http://www.sunda-wind.net

位置としては、アジアの楽園Sundalandの中央になりますシンガポールに行きました。modernでcleanで花々もきれいで豊かな現代の楽園でしょう。

建国50年を祝う賑やかさの中にライオン(シンガ)と大きな船、水に親しむ海の民を見ました。そして、19歳で全員例外なく2年兵役につき、その後もずっと練度維持を図って楽園を守り維持します。(スイスの例を出して恥かいた先生にこの例も教えたいです。唱えるだけでは楽園は守れません。)地下鉄規律でもしっかりです。そして、何より戦略的思考のお手本と言うべき国と思われます。

マーライオン

海の民

海の子

徴兵

規律

さて、万年ハンターの本題です。残念ながら、まだ当地の視野は国立博物館では700年前でしたが。

当地の第4公用語はタミル語です。イギリスがプランテーション労働力としてインド亜大陸南部から連れてきた人たちですが、あのインダス川岸のモヘンジョ・ダロを築いたドラヴィダ人Dravidian系でその寺院の台型造形の基礎は、既に報告のスクー寺院、マヤピラミッドに似ています。

国立博

700年

タミル寺院

遙か大昔に海に沈んだ(Sundaland?)栄光の民の末裔神話を大事にしているだけでなく、新人類の出アフリカ後の東進・北上ルートの始まりの方の人たちで私は注目しています。

更に、大家の大野 晋先生によれば、世界で日本語に最も近いのはタミルTamilの人たちの言葉で多くの単語が取り入れられているとのことです。先生は、真珠交易などの諸点も挙げられて説明されていますが、両者があまりに離れていることもあり学界では未だ、?の謎です。

しかし、あんなに近い大陸の言葉と日本語、心根が違う方がむしろ不思議と思わねばならないでしょう。

アジアの楽園Sundalandと人類の東進・北上の海ルートを理解する私には、西と北の言わばはずれに残った2つの言葉が近いのは不思議でも謎でもありません。交易で栄えていたタミルの人たちは、ルート途中に多くの租界を持っていたのでしょうが、長い間に失われ痕跡も見つけられないということでしょう。

人類の進出

そして、シンガポールにはまだまだ注目すべき点がありますが、次回といたします。

 

 

 

http://www.sunda-wind.net

楽園Sundalandの遺産についてです。スクー寺院は、ラウ山腹にあり世界遺産登録を目指していますが、当国の世界文化遺産4件のうち3件(サンギラン、プランバナン、ボロブドゥール)が中ジャワのジョグジャ周辺に集中しており、他の1件は東のバリ島です。(下図参照)

ジャワの要図

スクー寺院の本殿ピラミッドの様式が、メキシコと中米で栄えたマヤのピラミッドに酷似している不思議さは前回述べました。

当国の研究家Samanthoによれば、スクー寺院(1,360年頃。1,186m)、近くのチュト(1,470年頃。1,400m)、東部のプナタラン(13世紀から1,415年頃まで。450m)のこれらヒンズー系3寺院の本殿及び伽藍内の構築物が、当国の遺跡の中で異質だと言います。

バリ島もヒンズー系ですが、中ジャワのプランバナン寺院のようにコーンアイスクリーム型かあるいは多重塔型で、インドでも見られるものです。

スクー寺院は、伽藍軸線は高山の山頂方向、石積み3段のテラス構造、地域に対する見晴らしの良さなどグヌン・パダン遺跡に通ずる点も見られます。しかし、本殿、彫像などジャワ王宮や地元の石工・木工による様式ではなく、また急造という指摘もあります。

テラスの段

下住民下の住民

そして、他の寺院もそうですが、この3寺院は本殿、あるいは彫像、レリーフにヒンズー・インドでなく、中東やメキシコ・中米のものと類似性があるものが多くみられるのが特徴です。

例えば、スクー寺院の彫像に羽がついてるものがありますが、幸い顔が残っているものがあり、鳥人です。人のようですが、顔は鳥であり、足の指爪も鳥です。また、はっきりしている写真左の彫像の顔も当国の人ではありません。

頸無の鳥鳥の万歳

 

Samanthoによれば、このような鳥人ものは、下の写真の左がスクー寺院、右上がマヤ、右下がユダヤ民族が過越祭の晩餐で読む有名な冊子にみられる鳥の頭を持つ人だそうです。

