先日、バンドゥン北方の行楽地で西ジャワ州教育局が主催するスンダの言葉や芸術の振興を図る催しに招ばれて観る機会がありました。

伝統の踊りや新たな装いの歌が披露され、州内各地の生徒たちのチームによる歌合戦もありました。

会場は満員で、地域の人々は廊下も埋め尽くして観ていました。若い生徒さんたちが多かったので、踊りの男女の絡みの場面では大歓声に包まれました。

踊り 歌

参加チーム 男女踊り

会場入り口では、分厚いスンダ語の辞書や人類の百貨店らしい多さを誇る民話が沢山並んで売られていましたのも印象的でした。(英)オックスフォードのOppenheimer教授が、大洪水話など世界に拡がった当地の神話・民話も一つの要因として、アジアの楽園を始源の意味を込めて「東のエデン」と表現したのもうなづけます。

民話

このように、国の統一をしっかり強調し施策している一方、失われていっている地域の言葉や文化を大切にして何とか伝えようと努力されていることに感心します。お国も町興しが課題のようですが、まずは伝統を見つめることからと思います。

そして、私は動き回れば、あ、ピラミッド山だ、バンチェンでも見た2段屋根だ、となります。タイ東北のバンチェンとバンドゥンの言わば郡部の一部の家の伝統的な造形の類似性に、旅したアジアの楽園内の距離の遠さを思うと不思議な気がしています。

ピラミッド 2段屋根

 タイ東北のバンチェン遺跡は、1967年のテストサンプルの測定で7,000-5,000年前と出ました。その後、定住し始めた人々は、5,600~1,800年前頃まで文化の華を咲かせていたとされています。

最初の発見は、1957年に自宅建設中のお医者さんが彩色された土器壺を見つけて学校に贈り、その後も見つかった古い土器は学校に展示されました。

66年に米ハーバード大の学生が人々の生活の調査に来て多くの土器片を地上で見つけてタイ美術館長に届け、館長はタイで見たことのない先史時代の遺物と判断し、テストサンプルを米ペンシルベニア大に送り、前述の測定結果となりました。

バンチェン遺跡と言えば、ユニークなデザインと鮮やかな彩色の土器類です。

陶器

ところが、82年からのペンシルベニア大とスミソニアン博物館による米国巡回展示のタイトルは、「バンチェン-失われていた青銅時代の発見」でした。

青銅

青銅文化は、5,000年前頃中東で始まり、2,500年くらい遅れて東南アジアに伝わったという定説の大変更を迫る発見の衝撃でした。バンチェンの物は、この遙かな遠隔の地で5-4,000年前頃からのものです。

それは、その後の鉄器時代をも経た連綿と続いた文化であって、東南アジアに対する見方、認識を大きく変えるものでした。

銅は周辺の地域から、錫は、ラオスの古都ルアンパバーンや現首都ビエンチャン地域からのものとみられ、タイ-ミヤンマー国境地域からのものも考えられるという広域にわたる交易状況も明らかになっています。

そして、これらメコン川流域のラオス大都市の何千年前からの由来も想像させます。

中東から伝わったのだろうか、楽園発だろうか、タイ東北の楽園の一隅だけのことだろうか、楽園の他の地域や沈んでしまった楽園中央はどうだったのだろうか、考させられます。そして、昨年末の期末試験後に飛んだ錫の名産地、ジャワ海のブリトゥン島が想い出されます。

来年、日本で開かれるサミットの開催場所は、日本の美しい自然と豊かな文化、伝統を感じていただける場所として伊勢志摩に決定されたというニュースを見ました。 既にわがe-ブックを読まれた方はお気づきのとおり、私は伊勢神宮などの千木が、アジアの楽園内では普通に見られる点に注目しています。

「人類最古の文明『アジアの楽園』探訪記」(広報配信中)こちらをご覧ください。

images[5]

皇大神宮(ja.wikipedia.orgから)屋根の前後の千木

e-ブックで紹介しましたほかにも、例えば西ジャワのスカブミの古いオランダ洋館でさえ伝統様式として千木が見え、タイ・バンチェンの例もお伝えしたとおりです。

スカブミ洋館 格物館前タイ土産店

西ジャワ・スカブミの郷土資料から    タイ・バンチェン博物館前の土産物店

因みにスンダ゙のある人は、これに関する我が質問に対し、スンダ語で木が二股になっているのをチゲというそうです。私は関係あると思っています。

この類似性について、研究された資料は無いのではと思っていますが、この点を是非踏まえた上で誇るべきお国の施設に各国の首脳をご案内していただきたいと赤道を越えた島から気にしております。

