日本人について、古い昔と言っても紀元後のことですが、そのイメージを活字で辿れるのが魏志倭人伝です。 日本への人の流入は、基本的には万年の昔より沖縄・ 九州からでしたので西日本の倭に注目してよいでしょう。 人類の展開湖南15.10peg

倭人伝では、男子無大小、皆黥面文身とあり、続いて以下のように記述(和訳)されています。

皆黥面文身」というように男子はみな顔や体に入れ墨し、や朱や丹を塗っている。 (倭人伝の時代)今、倭の漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕り、身体に入墨をして大魚や水禽を避けていたが、後には飾りになった。

入墨は国ごとに異なり、あるいは左に右に、あるいは大に小に、階級によって差が有る。

と、かなりしっかり観察された表現になっています。

近代になっては 最早飾りと評すべきですが、明治8年に撮られた日本らしい髷のある写真でも名残 りはあります。

(A tattooed man’s back, c. 1875  Wikipediaから  )

そしてこの文身・入れ墨に注目して地域をみますと、アジアの楽園から倭に至る海人たちの今に残る痕跡からその共通性は明らかです。

 

海入れ墨1126peg

水産物を食し、海洋交易し、信仰や冠婚葬祭など海と共に生きる共通性ある習俗は、はっきりユーラシア内陸の種族とは異なります。

海浜、黒潮海上の道を通じて万年にわたり培われた狩猟・採集・漁撈のこの南方の生活文化が、今に繋がる日本の基層文化でしょう。

そして北海道民と言っても、元をたどれば秋田であったり、山形であったり、遠く奈良であったりするように、日本へは楽園のどの地域から出た人たちなのだろうと夢想してしまいます。

区分図peg縮

(Dhani IrwantoのSundaland水系図から作成)

なお、白矢印は人・交易の行き来、スンダ海峡からの白線はインド洋と南シナ海を繋ぐ当時の水路想像です。

 

 

 

 

これまで出アフリカ後の現生人類の展開、古さを誇るタミル文化と先史時代のアジアの言語について考えてきました。

人類の展開言語11.16peg

A. 日本語は、地理的に遠いタミル語が近しいし、アルタイ語の影響もあると言われながら、隣の中国語と異なるのは何故か?

B. 男性ミトコンドリアDNAが、地理的に遠いチベットやインド洋のアンダマン島の人たちと近しいのは何故か?

これらのことを考える参考図が下図です。人類の進出展開から考えて行けば、ABそしてC-Fまで太古の東部ユーラシアは共通性ある言葉でしたでしょう。

言語図アジアpeg11.23

その後、強い内陸族の言語が拡がってE,Dなどでは痕跡が失われたのでしょう。

人の古いタイプのDNAや基層と言われる言語の痕跡は、タミルと島々(日本など)や陸の孤島的な地域(チベット、雲南など)に残ったということでしょう。

3500年前頃に、台湾-比とタイ-マレーの両ルートから大陸人の大きな南下移動(図の青線)があり、楽園の祖先・祖語Aは大きく変容しましたa’。

丁度、縄文人の暮らしている所に新たに大陸や朝鮮半島から弥生人や渡来人がどんどん入ってきたようなものです。

従って、単に現在の状況を見ただけではよくわかりません。その基層に注目する必要があります。

よく日本とポリネシアの近さが言われますが、ポリネシアは、たかだか3千年前くらいに楽園地域のラピタ人が進出展開していったものです。

黒潮流が両者の関係のロマンを生みますが、日本にはポリネシア人よりずっと前の3万数千年前から現生人類が、1万数千年前には土器を持つ縄文人が暮らしています。

従って、Aから進出していったポリネシアAPからというよりも、長い間にA,C,Eから沖縄諸島や朝鮮半島経由で日本列島へと伝わった影響が大きいと考えるべきでしょう。

日本、ポリネシアという島々に共通の痕跡がある事情は、先に述べたとおりです。

即ち、双方の基層となった「南方語」と言われる楽園Sundalandの言葉を認識する必要があります。

木、石、果物など生活の基本的な言葉の起源がA,Cであり、アルタイや朝鮮語にはなく、魚、酒なども同様で、古語で箱・bakoは竹で編んだ篭のことで朝鮮含め起源はAだそうです。(村山七郎 日本民族文化誌)