スクーの万歳

そして、鳥人はメソポタミアのシュメール(Samantho左)、バビロニア(同右)とも共通性があります。

鳥人のメソ 鳥人noバビロニア

他にもいろいろありますが、その一つはアッカンベーで、東ジャワ、バリ島とメキシコ・アズテック文化のものが類似です。

バリnoべろ

アズテックのべろ

日本では、相手をバカにする良くないことですが、チベットでは尊敬を込めた挨拶だということで(2枚舌ではない?)、おそらく上記の写真などは尊敬を込めたものに通ずるものでしょうから広域の話です。

そして、Samanthoは奇妙ともいえる彫像・レリーフの造形の数々、遠隔地でのその類似性から、現生人類が、巨人(鬼)族や類人猿と共存していた時代の記憶を伝えているとしています。

また、それらの寺院等の定説の建設年代とは別に、造形の元になったイメージは当地域発であろうとしています。

スクー寺院など、遠隔の他地域とこのような類似性を有する内容については、現時点では推測も憚られ、やはり「不思議」としか言えません。

更に、私には気になる点があり、次回報告といたします。

 

 

アイヌ―沖縄―台湾高砂族という繋がりの音楽と踊りの催しは、私に現生人類の進出展開の東進・北上ルートを感じさせるものです。

最近の資料から、私が整理しているルートに関する研究チャートは、以下のようなもので以前掲載したものの年代が一部修正されています。

最近、出アフリカについて、エジプト-シナイ半島ルートがでてますことと、アラビア半島南ルートは5万年前と遅くなってますのでその後のスピードは、はっきり西方向と異なっています。

人類の展開9.16syuku

2万年前頃としてますが、最終氷期の最寒冷期(LGM)の寒さとその前後の比較的暖かい時期に北海道への南下や米新大陸への移動が見られます。

また、1万2-3千年頃の寒冷ぶり返し期(YG期)には、特に欧州・シベリア等では、南への大きな人の移動が、直後の暖かくなった時期にはスンダランドの多くの地域が極の氷が融けたことによる海面上昇で海没している点が注目されます。

図では表現されていませんが、進出展開後の複数回の南北の大きな人の移動(欧州では東->西も)の影響は大きく、環境に恵まれて人が集まったスンダランドでの異質な文化の混じり合いが文明開化に繋がっていったものと考えています。

基本的には、戦いの多い、戦いに強い、大型哺乳動物の狩りで暮らした北、西の人たちに比し、東進・北上ルートの人たちは水に馴染み、海浜、河川地域で水産物にも頼り暮らした穏やかハーモニーの人たちというイメージを持っています。

今を考える源流探究のチャートとして、引き続き研究していきます。

「アジアの楽園」Sundalandでは、ここバンドゥン近くのGarut郡など黒曜石は豊富であり、先史時代に使われていました。

黒曜石縮

旧、中、新石器(Sejarah untuk SMA Kelas Ⅹから)

25日付の朝日新聞で、伊豆半島沖の神津島(Kouzushima)で発見されている万年のハイテク石器素材の黒曜石と舟の行き来が、驚きの古い年代(3万8千年前)と報道されています。

朝日黒曜石

楽園では4万年前頃には、今に繋がる新人類のワジャック(Wajak)人が確認されており、海辺の洞窟には手形などの造形が発見され欧州史学界を驚かせています。

ワジャック説明

ワジャック人縮

ワジャック人の歴史(サンギランのジャワ原人博物館から)

人手縮

洞窟に残る手形など(Sejarah untuk SMA Kelas Ⅹから)(最近の豪研究陣による測定結果は、4万年前頃)

長江・黄河文明を築いた人たちや年代が定説より数千年遡るとみられるアメリカ新大陸へ渡った人たちも楽園地域の末裔ですし、万年前の中東と東アジアの関連や黒潮に乗った人々なども、「アジアの楽園」海陸両用の民という補助線を引けば、記者さんにもそれ程の驚きでも謎でもなくなるでしょう。

壁画の舟

洞窟壁画の舟(インドネシア国立博物館)

できれば、グヌン・パダン(Gunung Padang)など当地の遺跡が、お国の超ハイテク機器で更に調べてもらえることを当地の人も期待しています。

Nara Akiraさんの写真

そして、我らが本家の楽園Sundalandの静かな海が、最近騒がしくなっていることにも皆さんの目配りがいただければと思います。

Nara Akiraさんの写真

(Nias,dari masa lalu ke masa depanから)

中部ジャワへの旅の最後の紹介はスクー寺院ですが、実に不思議な遺跡です。

中部ジャワ南部、世界遺産ボロブドゥールなどのある特別州都ジョグジャカルタからバスで北東上し、2時間ほどでジャワ原人の博物館のあるソロに着き、乗り継いで更に東へ向かいます。

