Nara Akira http://www.sunda-wind.net

私たち現生人類の出アフリカ後の展開について、米ハーヴァードHarvard医大のアマゾン3部族のDNA分析で最も近いとなったアボリジニ等(赤丸塗りつぶし)とアボリジニに近い南インド人(赤丸)をいわば「元々の人々」ということで、下図のようにパンカル人Bangsa Pangkal(仮称)と認識しました。

そして、この中から北方に展開していくことになります。

それでは次に当時のそのパンカル人の地域の状況がどうであったかを考えますと、その中心のアジアの楽園地域は半島陸地ですがインド亜大陸と比較して分かりますように広大な地域でした。

基本的には世界が氷期の寒冷・乾燥であった中で、出アフリカ後に進出したこのパンカル地域は、温暖な暮らし易い気候と植生に恵まれていました。

動植物の種類と量も豊富で水産物も豊かな食料が豊富な地域でした。従って楽園地域surga di dalam Asiaと呼んでいます。

中でもバナナbanana栽培は極めて古く、おいしく食べれるよう改良を重ねたもの(遺伝育種学の大家 故中尾佐助)で農耕の始まりawal pertanianとされ、重要な食べ物です。

各国首脳が来た昨年のアジア・アフリカ会議の大統領招宴午餐のデザートが、ピサンゴレンpisang goreng(揚げバナナ)であったと知り納得です。

地域については、水利専門家のDhani Irwantoが楽園地域の主要な河川sungaiの状況を推測していますが、下図のとおり水は豊かです。帰省することを川上に帰るという人たちです。

今も基本的にスンダの人は、川そばに家々を造り背後に田畑が基本ですし、舟を持つ漁村は漁村ですが、マングローブ(熱帯・亜熱帯の湿地森林)mangroveでのワニの子獲りの写真を見たことがありますので、いわゆる魚、貝でないものも食料としていたでしょう。

そしていくつかの地域区分が生じ、暮らしぶりの特色も場所で異なり、多少の差異が出てきていたかもしれません。

次に、当時の人々orang Pangkalはどうだったかですが、出アフリカ後の人に近いだろうといわれているのがアンダマン諸島、マレー、比にいて今も暮らしている少数民族ネグリトNegrito人の人たちで下図の大円地域は少なくともそうであったと考えられています。

その大円地域のジャワでは、4万年前頃のワジャックWajak人がいますが、ネグリトNegrito人からはすでに変化しているbedaようです。

また、地域の北部ベトナムで1万年まえのハンチョウ人が発見されており、沖縄で発見されている2万年前頃の人骨に似ているといわれていますので、時代が新しくなれば変化も大きいようです。

4-3.5万年前頃の洞窟goa絵、人の手型がスラウェシSulawesi南部で確認されており、その精神性や芸術性は当時の人類の先端を行っているレベルtingkat tinggiです。また、石器類も当然使用され社会性ある集団であったと当地教科書に書かれています。

人について、各地から人が集まるバンドゥンにいてどうかと聞かれれば、パプアの学生さんがイメージに近いかなと思います。

以上、パンカルの地域と人の状況を考えてきましたが、恵まれた広大な地域であったにも拘わらず、北に向かったtersebar ke utaraのはそれでも暮らし易い海辺・川辺での人口が飽和penduduk jenuhanしたのでしょう。

もしかしたら火山の噴火・噴煙や地震津波といった災害bencanaが契機であったのかもしれません。今も噴煙での立ち入り制限や洪水災害のニュースをよく見ますので思い付きます。

次回は、いよいよこのパンカルの人々が北上した先の日本列島について考えます。

 

 

 

 

Nara Akira     http://www.sunda-wind.net

前回は、Harvard Medical School のDNA分析チームによる万年を超える大昔に関するアマゾンAmazon部族のDNA分析の調査報道をお伝えしました。

その内容の検討に入る前に、まず大昔の私たちの祖先について述べます。

今、地球に生きる全ての人々の万年の大昔の祖先のアフリカにおける誕生、そして出アフリカ、世界への進出展開についての当サイトの認識は、これまでお伝えしておりますように下図です。