いよいよ本題に入ります。まず、最初に感じましたのは、副題のとおりです。プミポン・アドゥンヤデート国王(ラーマ9世王) (1946年6月即位)は、考古学や博物にもご関心を持たれて各地をご訪問されていますが、1972年3月、妃殿下とともにバンチェン遺跡の発掘現場をご視察されました。

「それらの貝は、淡水からか海水からか分かっているのか?」

「遺物は発掘現場で見たいと思っているが、何故、これほど多くの遺骨や彩色土器が出てるのか? ここは墓か?」

「赤く彩色された土器は、焼いた後で彩色したものだな?」

「遺骨の年代測定は、できてるのか?」「バンチェン遺跡は、国際的な関心事であり、年代測定には、皆の協力と参加が期待できるし、より信頼度が増すだろう。」

「この遺骨が第1、第2ピット(穴)よりも古いというのは、深いところにあったからということか?」

「ここに居た古代の人々と200年前にここに移住してきた人たちに何か関係はあるのか?」

国王と妃殿下のご視察は、遺跡が特筆すべき国家的な考古学遺跡であると関係者に認識させ、それらの協力、バンチェン遺跡の永続的な保存と発展を呼び起こすこととなった。                                      (バンチェン国立博物館ガイドから)

国王と妃殿下のご視察は、74年米ペンシルベニア大学との共同調査、75年国立博物館開館、80年ニュージーランドの大学の調査参加、ハワイ大学の遺骨調査、82年から4年間の米国巡回展示、次いでシンガポール展示、83年ケネディ財団の博物館への資金支援と国際化し、92年、遂に世界遺産に登録されました。

2006年に博物館はリニューアルしていますが、現場の考古学調査の状況も展示されています。現時点、東南アジア最古の遺跡の世界遺産です。

BT舘入口 博物館敷地 展示 人骨現場展示 見学奈良青銅器 土器など

なお、敷地にたなびくタイの国旗が、インドネシアの紅白国旗を2つ上下に置き中央に幅のある青い帯を入れたものだと気づきました。日本は白地に赤丸で、3者が類似の親戚ものだとあらためて感じました。

期(学年)末試験を終え、早速、遺跡見学にアジアの楽園北部、タイ東北にある東南アジア最古という世界遺産バンチェン遺跡(7-5,000年前頃~1,800年前頃まで)を見学に行って来ました。旅行社で格安バンコク行きを買い、試験前なので遺跡の概要と行き方とバンコクでの見物をチェックしたくらいで出かけました。

ところが、ジャカルタの空港で便予定を確認したところ、時間、便名はいいのですが、行き先はこれまで何回かトランジットしたことがある市街東部の空港ではなく、北部の空港であることが分かりました。確かにバンコクの国際空港だそうですが、いやはやです。

バンコクなので、お寿司は控えるにしても旨いうどんにはありつけるだろうというささやかな期待はしぼみました。それはさておき、言葉も字も全く分からないタイ東北ウドンターニー(以下、ウドン)の田舎に行くプランは変更を余儀なくされました。大体、東京から青森に行く感じです。

今は海の上、かってはアジアの楽園だった上空を飛びますと生き残った島々が見えます。それにしても楽園は広かったなあ、多分何か痕跡はあるのだろうなと思いつつ。4時間で正午前に北部空港に着きましたが、駐機の飛行機も少なく記憶にあるあのバンコク空港での各国機の賑わいはなく、港内の店数も比較になりません。

うどんは全く無理と諦めました。Informationで行き方を聞きましたところ、お嬢さんが私の行きたい所をあの難しいタイ字で書いてくれ、外のバス乗り場〇番で〇〇行きに乗り運転手、車掌に見せなさいと言ってくれました(私にとっては通行手形)。

空港からの町のバス停と東北行き長距離バス乗り場は離れていますが、我々を町で降ろした後、空港へ戻るバスが、あんたはそのまま乗っていなさいと言い、途中、近い所で降ろしてくれる親切でした。