最後はオジェッに乗り継いで、ソロから1.5時間位で地域の高山ラウ山(3,265m)の山腹の遺跡に着きます。

行きましたときはラマダン直前だったので、終わってからのイスラム教徒のお正月向けなのか修復中でしたが、観てお分かりのピラミッドです。しかもあのマヤのピラミッドに酷似と言われるものです。

本殿ピラミッドの正面の階段を上がって、頂部で焼香やお供えを捧げ祈ります。

本体の背景

伽藍中央の軸線は東西方向で、本殿は西を向いており、その正面の石積み、有名な亀石などと本殿の前方に立つ彫像は次のようなものです。

亀石とレリーフ  頸無の鳥

そのまま参道を西方の入口の方へ見ますと3つのテラスになっており、段差は1.5mくらいで石積みは小ぶりです。

3つテラス

第2の段差

テラスの北側には、象などの動物が並ぶレリーフ石群が目につき、南側は彫像ですが、私にはむしろお山ピラミッドが見えるのが印象的です。

北動物のレリーフ  南の方pira

そして、もう一つこの遺跡を有名にしているのが、入口の階段を上がるとアーチ大門の床面には、男女の性器が接した瞬間をアップしたレリーフがあります。

それとピラミッド前面右に控える「捧げ銃」彫像が立派な一物を左手で持っています。

神聖な性におおらかなヒンズー教に見られる特徴でしょう。が、ジルバブ被る当国を動いている私には一寸ショッキングです。

アーチ大門  捧げ銃

そして、私が不思議だと思うことについては、次回、ご説明いたします。

大石に乗った人に目が行ったと思われる下の写真ですが、私が注目しましたのは、大石運びです。

ニアスの葬送

(SEJARAH UNTUK SMA kelas Ⅹから)

万年前の(トルコ)ギョベクリ・テペGobekli Tepeも(英国)ストーン・ヘンジStone Henge も、弔い、祖霊信仰の巨石遺跡の造築のため、大石を運んでいます。

上の写真の説明では、亡くなった人のために建立するものですが、祖霊を呼び集め、石が今後亡くなる人の身代わりでもあるため、大きければ大きいほど戦いや疫病で亡くなる人が少なくなると信じられた極めて重要な葬送式です。

写真で分かりますが、目的地での建立だけでなく、大石を運んでいくプロセスそのものも重要です。運び手も集まっている人々も共に精神的に高揚していきます。

我々の身近にも目的は違うように思われますが、願いを込めて引き観客がいる移動のプロセスも重要な行事はいろいろあります。そして、上に人が乗っているのも重要なことです。

京都市観光協会神田明神千代田区観光課

祇園祭り(京都市観光協会から)   神田明神祭り(千代田区観光課から)

岸和田市観光課ニアスの葬送

だんじり祭り(岸和田市観光課から)

こうしたことから、弔い・祖霊信仰のギョベクリ・テペやストーン・ヘンジが長距離を大石を運んで造築したことも理解できます。

できるだけ大きな、立派な石が良いことも、人々が大変な労力と時に事故死亡の危険を甘受して建立したことも理解できます。

時代は下りますがエジプトのピラミッドは、農閑期の失業対策事業だったという説が最近出され、定説化しているようですが、私は違うと思います。

前述の例を見ても分かりますが、基本的には精神的なものでしょう。現人神ファラオの造築に関わり貢献し精神が高揚し、来世が約束されるなどのご利益のある行事活動です。

活動後に酒肴が振る舞われ、何がしかの物がいただけたとしてもそれが主因ではないでしょう。そして、ファラオが神ではないと思われ始めて壮大なピラミッドは造られなくなります。財力の衰えも一因ではありましょうが。

スマホとバイクの行きわたる生活は、万年のアジアの楽園を急速に変えて行っています。貴重な写真や物も消えていきます。

それでもまだ、竹筒に砥石を入れて鎌を研ぎ、バナナの幹を管理し雑草を刈ってあたりをきれいにすることは行われています。

と石と竹

万年前にも有ったでしょう。但し、竹は融け、時の長さは砥石をも変形させ、矢じりでも斧でもないので誰にも注目されることもなく、ということかもしれませんが。

さて、話は変わりますが、現代のファラオたる民主制は、その行事たる選挙に若い人たちがまともに関わらなくなったとすれば、見放されかねない危ういことと大いに気になります。