今私が使ってる辞書でも、篭はbakul、そして行商のオバさんもbakulなのは納得させられます。

問題は、単に「南方語」と表現されるためイメージがはっきりせず、軽視されていることです。

我らの万年の祖先や祖語であるアジアの楽園Sundalandの人々や言葉に固有名詞が無いからです。

実は、西ジャワにスンダ人がいますので、蘭学者によるSundalandの命名も適切でなかったです。ジャワ人たちはもとより、マレーシアなども納得しないでしょう。

同様に、インドのネシア(島々)という附属的な国名もひどいものです。これら植民地支配者によるネーミングを変えることが、正しい認識に至る第1歩と考えます。

Indonesia, artinya nesia India, nama negari itu harus diubah.

無論、固有名詞が無いのは陸地過半が沈んで今は無く、また、先に述べた2ルートからの現在に及ぶ民族南下の影響が強かったこともあるでしょう。

しかし、このアジアの楽園Sundalandを祖先・祖語Aと認識することは重要で、アジアの先史理解の言わば「補助線」です。

言語図アジアpeg11.23

この補助線Aを認識すれば、これまで採り挙げた日本と台湾、比、江南、チベット、雲南、インドネシア、タミル、アンダマン、ポリネシアなど、例え遠隔地との関係であっても歴史の流れの中で理解できます。

次回は、活字資料に登場する昔の日本、倭について、楽園地域などとの興味深い関係を紹介し、考えます。

これまで現生人類が出アフリカからユーラシア海浜を東進し、タミル、アジアの楽園Sundaland、そして北上して行った海浜ルートrute pantai lautを見てきました。 この北上により、日本には3万数千年前頃から進出し始めて全土に拡がり、2万年前頃には樺太方面から北海道へ進出してきた部族もおりました。 人類の展開湖南15.10peg 近年、中国南部湖南省で発見された人骨が、伝えられるように8万年前以前とすれば、約7万年前の楽園内トバToba(インドネシア・スマトラ島)の大噴火が注目されます。 特に、楽園西部やインド亜大陸方面に大きな被害をもたらしたことと思います。5万年前頃に新人類は言語など大きな進化を遂げたと言われていますが、大噴火災害の困難が食料の獲得や精神的、心理的な影響を与えたのかもしれません。 さて、この現生人類のアジアにおける進出展開は、インド亜大陸、東南アジア、極東地域において、アジア人の基層となる海浜・河岸ルートの万年の言語と文化をもたらしました。 他方、ユーラシアの内陸には、大型哺乳動物を狩猟しつつ寒冷地への適応を遂げて遊牧を行うなど、海浜ルートで水産物をしっかり食する人々とは異なる人々がいます。 内陸で大型動物を仕留めて食し寒冷に耐え、体格が大きく戦いにも強い集団の生活文化・言語の影響dampak kehidupan pedalamanがユーラシア東・南沿辺に及ぶようになってきました。 楽園の過半が海没(約7千年前)した後、内陸アーリア人は北西からインド亜大陸へ、中国の中・西部、北部の内陸人や内陸タイ人はユーラシア東部沿岸地域にまで拡って行きました。 インドネシアにもタイ・マレーシア方向とフィリッピン方向から、3,500年前頃に人々の大きな移動流入がありました。 人類の展開言語11.16peg そして、新たに拡がった内陸言語・文化の強い影響から、基層となっていた万年の生活文化・言語は、インド亜大陸南部、ヒマラヤ及び中国南部等の山岳地域、ユーラシア東・南の日本、インドネシアなどの島々(太平洋含む)に残ったものと考えます。 その①基層の海浜・河岸的なるものと②その後の新たな内陸的なるものと③それらの混合・中間的なるものを特徴とする人々の違いが生じました。 それらは今に残り感じられるもので、現在、世界発展の焦点となってきたアジアの地域認識、人々の区分認識の基礎になるものと考えます。    