あとは、近くの店、バス乗り場、窓口、・・手形を見せて少しづつ進み、昼パンを買って便数の少ない出発10分前の東北行バスに乗れました。(実際の出発は、予定の20分後)

バスの予定では、到着は正に真夜中ですが何とかなるだろうです。実際、バスが着けば3輪トゥクトゥクの運ちゃん達が来て、値段を交渉して近くの適当な宿まで連れて行ってくれました。

出発してしばらく窓外を見てましたら、1時間ほどするとアレッ!?ラオスかな?カンボジアかな?という景色になってきました。

そして、ホントにびっくりしました。幹線道沿いに点々とあるローカルバス停らしき小屋があのバンドゥン・スンダの2段式屋根なんです。そして、看板で地名を確認すると(右下)ウドンにもバンドゥンがあります。

考えてみれば、バン コクなんですから、行きたい遺跡バン チェンがあり、バン ドゥンがあって不思議はない訳です。何せ楽園内のことですので!!。違う国、遠い遠い違う所というこれまでのイメージが、現場で変わりました。旅程は長かったですが。

2段屋根  タイのバンドゥン

2段式屋根、地名について、どっちからどっちに伝わったのかですが、アジアの楽園が沈んだ(7,000年前)後、3,500年前頃以降、学界では台湾-フィリッピン経由でアジアの楽園南部に人の大きな移動があったと考えられていますので、これもそのある時期ウドンターニー方面の方から南下し、ジャワ島スンダに伝わったのではないかと考えられます。

かって万年の昔、北上して行った人たちの子孫が、気候風土の違いから肌の色や容貌もすっかり変わり新たな経験を携え、長い年月の里帰り移動南下したのでしょう。そして、タイ東北のバンチェン遺跡などが川沿いにありますので、家財具・動物を積んだ船が活躍したと思います。

タイ東北遺跡 川沿い遺跡

タイ東北のバンチェン遺跡など  同遺跡は、川沿い(バンチェン国立博物館から)

ピラミッドと聞くとあのエジプトのギザのものが思い浮かべられます。世界的に有名な正に傑作の金字塔ですが、実はピラミッド仲間では少数派です。それは、当地で普通にどこにでも見られるような、崇める天、神の造った火山として安定した造形の数多の山々と類似しています。それだけに人間が造る場合は大変です。

ピラミッド山1 ピラミッド山2

我がシェアハウス丘上から見える     ブリトゥン島のピラミッド山

ピラミッド山

しかし、学界では最古とされるエジプトの最初のものは、4,650年前頃のサッカラのジェゼル王のピラミッドで、階段ピラミッドと呼ばれています。

120px-DjoserPyramid[1] サッカルのピラミッド Wikipediaから

当地のグヌン・パダン、レバッ・チベドゥなどや中南米のものと類似の造形です。当地では、半年以上の雨季には、正に天、神が怒っていると感じるような雷が轟き、1-2時間の強く激しい雨が降ります。それはピラミッド角柱の角を丸くするほどのものです。そして当地は地震があり、これを恐れればかなり平たい構造のものすら当地にはあります。

この雨と地震の揺れのもたらす土石の緩みによる斜面の地滑り崩れは大きな問題です。グヌン・パダンではこの対策として、当地の人なら普通に思いつく棚田式にし、垂直と水平の石積みを工夫しています。

棚田 西ジャワの棚田 3層石 雨などで丸くなった角柱と水平積み

グヌン・パダンは、近年の調査により斜面のすそ野まで棚田式になっていることが明らかになりました。また、南米の世界遺産マチュピチュも農耕生活の必要もあり、棚田式になっています。

GP棚田 グヌン・パダンの棚田式斜面(アリ・アクバル教授「遺跡グヌン・パダン」から)

220px-80_-_Machu_Picchu_-_Juin_2009_-_edit[1] マチュピチュ Wikipediaから

そこで問題は、当時、エジプトのナイル河畔は雨の少ない、地震もたいしたことない地域であるのに何故、棚田風にしたかです。グヌン・パダンの造形を採り入れたのでは?と考えさせられます。案の定その時代後には失敗もありましたが、強大な権力のクフ王は、天・神の造形をめざし、あの角錐金字塔の造形を完成させています。