(第1図)

さて、前述の調査報道のタイトルは、豪アボリジニは最初のアメリカ人か?となっていますが、図で分かり文中にも書かれていますとおり、パプアニューギニア、アンダマン諸島の人とも近いです。従って、アボリジニの強調は、豪報道機関である故でしょう。白丸はアマゾン3部族とDNAの関連がないことを示しています。

Geneticists have found that Native American tribes living in the Amazon are most closely related to Aborigines from Australia, Papua New Guinea and the Andaman Islands, as shown in the image above, where warm colours show the greatest level of genetic affinity. White circles show populations with no genetic link.

(第2図)

ハーヴァード調査チームは、出アフリカ後の比較的早い時代に島から島へとアジアから豪へ移った(hop)海の民a sea faring people アボリジニの子孫がアマゾンの3部族であり、太平洋を越えしかもベーリング地峡から北米に入った人類よりも早かったのでは(may be)とみています。

さてそれでは、南米へ向け出発・展開した元々の方のことを考えてみましょう。

それは、豪アボリジニとパプアニューギニアとアンダマン諸島の人々がDNA的に近かった時代です。そして、豪アボリジニの祖先Nenek moyang Aboriginについては 現在では南インドIndia Selatan系とする説が有力である(Wikipedia)とみられています。

調査チームは、①今回調査して見つけたアマゾン3部族のDNAは古いもの ②同様のDNAが北米大陸に無かったこともあり、ベーリング地峡を渡ってアメリカに入った人たちよりも前に南米に入っただろう(may be) として述べています。

これらのことから、人類がアジアの楽園Sundalandから、報道では海と暮らす民a sea faring people とされている人々が島伝いに筏・舟で豪に渡り、アボリジニとして痕跡を残す4万年前頃からベーリング地峡を越えて人類が北米に入る(筆者:2万年前頃)間の時代だったのだろうとなります。

そしてその展開は、豪アボリジニ、パプアニューギニア側の人たちであればフィリピン東を北流する黒潮Arus Hitam沿いが考えられ、アンダマン諸島側の人たちであれば海水面が大幅に下がり広々と拡がっていたアジア大陸東側の海浜pantai地域を北上したことが考えられます。

(第3図)

ここで報道が触れていない隠れている問題を考えたいと思います。

上図の赤で囲われた4地域のDNAの近い人々は、第1図から分かりますとおり、人類の

出アフリカ後の比較的早い時代の人ひとたちですので、今と比べれば人数もずっと少な

く人の形態、言葉、生活なども類似性の強いものだったでしょう。

そして、民族としての慣習を守る結びつきの強さや部族によっては人里離れた地域で、

アマゾンの3部族の人たち同様にこの現代にまで生き抜いてきています。

さて、隠れている問題とは、人類の展開としては中で最も早い南インドの人がアボリジニに

近いといっても途中を飛ばして直接、達することは考えられません。

従って、この地域では同種の人々が暮らしている状況の時代だったということで下図のよう

になり、当時この地域にいた人々をパンカル人Bangsa Pangkal、地域をパンカル地域

と仮称します。

それは、現生人類の状況をなかなか推定することが難しい大昔の時代におけるDNA分析

の実証性を有する概念です。なお、パンカルpangkalとはここの言葉で「元々」の意です。

(第4図)

これにより、当サイトのお伝えしてきている前掲第1図の現生人類の展開図に、サフルランド

方向からの北上ラインを加えます。

次回は、人類史上注目すべきこのパンカル人、地域について考えていきます。

遠いですが、日本列島が視野に入ってきます。

 

 

 

 

 

Nara Akira    http://www.sunda-wind.net

当サイトは、昨年の十大ニュースのトップにHarvard Medical School の遺伝子専門家Prof.David Reich教授チームによる先史人のDNA分析結果を挙げました。