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前回、出アフリカ後の人類の展開を考慮した言語系統樹を考えましたが、更に以下2点について考えを進めます。

A. アジアの楽園Sundalandとは、どのような状況の地域であったか?

B. 当時の日本との関係ではどうなのか?

出アフリカ後の人類の東進は、海浜をタミルからアジアの楽園Sundaland(下図の青丸)へ展開し、ユーラシア東岸地域を北上してシベリア南のアルタイにまで至りました。

展開言語図日syuku10.3

その後、中国内陸語やタイ語の拡がり、北方からの日本語への強い影響などがありました。

言語系統図peg1112

そして、東進北上ルートでは、長期間(約2万-1万年前)・広域の半島大陸地が恵まれた条件にありました。

そのアジアの楽園Sundalandの言葉(EU語的ながら)が、アジアの言語の基層をなしていたであろうことを認識しました。

それでは、その地域はどんな状況であったかをDhani Irwanto氏のスンダランド水系図から、私が推測した地域の区分の1例が下図です。

言わば万年の昔の世界の中心Pusat dunia地域の区分図で、白矢印は、交易や人の移動です。

私は、インド洋と南シナ海の交易の連接を考えて、現スンダ海峡Selat Sundaからの白線水路を描きました。

区分図peg縮

線で囲まれたそれぞれの特色を有する地域において、基本的には川・海のそばで様々な多数の部族が狩猟・採集・漁撈、貝・鉱物等の交易をして暮らしていたことでしょう。

ここは当時の気候・植生等の環境条件から最高の人口密度であったと考えられ、正に世界の中心pusat duniaであったでしょう。

石器時代ではありますが、灌漑農耕や交易などにより進んでいた地域は、巨石遺跡を考えれば既にヒエラルキーのある人間の社会でしたでしょう。

神事・冠婚葬祭、建設などの規模の大きい集団行動をしていたものと考えられ、類人猿集団と全く異なる新人類文明の曙というべきでしょう。

なお一部に、図の右下部ジャワ海地域が最も進んでいたという推論が出されていますが、図のどの地域が最も進んでいたか興味深い議論が始まっています。Kota Sundaland, di mana?

そしていずれかの地域の部族が、時に急に海没していく状況もあった中で地域を離れて北上し、途中の地域での居住を経てその子孫たちが日本に到達したことでしょう。

時代も、時に部族系統も異にしますが、前述の基本的な海浜ルート生活の習俗を携えてです。Warga keturunan Sundaland tersebar ke utara dan tiba di Okinawa, Amami, Kyusyu selatan Jepang dengan gaya kehidupan sebelah sungai atau laut.

 最近の研究により、広くない奄美群島の島でもその当時の植生の状況等から、狩猟・採集・漁撈により十分な食物を得て居住することが可能であったとの見方に修正されています。

 

奄美peg

海水面が100mは下がり島の砂浜が拡がっていた時代(2-1万年前)、舟での行動にも長けていた海人たちは、南方から、沖縄-奄美-南九州というルートで日本へ進出することは十分有り得ました。

但し、屋久島北の喜界カルデラの大噴火(約7千年前)で先進の九州が壊滅的な被害を受け、また千葉に至る黒潮沿岸地域が大きな被害を受けましたことは誠に残念な日本先史です。

 

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引き続き基層を探りますが、スンダランド会仲間が、世界の言葉の系統樹をアップしましたので今回は言葉に注目します。

