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従来から下図のパンカル地域東端の豪アボリジニやパプアの人たちとインドの南部やアンダマン諸島の人たちのDNAが近い古いものであることは知られています。

現生人類が、アフリカを出て10万年前頃からユーラシア東南端を移り住みながらパンカル地域に至ったと考えられていますので、その時代の地域の人々は同類であったことはよく理解できます。

定説では、その後北上し2万年前頃には北端のベーリング地峡を越えて北米大陸に入り、南米に入ってからは千年くらいという短さで南端まで至り拡がったと考えられていました。

それに対し、パンカル地域を発し、2万年前よりももっと古い時代から環太平洋を海浜を歩き舟を使用し、アメリカ大陸に渡り南米に達したという現生人類の展開の様相を唱えるのがRLPP自説です。

(第1図)

ハーヴァード医科大が、南米アマゾンの3部族の示すDNAは、北米大陸には見つからずパンカル地域に残っている豪アボリジニ等と近い古いものであると発表しました。

直路の太平洋横断の移住が全く新しいせいぜい4-3千年前以降のことですので、これまで等閑に付されてきたアメリカ大陸での諸事象を総合して考察し北回りのRLPPルート説が出る訳です。

そして重要なことは、ベーリング地峡を越えて北米大陸に入って行った人とは異なり、寒冷降雪地に適応したDNAの変化をしていない言わば元のままの人たちが南米に至っているという不思議な、驚くべき内容であることです。

さて今回、インドネシア南スラウェシのマカッサル地域を旅し、有名なマロス洞窟で手型・動物絵を見ましたが、その約30km北のパンケッPangkep洞窟で下の写真のような素朴な舟も見ました。

洞窟に住み毛皮をまとい、石器を使用して動物を狩猟する石器人のイメージと舟の取り合わせはやはり珍しいものです。

しかし、人と舟の取り合わせは舟が万年の遺物として残らないだけに歴史上等閑に付されてきたのだと思います。そして、洞窟で生活していた石器人であっても食の主体は貝であったということも確認しました。

やはり海辺、川辺が初期人類の生活の地であったことを実感します。更に、下の写真のように洞窟に暮らしながら複数人が乗って艪で漕いでいる舟には帆があります。これまで考えられているよりも舟との関わりは深く、かつ、造舟、行動力は進んでいたのでしょう。

今でも見られる当地の家は、山間に居住する種族でありながら明らかに舟との強い結びつきのある暮らしをした伝統を伝える人たちであることを窺がわせます。

パンカル地域から北上した人類の展開を考えますと、海浜を、舟も使用して移住、行動していたことを思わせますが、3世紀半ばの「やまたい国」の日巫子の時代であってもその痕跡は残っていたことが分かります。

内陸で寒冷降雪地への適応を遂げていたであろう魏・呉・蜀の人たちの争う三国志の時代にあって異質な人々が沿岸部に赤円のように残っていますが、パンカル地域から初期に北上した人たちの末裔であろうと考えられます。

倭の国も、魏志倭人伝では入れ墨し海に潜る者として明らかに異質な者たちとしての存在が記されていて、パンカル地域から北上した人たちの末裔の存在を窺がわせます。

そもそも3万2千年前頃という古い時代に、伊豆半島南方の神津島に渡航して黒曜石を発見し、繰り返し渡って交易に活用されていたことも明らかになっています。

その黒曜石の交易は、離島を含め私たちが考える以上に広域で活発な行動力があったことを示しており、北海道白滝の物は、沿海州にまで及んでいます。

これらのことから、3万数千年という古い時代に遡っても当時の人たちは海を恒常的に越えて活動しうる舟を造り操れる行動力のあったことが分かります。正に、基本的には海の民であったのです。

そして、最近の調査で北米大陸西岸で発見された9千年前のケネウィック人骨が、ベーリング地峡越えの人たちと違うアリューシャン列島の方のルートで渡米した者とみられるという調査結果が発表されました。

今や、南米に至ったか否かが問題ではなく、アリューシャン列島の島々を伝って北米に達したのか(今後の石器遺物の発見に期待)、それとも渡り鳥を見ていて陸地の存在を予想し短期間に海流に乗って渡洋して北米に達したのかが注目されます。

これまで全く学界がまともに相手してきていない時計回り馬蹄型の環太平洋ルートは、人類展開史上の重要問題として総合的な地域研究が期待されます。

(了)

 

 

 

 

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前回は、ヒトと水の深い関連について考えました。

アフリカでヒトは、気候変動で森の食料が減ったためそこを出て重要な水が得られる所でそこの食物にも対応していった、また、天敵であるヒョウやライオンなどのネコ科動物は水が苦手なので、水中は逃げ場所にもなり水辺は安心できる棲み処であったのではないか、などがヒトの体にも進化をもたらしたものと考えます。