グヌン・パダンは、表面の第1層は裾野まで棚田式ですが、内部の2層、3層もやはり棚田式であったのかという問題があります。これらの建造時代と造形の重要さからグヌン・パダン内部の形態の解明が注目されます。

Frame-work of theory

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Frame-work

Manusia-Modern

日本の皆さんも連休で行楽地に行かれていることでしょう。

先般、半年の学期に1度の日帰り研修バス旅行に行き、レポートも提出終わりましたので、ご報告です。前回の旅行は、学生がルーズで7時出発予定が9時近くになり、5時起きで示された集合時間前に来ていた日本人組をあきれさせましたが、今回は名簿確認、Tシャツ及び朝食受領などの後、7時過ぎに出発できました。向かったのは、バンドゥン南東約2時間のGarut地区で、お菓子工場見学と観光施設でした。学生は遠足気分ですが、企業の工場管理、販促、問題点、助言など5枚以上書いて提出というのが気になります。

それはさておき、観光施設はNaga村でした。入口に此処スンダの人が大切にする小刀Kujangが飾られ、土産物店が並ぶ中を通り、川のある低地(比高差約15m)まで階段を降ります。途中で視界が開けると、教室で教わったように、川のそばに家々が並び田畑がある伝統の風景が目に入ります。130人くらいの人たちが今も電気の無い(!)昔の生活をしています。そして、やはりここでも家には日本の神宮・大社と同じく千木があります。

朝食 Kujangnaga村 千木

ウガンダからのイブラヒム君は、国のと同じようなものだと懐かしそうに杵を手にします。人だかりで見えませんでしたが、ナイジェリアからのファルーク君は、村の人が20cm位の竹楽器を口元で演奏している(写真は、budaya-Indonesia.orgから)と合わせてスンダの歌を歌って驚かせてくれます。西アフリカとアジアの楽園のスンダは近いです。

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お日様とともに暮らし、隣も分かる長屋で農耕と民芸品作りが生計を支え、子供たちは階段を上り下りして通学していますが、町の騒音とは無縁、リストラもいじめも殺伐とした事件もない穏やかな生活です。途中休憩のガソリンスタンド前の空き地には、グヌン・パダン遺跡と同じ柱状節理の石柱を輪切りにした造形の敷石が作業を待っており、雨で霞む遠方にはピラミッド山が見えました。

生活 6角柱

見学を終えてスンダレストランで夕食し帰りました。たまたま着席し撮った写真を見ますと、手前2人がアフリカ、次の右は高地人が万年の暮らしをしているパプア、左は黒潮先の薩摩おごじょ、奥の隣の席の向うむき最右がエジプト、こちらを見ている右はアジアの楽園、マレーシア国境に近いタイ、左はアイヌの展示の充実を発表した北海道の道産子と、人類の旅さながらのものとなっています。現在、日本と韓国がダントツで学生多数派の双璧です。なお、今回のnaga村は、川そば低地でしたが、この国には山中で今も頑なに昔ながらの生活を守っているバドゥイ族の人々もいます(写真下右)。そこは、天国への橋を渡って行く聖地ピラミッド地区に入った外部の者は生きては帰れないと言われる所です。正に多様で昔が残っている国です。

夕食 バドゥイ

4月に開催された「アジア・アフリカAA会議」60周年記念行事は、
盛会のうちに閉幕しました。

過去の投稿をまとめたので、ご覧ください。

2015.04.11 【予定】2015年4月18~24日 アジア・アフリカ AA会議60周年記念行事

2015.04.22 アジア・アフリカ会議60周年記念行事

2015.04.23 アジア・アフリカ会議(2)

2015.04.23 アジア・アフリカ会議(3)

2015.04.25 アジア・アフリカ会議(4-1)

2015.04.25 アジア・アフリカ会議(4-2)

2015.04.26 AA会議関連イベント

AA会議関連イベント

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AA会議行事の後、昨日は、観光大臣、バンドゥン市長などや20ケ国(日本含む)からの参加を得て、会議場から大モスク前広場まで2kmにわたるパレードが賑やかに行われ、集まった1万人がお祝いしました(Kompas紙)。