出アフリカ後の人類の展開を考えますと、南方系言語として中国東沿岸・台湾の祖語が、既に内陸部系のシナ・コーカシアンに押されて痕跡が見えませんがあったでしょう。

1図 言語系統図

言語樹peg

上図左部の中国、福建、タイ及び右上部の印欧系ヒンディー、ベンガルの言葉は、いずれも大陸の内陸発の新しい強い勢力により広められた言語ですね。

我がホームページで注目してきましたタミル語は、同じ国のヒンディーとは根を異にしており、お伝えしましたようにアルタイ系と同根です。

従いまして、日本語が似てるのはタミルだ、いやアルタイだという日本の議論はなんだかなあです。

そして日本語、また、韓国語も特異な扱いになっています。

そこでもう一度、いつもの人類の展開を再確認します。

2図 人類の進出図

人類の展開湖南15.10peg

当然、アジアの楽園Sundaland地域で暮らしていた人々は、前述の言語樹のマレー・ジャワ・比フィリッピン系の言葉を話していたことでしょう。

アジアの楽園Sundaland地域は、今のヨーロッパ共同体EUのようなものですので、北と南、東と西では言葉も相当違ったことでしょう。

但し、万年前の複雑でないコミュニケーションでしたので今のEUの国々よりは通じていたことでしょう。

さて1図について、地図の東西南北を反映し、当然人々が話していたアジアの楽園Sundaland語を記述しますと以下のようになります。

 

 

言語系統図peg1112

南の海辺-北上ルートはかなりイメージできますが、北の中国内陸語、日本や欧州に影響を与えたシベリア南部の言語については今後の研究です。

人々は、長い歴史において東西南北移動し、影響し合っていましたので確たることは分かりません。

しかし、基本的な成り立ちや相互の関係hubunganは上図のようなものと考えられ、生活文化の特徴とも符合する納得のいくものとなっています。

何より万年前の当時存在し、その後の陸地の海没に伴い一部は残り、消滅や離散した言葉も考えられる”スンダランド語”Bahasa Sundalandをまずはしっかり認識する必要があると考えます。

 

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前回、日本縄文人Jomonの人類史上古い男性DNA要素が、はるか遠いチベットTibetやミャンマー南方海上のアンダマンAndaman諸島で共通に見られる不思議さについてお伝えしました。

しかし、身近なところでアイヌの人たちは直系のように思われますので、先住民族としてもっと尊重され、その文化や歴史が更に研究され保存されてよいと思います。

小さなことですが、私にはアイヌの人たちの鉢巻Ikat kepalaも興味深いのです。

「アイヌ 抗議」の画像検索結果

(logsoku.comから)

と言いますのは、

アジアの楽園Sundalandの研究を始めて最初に参加したシンポジウムで、さっきまで普通にお茶飲んで話していた先生がいざ登壇となると鉢巻をしましたのでびっくりしました。

私たちも運動会など気合を入れるべき状況では鉢巻をしてきましたので。(選挙の先生方もそうですし。)

鉢巻syuku

その後、スンダSunda文化では大切なときに鉢巻をすることは重要なことだと分かりました。

更に、写真の老人を見てもらいますと分かりますが、何となくアイヌの人に似ているように感じられます。

CFDスンダ会縮

もうすっかり時は移り、大昔を見出すことは大変難しいですが、こんな小さな類似性も関係を感じさせてくれます。

この点で、近年アメリカにおける先住民族インディアンの先史時代を含む発見、研究は素晴らしいです。

メイフラワーMayflower号でピューリタンがアメリカに渡って(1620年)次々に入植が続き、独立宣言に至ってから約240年を経て、ようやく先住民族を至当に見つめ、土地のルーツを考える成熟に至ったものと感じています。

人類展開海浜ルートのドラヴィダ・タミル人からスンダランド人、縄文人、アイヌ人・・・そして南北アメリカ・インディアン、インディオの人たちまで切れ目のない相互の関連研究が進みますことを期待しています。

人類の展開湖南15.10peg

タミルインディアン縮

何といっても私たちの基層を探る道ですので。

 

 

前回まで、アジアの楽園Sundaland西方のタミルを見てきましたが、最近の日本人のDNA調査から日本人についての新たな見方が出てきています。Recent survey of Japanese men’s DNA reveals amasing results and leads to a new hypothesis.

A.日本人男性のDNAは、近い中国大陸、朝鮮半島の人たちとかなりはっきり異なる不思議さがあります。Men’s DNA of Japanese’re, mysteriously, quite different from those of mainland Chinese and K0reans.