神輿を担いでくれず、綱を引いてくれねば成り立ちませんので、なだそうそうの事態です。

前々回、一緒に考えましょうと言ったのが下の写真です。これは、1920年に撮られたインドネシア・ジャワ島の北西の北スマトラ州(最近、Medanに飛行機の墜落事故でニュースに)の西に位置するニアスNias島の一コマです。

なお、メダンMedanでは、13,000年前ころの石器が見つかっています。

ニアス島はスマトラ沖地震被害で世界に知られ、また、サーファーの聖地でもあります。愛媛県くらいの大きさで、ニアス族は60万人くらいです。

ニアスの葬送

(SEJARAH UNTUK SMA kelas Ⅹから)

Niasの地図

(Atlas Sejarah Indonesiaから)

住んでる家も写真のようなものから、舟を並べたような密集住宅など特色があります。人は北の大陸から来た人たちですっかり大昔とは変わっています。

いかに北の大陸から多くの人々が楽園に南下し、住みついているかがよくわかります。

石器時代の遺跡などがあり、その歴史習俗もユニークでした。また、濃い密林地域はよく分かっていない所もあるようです

nias海傍の家niasの人

(Nias, Dari Masa Lalu Ke Masa Depanから)

さて、

皆さんの目についたのは、大石に乗っている人でしょうか。陣羽織、裃のようなものを着ています。ニアスでは、このような格好で長い槍を手にした大勢の雑兵戦士たちが、戦いを表現する踊りを踊っている古い写真もあります。

日本をよく知っている当地の人は、日本のサムライものを見るとあれはニアスだねと言います。

・今日は「裃」を脱いで無礼講でまあ一杯

・あいつは「肩」いからせて街を闊歩してる

現代の日本でも裃、肩の入った表現は沢山ありますが、肩張ったニアスとのこの類似性は不思議です。

北東の行き詰まりの日本と南の行き詰まりの小島ニアスに見られるわけですが、その離隔は相当なものです。両者の途中には、この裃、張った肩の痕跡はないようですし。

私は、ニアスが江戸城の真似をしたとは思いませんし、双方独立的にこのデザインを考えたとも思いません。歴史においては遠く離れた両端に同種が残ることはよく見られますので。

どこか大陸に源があって双方に伝わったが、源の方は痕跡が残っていないのではと思います。あるいはひょっとして、楽園からサムライに伝わったのかも知れません。

と言いますのは、ニアスにとってこの格好は古くからの行事に関係し、かつ、非常に重要なものだからです。その点を次回、お伝えします。

四国伊予の巨石遺跡(参照:人類最古の文明「アジアの楽園」探訪記)と当地のほほえましいストーンヘンジについて既にレポートしましたが、Danny Hilman博士がFacebookで本場英国のストーンヘンジに関し、英BBC放送の驚きの情報を紹介しハイテク調査の必要を訴えています。

最近の調査(現在も続行中)で、地中に人工のずっと大きな構造物があることが発見されている。造られ始めたのは、11,000年前(!)で、調査チーム(バーミンガム大学等)は、この地中円環構造物を「スーパーヘンジ」と命名した。

私(奈良)は、これはギョベクリ・テペ、グヌン・パダンなど万年を超える石器時代人による高度な構造物の例に加わる新たな大きな発見だと考えます。

そして、超古代石器人のイメージを変換し、超古代研究の重要性を示すものと考えます。

新たなあるいは現在の遺跡の地中あるいは内部に、更に古い遺跡を発見するなどの新調査法の科学の時代の本格化です。

アジアの楽園、人類の百貨店には多くの遺跡がありますが、グヌン・パダンのみならず、古い聖地にその後、更に建造した可能性のある所はあると思いますので、今後が楽しみになってきました。

Recent and ongoing geophysical subsurface imaging on and around STONEHENGE revealed that this exposed structures is only a small circle on top of much larger manmade structures that has been buried beneath the ground! And the constructions might have been started since 11,000 years ago!! They name the hidden, burried ‘circle’ structures as “SUPERHENGE”.

ボロブドゥールも現場へ行ってこそ感ずるということがありました。

場所は、独立時代に臨時首都になったジャワ伝統のジョグジャカルタ特別州(中ジャワ)から北西へ少し外れた所です。バスで向かう途中にムラピ活火山が煙をはいていますが、わずかな間だけ右側に宝来山を控えた富士山そっくりに見え驚かされます。

寺院は、きれいに整備された公園地域の奥にあります。

「Can you speak English?」ジルバブ被った女子の珍しい質問です。

聞けば、先生からともかく英語を話す人に同行してレポートを出すように言われているノート片手の女子中学生さんで、一緒に回りました。(孫たちよ、頑張れ!)