それは、南米アマゾンAmazon流域の先住3部族のDNAが豪アボリジニAboriginと最も近く、隣といっていい北米インディアンとは違うberbeda dengan Amerika Indianという驚きのものです。

これまでの人類史の定説は、2万―1.5万年前頃、ベーリング地峡からアラスカを通って北米に入った人類は、南米に入って1000年くらいの間に南端に達し南米域に拡がったというものです。

*ベーリングBering海峡 – Wikipedia

最狭部はデジニョフ岬プリンスオブウェールズ岬の間で、86km。深さは30–50m。海峡

の中にはダイオミード諸島がある。7月から10月以外の間は結氷状態になる。(問題にして

いる時代には、海水面は100m以上現在よりも低下していました。)

ハーバードチームは、アマゾン族の祖先2%は、豪アボリジニにとリンクしていること、南北アメリカへは複数波で現生人類が来ていることを明らかにしました。

また、出アフリカ後の古い人類であるアンダマン諸島人やニューギニア人と近い豪アボリジニの子孫は、may be を付けてますが、ベーリング地峡から北米に入ったインディアンよりも早い時期に南米を「colonize植民地化」 したとしています。

そして、may haveをつけていますが、広大な太平洋を横断してcrossed the vast ocean expanseと。しかし、北側の氷床ice sheetsを通って北に来ることもできたがと。

(下図のDNAの近親性は、最も近い赤から暖色の順に。白色は近親性がない。)

即ち、人類がベーリング地峡を通って北米に入ったと言われているよりも早い時期(2万―1.5万年前puluh ribu tahun lalu以前)に、①舟で豪から南米に渡る ②氷床を通って北米に入り南米に至る。の2ルートが言われています。

しかし、

①は、ラピタ人が3千年前頃、楽園Sundaland地域から漕ぎ出し東方の太平洋の島々nesia(ミクロ、メラ、ポリ)に展開していったと考えられており、それ以前のしかも万年前の古い時代の横断の裏付けは全くなく無理でしょう。

②も人類はベーリング地峡手前で数千年以上の足踏みをした後、地峡を通ってアラスカへ入っていったと考えられています。

それ以前の時代において、言われる氷床通過は難しいでしょう。また、チーム自体が北米大陸通過に否定的なDNA分析の評価です。

従ってこれらのことから、人類が展開していった時代における北回りbalik utara馬蹄型penbentukan tapal kudaの環太平洋海浜・舟行ルートRLPPの存在を提案するproposalものです。

南回りルートは、文字通りとりつく島がありません(南極経由は論外ですし。)、また、時代は下りますが関連で、米太平洋岸で縄文土偶が、南米北部で縄文土器と同様のものが発見されるなど日本列島人との関わりが発見されています。

(RLPPとは、当サイトの下図中のインドネシア語拙訳の頭文字をとり、海浜のpantai・舟perahuの2つのpは・で結ばれる内容から1つにしました。)

RLPP説は、紹介してきました豪アボリジニとアマゾン部族の問題から、むしろ今の世界に生きる肌の色も違う全ての人々の祖先、即ち出アフリカを果たした後の現生人類の展開の歴史に関わる問題を提起することとなります。

それは、アボリジニAboriginの豪とアジアの楽園Sundaland、日本Jepang列島の関連の重要性hugunbang pentingを浮かび上がらせるものです。

更にこのことは、実は報じられていない注目すべき重要なことが秘められていると考えており、次回更に説明していきます。

 

 

Nara Akira    http://www.sunda-wind.net

明けましておめでとうございます

遥かな祖先は、天・神・自然を敬い畏れ、環境と共生しつつ、力を合わせて活動し、サルの社会と全く異なる人間の社会を建設していきました。

明日のため、今年もまたその源流の状況を探っていきます。

そしての方向の赤道越えの地にて、この地域とお国のお役に立つべく, しっかり直立2足歩行し微力ながら努めて参ります。

本年の皆様のご健勝とご多幸を心からお祈り申し上げます。

Selamat tahun baru.