B.日本人は、基層としての古い時代の縄文人(1万数千年前~)の要素約32%とその後の弥生人(約3千前~)の要素約54%から成ります。Men’s DNA of Japanese’re consisted of those in Jomon era 32% as a base layer and in Yayoi era 54%.

(NHKオンラインから)

この縄文人のDNA要素は、近隣の中国大陸や朝鮮半島では見られません。This Jomon DNA aren’t found in mainland Chinese and Koreans.

C.ところが、この日本縄文人のDNA要素は、はるか遠いチベットやミャンマー南方海上のアンダマン諸島(300の島々、35万人)で見られる不思議さです。(This same old Jomon DNA are found in Tibet and Andaman Islands.)

また、既にお伝えしましたように、言語ははるか遠い南方のタミル語です。 language is similar to none other than Tamil’s.

日本類似DNA言語116peg

特にアンダマン諸島との類似性は、はっきり海のルートを示すものであり、興味深いものです。

d.  一見不思議に見えるこれら遠隔地の類似性も、その間のアジアの楽園Sundalandという「補助線」を引いて考えれば不思議でもないです。These aren’t so mysterious by paying attention to the ancient landmass Sundaland ”auxiliary line” existed between those areas.

幸いにして島や陸の孤島に残っていたこの痕跡に注目する必要があります。

今や、遠い仲間をしっかり認識し、アジアの楽園Sundalandという補助線の導入により古い先史時代の認識を換える必要があります。View of ancient Asian prehistory needs to be revised now by drawing this auxiliary line.

海のルートで繋がった広域の共通性ある基層の人種・言語が、その後、内陸の強い勢力の南下により追いやられ、分断され、消えていった様子が窺えるものです。

 

ここのところ、アジアの楽園Sundaland西方の南インドのタミルTamilについて、追ってきました。

A.南インドのチェンナイChennai遺跡地区のアッティラムパッカムAttirampakkamで、インドとフランス合同チームが150万-100万年前(*前期旧石器時代)の石器を確認しました。

タミルjPeg11.4

*前期旧石器時代:ハンドアックスがひろく用いられた時代。この時代の人類はホモ・ハビリスおよびホモ・エレクトスが主流であった。

発見された石器等には、中石器時代の物もあり、12万年前頃まで継続的に類人猿が暮らしていたとみられます。

B. このことから、南インドには、ジャワ原人や北京原人より古いとみられる原人の時代から、新人の現生人類がアフリカを出てユーラシアに渡り海浜を東進した時代まで、概ね痕跡を辿りうる驚きの継続性が確認されたことになります。

この確認により、インド先史特に南インド先史は、見直されるべき世界人類史的な意義を有するものです。

1.遺跡の調査

1863年、チェンナイ北西で英人Robert Bruce Footeらにより旧石器時代の遺跡が発見されました。

近年、インド、フランス隊により12年にわたる困難な発掘調査が続けられ、3,528点の遺物が収集されました。

それら遺物がアフリカや西アジアで出土したものとの類似性が認められ、遺跡最古の年代が確認されるとともに12万年前ころまでの極めて長期にわたる継続的な痕跡が確認されました。

(Attirampakkam: Sharma Center for Heritage Educationから)

確認された石器等は、下図のとおりです。

(Ithihaasaから)

2.発見の意義

60万年前頃の遺跡が発見されている欧州はもとより、ジャワ原人や北京原人よりも古い原人の生活の痕跡が発見されたことになります。

欧米では、文化、文明は西からアジア、東南アジアに伝わったという見方が依然牢固としてあります。

しかし、英中部Sheffield大の上級考古学者Robin Dennelは、4年前の時点で既に石器製造文化は欧州よりもインドの方が早いという認識の見直しを主張しています。

インド南部の東沿岸のチェンナイ(マドラス)という海浜の地域で発見されましたことは、私にはこれまでの人類の進出展開の認識、タミルの重要性を裏付けるものと考えられます。

人類の展開湖南15.10peg

そして、このような発見と日本での新たなまた別の発見をともに並べて考察します時、日本人にとって意義深い重要なことが事が見えてきます。

次回、考察を進めます。

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