踏み出した状況で舟で海を渡って日本列島にやってきたことに思いを致す必要があります。

今では数十mの海面上昇により遺跡の発見は困難ですが、石器のほかに木や竹を使った種々の道具などがあったものと考えます。

当時は海水面が低かったため、東アジア平野が日本列島に迫っており、地域は陸地で取り巻かれた東亜地中海(台湾 凌教授)と呼ばれる状況で同様のものでしたので、日本の始まりが、下図のAからか、Bからかは、それ程大きな問題ではないでしょう。

日本祖人は、色の浅黒いあるいは茶褐色で眼のクリッとした小柄でがっしり、体に入れ墨や彩色を施して舟を操り、水産物を多く食する採集狩猟の海辺・川辺の民で、まとまった地域間の交流のある暮らしぶりでしたでしょう。

 

瀬戸内海や東京湾などが陸地であった日本列島を、まずは九州から列島の海浜地域(瀬戸内盆地を含む)を北上し進出(水平拡散)していったでしょう。気温が今よりも2-3℃は低かったものの、遺跡の状況から、3万年前くらいには本州及び北海道東部にまで進出していたようです。

また、当然のことながら後からも同族が渡って来たことでしょうから、海辺から河川を内陸に上がって(垂直拡散)海辺とは違った山間丘陵の川辺の暮らしに適応していった人たちもいました。日本の始まり約1万年間の始原時代は、このようなものであったでしょう。

ところが、2万9千年前頃に南九州錦江湾で姶良大噴火が発生し、火山灰は東北にまで至り、寒冷化した(千年くらいともいわれる)と考えられ、九州は壊滅的な被害を、西日本も大きな被害を被り、日本祖人が列島に定着を果たした始原時代は終わったものと考えます。

明らかに人口急減の西日本と残った東日本という変わり果てた日本祖人の状況で、大噴火の影響がおさまるにつれて同族、一部新たな部族が東アジア平野から進入し、一方、東日本から西日本に移り住む人たちとで被害も回復し再興していく時代が約1万年、そして土器出現により命名されている縄文時代となっていきます。

日本は、いろいろな点で西日本と東日本に違いがありますが、太平洋側と日本海側の違いをも含めて最初のこの姶良大噴火の影響が契機なのではと考えています。

さて、再興時代の後半には、質的に新たな寒冷降雪環境への北方適応を遂げた人たちが、新たな生活文化を携えて北部東アジア平野のみならず樺太方向からもマンモスを追い多くの人が入ってきました。

正に、狩猟中心の内陸勢力の東進南下の進入です。

そして、東方ユーラシア先史の基軸となります、2万年前頃の本格的な内陸勢力の東進南下の渡来進入が、その後も気候などの環境要因により、あるいは戦乱を逃れるなどで断続的に古代まで繰り返されることになります。

但し、日本の場合は、進入勢力が大きくてそれまでの人々を排除して入れ替わってしまうということはいつの時代も無かったようです。弥生時代のように、渡来勢力が数は多くなくとも人口増加率が大きいなど、その影響力が大きかった時代もありますが。

ユーラシア東部のアジアでは、内陸でのこの北方適応を果たした勢力による東進南下の各地への進入が、歴史の大きな基本的特徴でしょう。

さて、この4万年にわたる長い時代を有する日本には、当時を全く想像すらできなかった明治のお抱え外国人学者が欧米史をもとに唱えた「先住民」という概念は適切でなく、強い者が他を攻撃する、抑圧する、差別するといった勢力争いや人権問題はありますが、いわゆる先住民問題は無いと考えます。

アイヌの人たちの語り伝えでも、先住していた人たちを北千島の方へ追い払ってしまったような話があります。4万年前頃の日本祖人の進入・定着からこの太平洋に面する行き止まりの島々にいろいろな人が入って来ました。

坩堝のようになって熟成されたこの国には、現在も人権問題はあるのだろうと思いますが、はっきり先に来て住んで居たと言える人たちの先住民問題と呼ぶべき状況ではないでしょう。

どちらが先かは容易にはわからず、先に来て住んでいた先住民の子孫勢力が、後から新たな方向から来た人たちを抑圧している場合もあると考えられますので、明らかに米・豪のケースや後からの漢族が先住少数民族を抑圧している中国の状況などとは異なります。

長い歴史を有する日本の場合は、あくまで先住民という表現を冠すべきでない人権改善問題であり、誤解を与えないように国連での取り扱いなどを是正する必要があると考えます。

(了)

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