全景hp女no学生

504体の仏像を有するボロ(寺)ブドゥール(丘の上)は、煩悩から解脱に至る3界を象徴的に表し、第1の基壇は煩悩の俗界、次いで未だ形にとらわれている5層のピラミッド、最後に解脱した3層の同心円壇ということだそうです。

上空から見た曼荼羅模様と、その多様な造形、数々のレリーフは、素晴らしいの一語です。

多様な造形hpレリーフhp

さて、ボロブドゥールは我がギョウ界ではピラミッドです(下図左下)。

pyramids[1]

www.IndoCropCircles.wordpress.comから)

グヌン・パダンなどと同様に雨や地震にも強い棚田式で、もとからあった小山に多い所で8mの土を盛った(Dunny Hilman博士より)上にあの見事な仏像、レリーフ等を作ったものです。

棚田田植hpボロブ構造hp

密林の中に約1000年眠っていた寺院を今のように修復された長い間の努力には、全く頭が下がります。

雨、地震に加え火山灰の降る地でもあります。凄いと感じたのは、中の小山の土の崩れから抜本的に修復されたということで、現在使われていない石も裏に保存されています。

修復hp石保存hp

ボロブドゥールは、小山に土を盛った基盤のあんこと仏像レリーフの表層の厚い1枚皮の言わば大福もち構造です。グヌン・パダンの場合は、その皮が時代を異にして少なくとも3枚重なってますので、修復も解明も容易ではないです。無論、大福もちの大きさも違いますし。

koridortimur.com

(koridortimur.comから)

注目点は、いくつもありますが、お釈迦様にどう結び付くのかという船のレリーフ(10枚)があるのをPhilip Bealeが見つけました。

香辛料シナモンの貿易でシナからアフリカまで活躍した甲板に小屋のあるその帆船を復活させ博物館にしています。アジアの楽園、万年前から世界の中心・中継の海の民のここの人らしいところです。

philiphp船小屋hp

ここに来て感じましたのは、万年の昔からグヌン・パダンの人々がゲデ山に対するように、此処の人々はムラピ山に対してきたことです。

マラッカ海峡もスンダ海峡も陸地だった正にアジア楽園時代は、共にインド洋に面する世界に開けた賑わいのマチの奥ノ院にあります。

そして、古来の精神性の代表である「山岳信仰」は違う、正しくは荒ぶる天、神に祈る「活火山信仰」だと感じました。

それは、厳しい火山被害罰と水の恵みの両方を有する祈りの対象です。大昔の人は、休火山も死火山も分からず、やがて区別なく山岳が祈りの対象に成っていったのでしょう。

火山灰hp

最後に、アジアの楽園の人たちは聖地の上に時代を異にして築造します。聖地の言い伝えだけは語り継がれるからでしょう。

パンフレットには、ボロブドゥールの内部には何もないと書かれていますが、その立地、周囲の状況から基盤となった小山は聖地だった可能性があり、何かがまだ内部の奥に眠っているのではと思いながら帰りました。

建物全景hp

下記のニュースを見て、四国の伊予とアジアの楽園ジャワにある巨石遺跡、ストーンヘンジを想い出しました。

英ストーンヘンジで夏至の祭り、神秘の現象に2万3000人
2015年06月22日 発信地:ウィルトシャー州/英国(AFP BBNewsより)
(2015年6月21日撮影) (c)AFP/NIKLAS HALLE’N
英国の古代遺跡「ストーンヘンジ」で行われた夏至の祭典で日の出を見る人々(2015年6月21日撮影) (c)AFP/NIKLAS HALLE'N

集まった人たちの賑やかな祭りと、太陽光と巨石の関係の写真を見て、eブックランドの横山熱血社長を想い出しました。地元の新聞にも採りあげられた伊予の巨石遺跡の意義の認識に対する広がり具合に歯ぎしりされてましたので。

eブックランドでは6年前に瀬戸内海の巨石遺跡は古代の人工的な建造物ではないかと書いた「伊予のストーンヘンジ」(篠澤邦彦著)を電子と紙で出版しているが、広がりはもう一つだ。

ところが、皆さん、そこは人類の百貨店、アジアの楽園ジャワの倉庫にもほほえましいストーンヘンジ(Batu Solor 東ジャワ) があります。レバッ・チベドゥ遺跡(ジャワ島西部バンテン州)には、ピラミッド後方にストーン・サークルがあります。