火、簡単な道具と言葉コミュニケーションを獲得したヒトは、それらをもって水、食、安全が得やすく確保される生活が当時の基本です。そして、湖・川の水辺からやがて海水域へ適応していくのはそう難しいことではないでしょう。

この水辺という食べる食品と棲み処の幅の広さの適応性(当初は寒冷降雪地を除く。)が、氷河・乾燥期の海水面が低下し移動しやすい安全な海浜が拡がった地域において人口を増やしながら、海浜のマングローブという生き物が豊富な地形の特色へ適応しつつ、まずは東南方世界に早く進出して行けた理由でしょう。

 

従って、人類史初期の営みは海浜・川辺にあったと考えていますが、当時からは海水面が130mも上昇していますので痕跡の発見が極めて困難で、石以外の木、竹といった重要な生活の遺物は万年の時の長さに堪えません。

陸上で発見された遺跡・遺物を主にした現在の歴史記述となっていることは理解できますが、その偏重には疑念があります。

当地に住んで訪問した土地や種々の資料から、人類史初期の営みが海浜・川辺にあったことを私は「歴シニア」として確信しています。

今回、南スラウェシ・マカッサル、東ジャワ・スラバヤ地域を行動しましたが、スラバヤの独立闘争記念塔博物館の壁画で此処の人たちが普通にイメージする伝統の暮らしの基本が正に海浜・川辺にあることに感じ入りました。

万年前から続いたマカッサル北のマロス洞窟では、洞窟暮らしであっても魚介類や舟と密接な海の民の暮らしでした。

勿論、マカッサル地域で発見される石器は動物を狩猟し食していたことも示していますが、マロスの当時の海浜(現遺跡公園)、海岸崖の地形、貝塚群は明らかに魚介類が主たる食であったことを示しています。

 

パンカル半島から、ユーラシア大陸東岸地域、比・台湾・日本などの石器人の暮らしを欧州のように”狩猟・採集”と表現するのは誤解を招くと考えています。私は、水産物(川を含む)を得ることを漁撈というのであれば、漁撈及び狩猟採集の暮らしとすべきと考えます。

このことは、その後の歴史を考える上でも重要であり、この漁撈を主に暮らした人々とユーラシア内陸で狩猟を主に暮らした人々とではその後大きく違った発展の道筋をたどり、両者を対比して捉えることが歴史理解をより適切にし、また、寒冷降雪地への適応を遂げたかどうかの区分も重要な尺度であると考えています。

その後の歴史は、狩猟を主に寒冷降雪地への適応を遂げた戦いに強い、広域での行動力のある種族がリードするところとなりました。(農耕と牧畜という区分も重要です。)

そして、現代の繁栄をもたらしたと言えますが、地球環境の悪化、争いや貧富の差などの諸問題も副産物としてあります。従って今の時代、人類初期の(結果として)自然と調和し漁撈を主にした海浜・川辺の暮らし方に参考とすべき点があり、まずは概念としてしっかり認識する必要があると考えています。

それは、4万年前頃、列島に移り住んできた日本祖人から縄文期の人たちの暮らし、私たち日本人の原点を考える上で重要なことであるからです。

2万年前頃には、特に北方から狩猟を主とし寒冷降雪地への適応を果たした人たちが多数入ってきていますが、先住者の海浜・川辺での暮らしぶりの影響を受けたと思われますし。

また、1万年前頃の新宿、市ヶ谷で暮らした縄文人は、成人男性が狩猟を行った食の主体は海浜・川辺の暮らしぶりのようにみられます。

この老若男女の役割の違いを踏まえた時代ごとの食の主体、暮らしのイメージ化も重要で、今や先史研究において単なる狩猟採集とするのでは表現が荒いでしょう。

(了)

 

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フェニキアの活躍した更にずっと以前、そもそも我々に繋がる人類史の始まりはアフリカ東北部から紅海の海に乗り出したバンドから始まりますが、このことが現生人類史の原点なのではないかと考えています。

つまり、進化上サルから決定的に分かれたと言えるこの海へ乗り出したということにもっと注目する必要があると考えます。

第1に、私たち現生人類の体について、サルになる前のずっと遠い昔に海から上がった当時の痕跡を残しているのか、サルから分かれるころの前後に淡水の水辺で暮らしていたのか、ともかく水に馴染む幾つかの特徴があります。羊水から生まれますし。

何といっても人の一番の特徴はいずれ出産や言語にも影響してくる直立二足歩行ですが水中では浮力が働き無理なくこの体型に移行していけます。

また、サルと違って体毛が薄く皮下脂肪が多いですが水に戻ったクジラやアザラシなどは、水中での行動がし易く冷たい水温に対応するためそうなっています。

人間の手には水掻きの痕跡がある、赤ちゃんは泳げる、女性は水中出産ができ水中交尾もできるなどいろいろな特徴があります。感情で泣き、涙を流すこともコミュニケーション上の重要な特徴です。