Nenek moyang berkembang sosial manusia yang berbeda lain lagi dengan itu monet.

Mari meneliti keadaan asal usul itu demi masa depan.

Saya mau bekerja sosial untuk Indonesia dan Jepang oleh berdasarkan penelitian ini.

Tulus berdoa untuk keluarga Anda sekalian yang kesehatan dan kebahagiaan semuanya.

Nara Akira     http://www.sunda-wind.net

今回は、ニュースが伝えない、その意味する衝撃的な内容についてお伝えします。

1.ハーバード医科大が、極めて古い豪アボリジニと南米アマゾン部族一部のDNAが最も近く、他にはないという分析結果を得たと報道された。

DNA Aborigin dan tiga Suku Amazon sama oleh penelitian Harvard Medical School.

2.私はこのことは、古人類の部族がアジアの楽園地域―>北上し日本列島―>南下し南米へと海浜・舟により万年の大昔に移動展開し住みついたことを意味すると考える。

Aborigin kuno tidak bisa menyebelang Samudra Pasifik, jadi orang Jepang kuno yang punyai DNA sama menurun ke Amerika Selatan  dengan purahu dan/atau lewat pantai rute.

即ち、太古に環太平洋を、豪から馬蹄型に南米へと繋ぐ人の移動連携があった。

そのことから、往時の通過地域である日本列島の重要性が人類史的に注目される。

細部説明といたします。

暮れも押し詰まり、我がアジアの楽園関連の十大ニュースは何だろうと考えていましたら、当地の仲間があるニュースをアップしているのを見つけました。

度々お目にかけているわがサイトの人類展開図(豪は5万から、欧州は4万年前からの説あり)のその後のアメリカに関するものです。

それは、米ハーバード医科大の遺伝子専門家David Reich教授チームの研究を伝えたものです。

1.南米アマゾンに住む先住3部族のDNAは、他の何処よりも豪のアボリジニのものに最も近い。

2.ベーリング海(地)峡を越えて南下したとみられている北米先住民との類似性が全くみられず、かつそれらよりも時期的に早い可能性があると考えられる。

3.このことは人類の展開において、豪アボリジニが初めて南米を”colonized植民地化”したとみられ(may have A->B)、誰が最初にどこからアメリカに来たかというこれまでの定説を覆す。

このニュースは、実は世界の人類史にとって衝撃的な内容を含んでいると考えます。

1.まず、1万数千年前以前に豪アボリジニ家族が舟で太平洋を展開して行き、遂には種族が横断して直路南米に達したとは考え難い(これまでの裏付けは全くなし)。

人類の太平洋諸島への漕ぎ出しは、アジアの楽園Sundaland地域からラピタ人が3,000年前頃、初めてとみられている。

2.かねて、日本人とアンダマン諸島人のミトコンドリアDNAに近い例がある近親性は、日本における研究で明らかになっている。

従ってこれらのことから、太平洋横断でなければ、豪アボリジニ同様のDNAを持った者が北回りで日本列島を経由し南米に行った可能性が高い。

これを環太平洋海浜・舟行ルート(RLPP)と仮称する。

裏付けとなり得る関連する事象は、時期が下るが縄文人骨、土器、土偶、更には世界でも限られた体内ウィルスの共通性など、主に米大陸太平洋岸でこれまでいくつも発見されている。

注:インディオの語の使用は賛否ありますが、差別意識ない日本の読者に理解しやすいことから用いています。

2.この発表で、人類の展開において、アジアの楽園地域(アボリジニ含む)から北方の日本列島人に至るまで、北上ルート沿いはDNAが同一性ある近い人々が存在したことを窺わせる。

インド洋アンダマン諸島・楽園・豪から北回り(海浜・黒潮ルート)で南米アマゾンにまで、人類展開の繋がりがあったことは、先史におけるアジアの楽園Sundalandの重要性と当時の人類の海洋行動力を含む文化の伝播を示すものである。