当地や日本にも多くある太陽の運行と関わりがあるとみられる巨石建造物は、観測のほか、お墓という見方も出ています。あのトルコのギョベクリ・テペ遺跡もお仲間でしょう。

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アジアの楽園 探訪記

20万年前頃アフリカで誕生し海産物も食す現生人類の部族は、海水面の低下(約130m)した紅海及びホルムズ海峡を越え、8-6万年前頃、インド亜大陸西部地域に達したとみられています。

東方へは、海水面の低下により出現した広大な海岸地域を移動し、7-5万年前頃にスンダランド、4万年前頃には海を越えてオーストラリアに達し、また、北方の沿海州にまで進出しています。

東方への進出は、西の欧州よりも速度が速かったようです。

人類no展開

東ジャワの現生人類ワジャック人は、4万から1万1千年前頃の間、また、マレーシアのサラワクのニア人も4万年前頃とみられています。

ワジャックとは、山、盆地のある場所の名称で、あのジャワ原人のいたソロ、サンギランの南東に当たり、ワジャック人は最初、山の斜面で発見されました。その後も他の場所で新しいものが洞窟などで発見されています。

wajakの山

この時代の現生人類は、熱帯地域の保存がきわめて難しい状況の中、タイ西部からパプアに至る広域で発見されています。従って、スンダランド全域に存在していたと考えられます。

新人no発見

ワジャック人について言えば、彼らは混血で中国人やオーストラリアのアボリジニの特質も示しています。長期間存在し、日本にもその形質の影響が及んでいます。

Paul Stormは、ワジャック人の頭骨はがっしりした中石器時代のもので、その後の世界的な人類の小型化に合わせつつ、現在のジャワに住む人たちに繋がる祖先と考えています。

ワジャックno頭骨

重要なことは、ワジャック人が4万年前頃現れているので、人類の展開のかなり早い段階から北方の人種と南の人種がスンダランドで混合していたということです。

それはまた、スンダランドへ南下した人の波がおそらく1度や2度のものでなく、人の数も相当の数であったことが、混血の影響から窺われます。

特に、2万年前頃の最終氷期最寒冷期や1万3千年前頃のヤンガー・ドリアス寒期の北方の寒冷の影響は大きかったでしょう。

彼らは、暖かく食糧豊富なアジアの楽園スンダランドに来ざるを得なかったでしょう。そして、北方が暖かくなれば、また、北上した者も多かったでしょう。

この北と南の全く生活様式の異なる人々の南での融合は、生活技術の融合をもたらし、人種の坩堝スンダランドでの文化を発展させていったことでしょう。

私は、ワジャック人が3万年にわたり長期存在したことや日本にまで影響が及び、また、現在に繋がっていることなどから、楽園で大きな存在だったろうと考えています。

但し、スンダランドの人々の「サラダボール」の具体的なイメージは、将来更に実証成果を得て形作られることになります。

これらのことから、メソポタミアに始まる人類文明史の前の段階におけるスンダランドの重要性に着目すべきと考えています。

It is said that Homo sapience get out from Africa to Eurasia in 80,000-60,000 years ago and probably reached Sundaland in 70,000-50,000. The sea level was lower 130m than that of nowadays.

They proceeded along vast seashore toward East. Then they crossed eastern straits upto Australia by 40,000 years ago and also went upward to north.

It was faster to East than West Europe even though it needed to cross straits.

人類no展開

Homo sapience Wajak Man, in East Java, is thought to be existed from 40,000 to 11,000 years ago and Niah Man, in Sarawak Malaysia also from 40,000.

Wajak is mountain and basin place name and Wajak Man was inicially found in slope. It’s in the southeast of Sangiran, Solo.

wajakの山

Homo sapience of this age were found in many places in spite of difficulties for finding in this tropical region.  Those are from in west Thailand to Papua in the east. So, it seems they had spread over Sundaland.

新人no発見

As for Wajak Man, they were of mixed parentage and show both characteristics of Chinese and Aborigine in Australia, too. They had long existed and spreaded even to Japan.

Paul Storm insists that the most likely interpretation is to consider the Wajak skulls as Mesolithic robust representatives of the present inhabitants of Java after with worldwide decrease in size of the human body.

ワジャックno頭骨

Important thing is, mixture of Homo sapience in North and those south locals occured in Sundaland in fairly early stage of human’s spreading deployment as Wajak Man appeared in 40,000 years ago.

It also means that wave and numbers of Homo sapience in North coming down to Sundaland were big enough to make such influence. It was not once, but many times in tens of thousand years because of very cold climate in North.

Thay can’t help coming down to warm environment of Paradise in Asia. And when it became rather warm in North, some went upto it.