今日もイベントは続いており、通学通りのいつもの歩行者天国では、スンダ文化イベントが行われ、催し物、テントブースで展示が行われました。

歩行者天国 スンダ文化展

アジア・アフリカの国だけでなく、豪、ギリシャなどの参加もあり、我が大学の日本語科学生も和装で出陣、日本ブースに参加しています。

学生出陣勢ぞろい

ずらりと並ぶブースでは、日・中・韓が隣り合わせで並んでますが、日本代表は、バンドゥン市と長く交流を続けられ、毎年来訪しているという浜松市中田島町さんです。ブースは、ダントツの人気で写真を撮りたい人の列が絶えませんでした。

綿菓子機から巻き取られる綿菓子と、此処の人はしたことがないのか、輪投げが人気でした。

日中韓の展示 中田島町中田島町ブース 輪投げ

ナイジェリアブースの同級生と東京お寿司の私は、会場ご視察のバンドゥン市長令夫人から、Good! の評価をいただきました。

doukyuu 御奥様

 

期間中、東アジアについての世界経済フォーラム(World Economic Forum on East Asia)が開催されています。ジョコ大統領は、今チャレンジを受けているがこれはいい機会であり、消費から生産・投資への創成を図ると述べ、過去も転換してきたし、100%できると言っています。

そして、投資はインフラや産業ということだけなく、人的資源への投資であると言って大きな拍手を受けています。

インドネシアは、東アジアという認識です。これは、「アジアの楽園」で書きましたように、歴史的には、輝く太陽の昇る「東」の地であり、今や日・中・韓~シンガポール・インドネシアにまで至る経度線の地域認識となり、長い時を経て巡って来た世界の焦点地域です。

バンドゥンでは、2万人による伝統の竹製楽器による演奏が行われました。ギネス記録になるそうです。

竹の醸し出す和音・ハーモニーを世界へというタイトルは、万年の「アジアの楽園」からの新しい風を5大陸に吹き渡らせましょうという我がサイトマークと軌を一にするものだと思っています。

2万人アンクルン

24日付 Pikiran Rakyat(国民思い)紙から

バンドゥンでは、今日も関連イベントは続いており、我がジャパン・ハウスBJHの釜我さんと大和田さんは朝から動き回って活躍しています。

今回の会議のとりあえずの所見は、中国の経済力を背景とする大きな存在感と日本の国際場裡における政治的発言という、従来の状況と逆転したかのような時代の変化です。

そして、ASEANの雄インドネシアが、その一都市を含めてこの大イベントをテロの脅威もある中、やり遂げたことでしょう。

グヌン・パダン遺跡で研究者の人たちが、深夜まで出てきた遺物の意味合いを議論していますが、このKAA60もこれからいろいろな事象が出てくる中で、意味合いが定まっていくのだろうと思います。 -歴史ニアの前線ルポ

AA会議は、昨日、厳戒態勢の中、サボイ・ホマンホテルから斜め前の会議場(独立館・博物館)まで、アジア・アフリカ通りを100mくらいの行進に引き続く行事、昼食会で無事終了しました。

行進は、前日からの車両運行規制などと当日の周辺地域への立ち入り規制のため、集まった人たちには王様方の服は見えませんでした。コマンド部隊も加わった軍・警察の規制は、「バパ(オトーサン)、どちらへ行かれますか?こっちはダメですよ。下がって下さい。」という実に穏やかなものでした。

なお、会議当初に当国ジョコ大統領とともに紙面を演説で飾った日本、ヨルダン、イランの3ケ国、その他シンガポールなど何ケ国かが既にこの「歴史的行進」以前に帰国していたと報じています。

AA行進縮 行進警備

25日付Kompas紙(ジャカルタ)から

会議場では、当地のリドワン・カミル(1971年生)バンドゥン市長が、youtubeを観るとホスト役としてまず挨拶し、建国の父がアジア・アフリカの将来のために公式なものとした(ここでジョコ大統領、大きく頷く)として平和十原則を逐条説明しています。wikipediaにも載っていない細部にわたる説明は授業のようで、安倍さんが英語で話しているかのような内容に聞こえます。そして、最後にバンドゥンは、①アジア・アフリカの首都 ②人権の都市 ③創造性ある大きな心の家 であると述べています。やはり、此処では家が出ます。また、この創造性については、市長は3年でバンドゥンをスマート・シティにすると言われていますが、当地でも名古屋大教授の創案として知られています。歓迎の挨拶授業は、サンバル(食卓必須の辛子)の効いた内容のためか、拍手は普通より大き目というところです。