そして、ヒトの場合、潜る前に大きく息を吸い水中では息をとめたり吐きだしたりと自由に呼吸することができますが、他の類人猿はできず水に潜れないという大きな違いがあります。

また、このことが「あ~~」と「あっ」の違いを自由にできることになり、やがて高度の言葉ができる体の構造上の基盤ともなっています。

気候変動で森の食料が減り水辺の食物に対応した、天敵であるヒョウやライオンなどのネコ科動物は水が苦手なので、水中は逃げ場所にもなり水辺は安心できる棲み処であったのではないか、などもこの進化をもたらしたものとも考えられます。

そして、湖・川辺からやがて海水域への適応はそう無理なことではないでしょう。

この食べる食品の幅の広さ、棲み処の幅の広さという適応性(当初は寒冷降雪地を除く。)が、海水面が低下し移動しやすい安全な海浜が拡がった氷河・乾燥期にも人口を増やしながらまずは東南方世界に進出していけた理由でしょう。

そして、海浜のマングローブという地形の特色への適応も注目されます。

(Wikipedia マングローブ)

干潟の性質を持ちつつ、そこに樹木が密生する場所である。干潟は、河川上流からや海から供給される有機物が集まって分解される場所であるため、非常に生産力の大きい環境であり、多くの生物の活動が見られる場所である。

主要な動物は海産の底生生物甲殻類貝類等)や魚類であるが、哺乳類鳥類昆虫類なども利用している。アイゴ類やハゼ類など、多くの小魚がみられ、さらにそれらを捕食するフエダイ類やオオウナギなどの大型魚もいる。

マングローブが自然の防波堤となることで、津波の人への被害の原因となる漂流物体が食い止められるというものである。紅海では砂漠の沿岸でマングローブの形成が試みられている。

今回、マラッカ海峡に面するスマトラ島の北部・東部を旅し、考古学研究所や博物館などを訪れました。容易に想像できますが、万年の昔から環境に適応し海浜・川岸の民として出アフリカを果たした現生人類が生きてきたことを実感しました。

鉄も溶ける万年の時の長さに貝塚以外には残る物が殆どなく、生活の場は今は海底ですし、どうしても遺物が残る洞窟の生活に考古学の注目が集まりますが、それは明らかに少数派のことです。洞窟が収容できる人数など明らかに限りがありますし。

このことをまず歴史の事実ではなく真実として、記述の中心に据える必要があります。

そのことから、海・川の交易が、一部の狩猟と栽培・家畜・工芸品などが、埋葬などの習俗が、そして階層ある社会の組織化がもっと早い時代に果たされていたことが推定されます。

これまで等閑に付されていたメソポタミア文明以前の最終氷河期(2万年前頃)に遡るいわゆる石器人の活動力を見直す必要があります。

即ち、石器人と呼ぶよりも”低地の水辺人社会”というべき生活実態を持った人たちによるサルの社会と決定的に異なる活動力を有する人間の「文明の曙」時代・原点と認識すべきです。

トルコ東南部のギョベクリ・テペ遺跡では、驚きの巨石建造物が、1.2万年前頃に大規模に造られ続けています。

このホームページで既にお伝えした海浜・舟行ルートによる寒冷降雪地適応を受けていない現生人類・日本祖人のアメリカ進出の可能性などもその1例です。

小学生くらいはスマホなどから解き放ち、仕事で忙しい大人たちもレジャーで焚火と水辺に親しむようにもっと社会的に野外活動の環境を整えましょう。

そうすれば、眠っている日本祖人のDNA要素が活き活きして本来の日本人らしい健全な人間味を取り戻し、勉強・仕事の能率も上がり、殺伐とした事件もずっと減るのではと南のこの地で思い至ります。

(了)

 

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海の民フェニキアFhoeniciaをずっと追ってきましたが、史上あまり採り上げられないのは遺跡・遺物が陸上主体にならざるを得ないこと、フェニキアがギリシャ、ローマに敗れたことで、歴史の研究・記述をリードしている欧米の人たちの関心が今一つであったのはないかと感じていることが根底にあります。

一時は東西の交易の中心として栄華を誇ったエジプト・アレキサンドリアAlexandria、その知の宝庫であった図書館にはフェニキアに関する記述が豊富にあったと言われていますが、失われているのは誠に残念です。

そして、そもそも人類史初期の営みは海浜・川岸にあったと考えていますが、当時からは海水面が130mも上昇していますので発見が極めて困難なため、陸上遺跡・遺物を主にした歴史の偏重に対する疑念があります。