Mixture of Homo sapience of quite different each way of living must have mingled technique and developed culture in melting pot-Sundaland.

I think Wajak Man were a big player in Paradise in Asia-Sundaland because of its long existence, spreading even to Japan and ancestor of modern Java people.

But, a bit concrete salad bowl image of Sundaland people should be formed with more evidences in future.

We should pay more attention to Sundaland as a fore stage of Mesopotamia Civilization.

Sangiran is located in the center of Java Island, Indonesia. There is the World Heritage of Homo erectus Java Man.

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I moved around there by biketaxi and visited modern museums.

Here and there, houses of local villagers are seen. After a while, biketaxi stopped and I saw the path is destroyed by intense flow of stream. No way, we took a rest.

洪水破壊mizuと

I talked with my driver and a young shop owner for coffee. I asked them, ” Are there any caverns ?”, then replied ” No, not at all.” Surely, Java Man couldn’t have even made them in this region because of the soil, I noticed.

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Textbook in school gives us image that Homo erectus and even Homo sapience in stone age had lived in caverns.

But, there are no caverns at all for many Java Man lived nearby river stream. That’s why they seem to be existed just as standing or sitting though I know they were hunter-gatherers among many kind of large animals.

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Museum can’t show their real life to us because of no evidence. But, it can’t help showing wrong image widely.

No clear evidence doesn’t mean no existance, as discussion on dark matter in universe.

Museum kindly show us only French example, with humble cottage and fire of Homo erectus’ life.

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It seems to me natural that even in other countries’ case, numbers of suitable caverns nearby river stream doesn’t fit to those estimated of Homo species. Anyway, most of them must have lived outside caverns.

Now,we have to change image of their life in cooperation of all fields of science. And it’s not a minor difference between life in cavern and that of humble cottage even if they were moving around place to place by the age of settling down.

Analogy is as like difference of life in a bit isolated fort on a hill to that in social environment of plain. The latter could be shifted smoothly to next step of life in settling down.

Then, I think that the amasing megalithic culture of Gobekli Tepe in Turkey, 11,500 years ago, won’t be so surprising to us. Situs Megalitik Gunung Padang in West Java, too.

What should we image about their life in plain ?

考える人hp

It’s not their responsibility, but our’s.

Next, I won’t touch upon Florencians, but on mysterious Homo Sapience Wajak Man・・・. The place is in East Java not so far from Sangiran.

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ジャワ原人の里(博物館の表現)は、ジャワ島の中央部ソロの北20kmの川と平野のサンギラン地域にあります。

バンドゥンからジョグジャ(独立時、蘭に抵抗する一時は臨時首都)、ソロへは長距離バス、ソロからサンギランは市内バス、そしてサンギランと書かれた門をくぐってからはバイクタクシーで動きます。

バイク運ちゃんに、まず発掘現場に向かい、次いで博物館へ行ってくれと言うと、遠いだろう、雨で土砂崩れが起きてるとか渋ってました。物価安のソロで破格の数字(1,000円)を巡るやりとりとなったので、剽軽さが戻り動き出しました。

運ちゃんは途中、マンモス象が外に飾られている新築博物館で聞き、細いコンクリート道を曲がりくねりながら灌木の林を進み、2つ目の新築博物館を過ぎて一寸行ってダメだとなりました。鉄砲水で道が壊されています。

やむなく小休憩のコーヒーにし(彼らはラマダン)、運ちゃんと店の村人に聞きました。

洪水破壊 村人

「この辺に洞窟はありますか?」

「ないね~。」

確かに子供のころの経験から、こんな所の土質で横穴洞窟を掘ったら雨が降らなくても落盤しちゃうなと思いました。

崖状況

それでは、どういう環境だったのだろうと言えば、博物館の展示では、今より植生は少なく、ライオン、トラ、サイ、ワニ、野牛など多くの動物がいたようです。

環境

ライオントラ サイワニなど

サンギランでは洞窟は描けず、何しろ証拠がないので、立ったり座ったり所在なさげです。もっと多くの老若男女がいたはずですが、皆、こうだったんでしょうか。コワイ動物もいますし、夜はくる、時に雨も降る、家財道具もあったでしょう。涼しい朝夕に動き回り、暑い日中の時間は休んでいたでしょう。

原人様子原人家族

展示に近づいて聞き耳たてれば、原人たちもバカにするなとブツブツ言っているようですし。

それではどうも変だということで、フランスでは、原人も木と石で粗末な小屋を作り、火を使っていたという例が紹介されています。

仏粗末な小屋

生活の場である遺跡は、既に報告したタイのバンチェン遺跡もここも川そばです。そもそも見つかっている遺跡から原人の数を推測すれば、洞窟のある他の地域でも、水が得られ食料を得やすい川そばの都合のいい洞窟の数及びスペースとは全く合わないでしょう。