なお、昼食会のインドネシア料理のシメは、キャラメル・バナナだったそうです(25日付Kompas紙)。やはり、農耕の始まりと言われここでは豊富なバナナでした。

55年当時の1年前に、市長さんの説明の元になる5原則をまとめた中・周恩来首相と印・ネール首相が仮に会場に居ましたら、自分たちをも対象にしている時代の変化に驚かれるのではと感じています。

今日は、北部の中心部に行ってみました。総じて普段どうり、というところです。

ジャワのパリと呼ばれる、「そごう」も入っている一角は、入口の特設スタジオでライブを賑やかにやっておりました。聞けばAA会議お祝いということですが、販促の色合いが強いです。他方、チハンプラス通りは、まあ渋谷というところですが、こちらは入口に55年当時の写真パネルを展示しておりました(近づいて見る人もいませんでしたが)。いずれもエリアの中は、普段どおりです。結局、大学の警備所が横断幕を張り、明日に向け柵にペンキを塗り、草花に水をやり、というところが歓迎の気持ちの表れでしょうか。

パリジャワ縮 そごう縮チハンプラス縮 警備所縮

東部シリワンギ スタジアムでは、2万人が伝統の竹製楽器アンクルンを演奏する、KAA60記念「アンクルンのハーモニーを世界へ」の大イベントが行われました。

当地の新聞(ジャカルタ)は、当国ジョコ大統領が、左に安倍首相、右に習主席という配席の会議写真を載せています。真ん中の大統領が「どうしようかな?」と考えているように見えるのは気のせいでしょうか。それにしても55年当時、オブザーバー参加だった日本がこの位置に着席していることに感懐を覚えます。

AA会議新聞縮

23日付 Koran Jakarta(ジャカルタ新聞)紙から

南部に行ってきました。

観光客、地元の人、会議関係者、デートの人・・・ここだけは、きれいな外灯が灯る会場付近は大変な賑わいでした。会場近くのバンドゥン銀座ブラガ通りにはメディアセンターが準備され、24日を待っています。因みにこちらでは、コンフェレンシ、アジア・アフリカでKAA60と言っています。

会議委員会の職員さんに聞くと、ジャカルタからの要人を午前に迎え、会議場とその前の伝統のサボイホテルとで、行進、式典、会議、昼食会という日程で行われるようです。自己紹介したら、大学UNPADの先輩ということで写真もOKもらいました。準備は着々のようです。

会場縮 人出メディアセンター縮 職員縮

バンドゥン銀座ブラガ通りも人が出てきました。此処では絵が売り物で道にも並べています。日本と同じファミレス、喫茶もありますが、通りの横道へ入れば地元の人向けの普通の店が軒を連ねています。

バンドゥン銀座 此処では絵ファミレス横道は地元向け

夜ともなれば、通りにはシーバスバーもあればビアホールもあって楽しめます。他方、安くておいしいとなれば、ラーメンは、若い人に人気です。そして、通りに向かうロータリーのモニュメントが作られていますが、竹なのも万年のここらしいことです。

シーバス縮 ビアホール娘ラーメン 竹モニュメント

大学では、検討の結果、明日は、授業のないことが伝えられました。お祝いもさることながら、会議場地区の警戒態勢のため、車両運行が制限されるためです。

2015.12.29~30 現地調査

インドネシア大学に行ってきました。

充実のインドネシア大学は、そのまま通勤電車の駅名になっており、駅から歩いて5分です。

最初はアクバル教授にお会いするために行き、いろいろな施設があることを知りました。

特に、日本センターがあり、こういう文化面で支援しているのは、素晴らしいことと感じました。

正門のようなものはないユニークな広大な緑のキャンパスで、全般のセキュリティと建物毎の受付というシステムです。
此処の人たちが、尊敬し誇りに思っているトップ大学ならではのことと思います。モダンな図書館では、日本人、年寄り、大学生証、使用料50円で、充実の諸資料を閲覧させていただきました。

大学には、有料の宿泊施設があり、池を観ながら静かに過ごせ、朝食は和食でした。
此処の人たちは日本に行って、最初は食事で苦労するそうです。学生食堂でも安価で和食が食べれて練習できたらと感じました。

駅からジャカルタなどにすぐ行けるためか、大学街の駅前通りは思っていたよりも小ぶりです。

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