(現在、仮に海水面が130m上昇しますと世界の主要な都市は殆ど海没し、日本でも主要な都市は長野、甲府、山形などに残る程度になります。)

また、石以外の木、竹といった重要な生活の遺物はそもそも鉄をも溶かすと言われる万年の時の長さに堪えませんので、実証という点で現状がやむを得ないという理解はできますが。

更にもう1点、歴史の記述が発見され実証されたことだけで記述することが本当に真実に迫っているのかという全く別の疑念があります。

その疑念は、当地に来て有名なジャワ原人Jawa manに会いに行き、益々強まりました。

見てください、彼らは所在なげに裸で立っています。実証される物が有りませんのでこうなります。但し、重要な実証は彼らが洞窟ではなく川岸の平地で生活していたことです。

虎なども居た地で百万年前に遡ろうかという原人でさえ、川岸の平地で暮らしていました。当時は分かりませんが、私が訪れた中ジャワ・ソロの夜は涼しい快適なものでしたが、所在なげに立っているような暮らしでなかっただろうことは想像できます。

つまり、発見された物を主に歴史を描くことは着実、真実そうでその実、真実を描いてはいないということです。人里離れた洞窟に遺物が残り実証できるのは理解できますが、数に限りある洞窟暮らしkehidupan dalam goaは、現生人類初期の暮らしを考える場合、その主体ではなかったであろうということです。

従って、人類史の主体を描く場合、実証に依拠するに努めつつももっと緩やかに想像力を働かせて”筈だろう”という諸説を展開すべきであると考えます。実証を積み重ねた定説がしばしば大きく覆るのが人類史ですから。

つまり、実験物理学と理論物理学の例でいえば、もっと理論(歴史考古)学とでも呼ぶべき分野がおおらかに充実してよいと思うのです。

さて、十万年前頃にアフリカを出てkeluar dari Afrikaユーラシアに達した現生人類の部族は、火と石器を扱い協力のコミュニケーション力もあったことから、ここへきて感じますがもっと赤子、幼児を加え年寄りもいたでしょう。学術的には「バンド」と呼ばれる小部族として。

 wikipedia紅海イエメン側

現在、出アフリカの成功バンドは、海水面が数十mは低下していた状況で、アフリカ東北―紅海―イエメン―アラビア半島南側―ペルシア湾―ユーラシア到達と考えられています。

それは、環境に適応し得た運の良いバンドが拡大していったことでもあります。スエズ運河正面のように出アフリカし得てもやがて消えたバンドも無数にあったであろう上でのことです。

この成功バンドは、狭まっていたとはいえともかく紅海を渡り越えてイエメンYemenに達しています。ここで私のアフリカ勤務体験に基づく歴シニアの実感なんですが、この紅海越えは、注目してよい大変重要なことと思います。

それは、700万年前頃に最後の枝分かれをしたサル・チンパンジーと決定的に違う特性だからです。アフリカ西部アンゴラの浜辺の食堂で食事をしていたとき、広い海辺で2人の少年が竿を持って海の中で遊んでいるのを見て人とサルの違いを強く感じました。

紅海越えのバンドは、その後の数的な拡大を考えれば、何かに追われ迫られ海に逃げ込んでいったわけでは有りません。

筏を使ったにしてもこの海に乗り出していくという行動は画期的ですが、考えたいのはその行動の前に助走、即ちバンドの皆が海の水を厭わない慣れがあったことです。

さて、下の人類の進化図evolusiを見ました時に、200,000年前頃、火を自在に扱えるmengunakan apiようになってから今の我々に継がります現生人類asal manusia modernがアフリカで誕生し、100,000年前頃には海を越えユーラシアに渡りmenyebarang ke Eurasia、そして、50,000BP年前頃のコミュニケーション力、40,000BP年前頃からの芸術的創造性の進化が特筆されます。

しかし、この進化図には有りませんが、海を越えてユーラシアへ渡った人たちは、ライオンやトラなどはもとより、森のチンパンジーと全く違う、水を厭わず水産物をも食するという火の使用に匹敵する意義ある優れた水辺適応 の進化素地を上図のどこかで遂げていたのでは考えます。

こんな様子は、チンパンジーには考えられません。森や草原で生きる縛りから完全に解き放たれています。

この適応進化を遂げたのは、いつ頃、(アフリカの)何処で、何故か、は人類史の重要な問題と感じています。(そして、もう一つがその後の展開過程での寒冷降雪地適応 です。)

我々に繋がる人類史の始まりは海に乗り出したバンドから始まりますが、考えようによってはむしろ水産物をも食し海の出アフリカを果たせる進化を遂げた種族の出現を待っていたかのようです。そしてこのことが現生人類史の原点なのではないかと。

(了)

 

 

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