遺跡の位置

狩猟採集、漁労では、あたかも休耕田するように川そば各地を転々としていたとしても、そこでは今に通ずる根拠のある暮らしをしていたでしょう。

狩猟と採集魚獲り

(上記の資料写真は、ジャワ原人博物館から)

火と道具を手にした数十万年前の原人はもとより、アフリカを出、複雑な言葉を身につけ更に進化していた数万年前の現生人類は、洞窟ではなく主に川そば平地に居たとイメージを修正すべきでしょう。洞窟に住む者もいたということです。

証拠が残り易い洞窟から、見つけ難い平地への生活イメージの転換は、例えれば防衛という軍事的な山城から、軍事に加え統治管理の社会性を有する平城に移るくらいの大きな意義の違いを時代の見方にもたらすと考えます。

大半が平地で生活していたとなれば、縄張りなど隣近所との様々な課題・問題を生じ、社会の階層、交易や冠婚葬祭、争いなどの相互の関係の処理をもたらし、文化・文明への助走です。家畜やバナナ栽培も始まっているでしょう。

驚くべき巨石構造物を造り、見事なレリーフを残した11,500年前頃のトルコ東南部の石器人によるギョベクリ・テペ巨石遺跡は、平地で暮らした彼らが、助走からいよいよジャンプしたかという様子を示しています。

3月末、当地科学院LIPIで開催されたグヌン・パダン及びギョベクリ・テペ合同実証セミナーで、そう実感しました。

ギョベクリ研究会

当地の大多数であるイスラム教徒の大きな年中行事のラマダン(日の出から日の入りまで断食)月が始まる前日17日に出発し、始まった翌日に帰る長距離バスの旅をしました。

リュックを背負い肩に力が入って西ジャワを回った1年前とは異なり、今はほぼ通学の格好・荷物です~と出かけました。

距離の長さで途中の町の様子を、そしてラマダンの始まりの時期であるのでその様子をということです。

バンドゥンから東南に向かう中部ジャワ州、ジョグジャ(-カルタ)へのバス旅は、市内の東部から発着する分かり易いものです。

途中の大休憩を入れて往きはジョグジャまで13時間、帰りはその奥のソロSoloから15時間でした。それでも、上窓からの自然な風、2人用席を一人で、道が舗装され渋滞もなく、景色を観たり帰省の女子大生さんなどと話をしたりで苦にはなりませんでした。ともかく何でも初体験ですし。

長距離バス途中休憩

現代の街道沿いでしたので、店、イスラム教会、学校、官公庁、田畑、川と橋、山々、曲がりくねる山道、など西ジャワ州とそれ程の大きな違いはありません。

西ジャワの川は非常に深い谷が結構ありますが、中部ジャワの川は深くないです。

私にとって一番の違いは、屋根がトンガリ2段なのは類似ですが、千木を見ませんでした。

伊勢神宮・出雲大社などから、ラオス、タイ、西ジャワで見る建物上部の千木は、山道の州境を越えて中部ジャワに入ると見なくなりました。

そこの部分にアクセントがあるものがみられ、最早、千木ではないですが、この変化もまた興味深いです。

トンガリ屋根

そして、この州境はスンダ人とジャワ人の分け目でもあるところが、意味がありそうです。

さて、ラマダンが始まり、日中は屋台が閉店または開店休業してますのではっきり分かります。(それでも開いていて異教徒が食べる所はあります。)

早朝の暗い中、帰りを歓迎されていると錯覚するような灯りが通りに煌々とつき人々で賑わっていました。各地で同様の特売(日中は高い。)だそうで、夜明け後も我がバス停の上では続いてました。私には、師走の晦日あたりの感じです。

ラマダン店2夜明け特売

そして、今回、世界遺産ボロブドゥール、百万年前と言われるジャワ原人のいたサンギラン、何故か中米マヤのピラミッドと酷似していると言われている不思議なスクー寺院(修復中)と、人類の百貨店の主要階を観ました。

ボロブドゥール ボロブドゥール

ジャワ原人博物館 サンギラン

スクー寺院 スクー寺院

私にとっては、やはりバスを乗り継ぎバイクタクシーに乗り田舎の奥に行ってみて初めて分かり、感ずる大きな発見!が、それぞれにありました。次回から報告いたします。

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