3.これまで新大陸と呼ばれてきたアメリカの南米の北部が、実は環境に恵まれ考えられてきた2万年前頃以前に日本を経由して渡ったとみられる人々による相当規模の人類社会が営まれていたと考えられる。

今や太平洋を越えてアジアから人が米大陸に来たのか、が論点ではない。

a. 舟で長距離を日本から渡洋南下したのか b. 主に海浜を長期間かけて伝って移動南下したのかが問われている。(海水面が当時より100m以上上昇しているので、ルート中の遺物の発見は困難)

4.南米と類似の縄文土器などが出土している南九州、神奈川のみならず古い人骨の発見された沖縄含めて、特に海の道沿いの国内の遺跡相互の関連も注目される。

(柳田國男 海上の道 から)

また、特に環太平洋岸の遺跡については、人類史的な視点からアジアの楽園Sundaland北上ルート上の地域や新たに南北米大陸との関連について注目される。

5.前述の海水面の上昇により、今は地域は海底になっているため発見は難しいが、内陸の遺跡・遺物からの推定も交え考察を進める必要があろう。

米国内のユタ州の遺跡など、内陸にも参考となる遺跡がある。

以上、

この豪アボリジニ・アマゾン部族のDNA研究は、長い間の少数説(*スミソニアン博物館のBetty Jane Meggers等)に脚光を当てることとなり、人類史の認識を大きく変える意義深い研究成果です。

*米大陸独自の発展説ではなく、縄文人が太平洋を舟で越え、南米(エクアドル)に土器製法をもたらしたという伝播説。

そして、豪アボリジニ、アンダマン諸島人とアマゾン部族のDNAの共通性及びそれらと日本列島人との共通性の存在から、馬蹄型の環太平洋ルートが認識されました。

現生人類が、アジアの楽園Sundalandへの到着後の早い時期に飽和し、海も越え東方の豪アボリジニへ、北方の日本列島人へと展開しました。

このことは、楽園の当時における人口密度の高さと文明の曙を、また、人類の海洋渡洋力などを示すものと考えます。

Itu menunjukkan banyaknya penduduk  dan peradaban di Sundaland, dinamika kelautan manusia kuno juga.

さて、奇しくも来年、南米リオRioで世界のスポーツ祭典オリンピックOlimpiadeが行われ、その後アジアの日本Tokyoで開催されます。

人類史の流れとは逆ですが、南米からアジアの楽園Sundalandまで、これを機に環太平洋海浜・舟行ルートRLPPの先史の解明と再び環太平洋の人々の連携が進むことを期待します。

そして、本年合意を見た環太平洋パートナーシップTPP協定による新たな時代の域内の発展も。

Semoga diperjelaskan prasejarah rute RLPP,  mengembangkan koneksi orang-orang  dan kemajuan ekonomi regional.

 

前回、当地の竹製品に惹かれる事情を述べましたが、それらが万年の昔を想像させるからです。

今も実によくいろいろな製品が作られ活用がなされています。

此処ではスンダ古老から、日常使っている竹製のかさ帽子が、300年前からだとさらっと言われて驚かされます。

では以下いろいろです。

上下とも竹楽器であり、他に有名なアンクルンangklungなどもあります。

 

バドゥイ族のかさ帽子                    砥石のための竹利用―石器時代のようです

街の竹アート

(Pon S.Purajatnika から)

万年前にアジアの楽園に上のようないろいろな竹製品があったとしましても、それが残り発見されるということは南国ではなかなか期待できません。

(Yanto Gumilar から)iroirona

しかし、青森の三内丸山縄文Jomon遺跡(5500~4000年前tahun lalu頃)で竹製品の「縄文ポシェット」が見つかり、現代と変わらぬその技には皆が驚かされています。

(公式ホームページ画像から)

縄文時代のかごの研究UTokyo Repository:http://hdl.handle.net/2261/15739では、

縄文時代には土器や石器をはじめ様々な道具が用いられたが、その一つに植物を編んで成型した製品がある。それらは先史時代から現在まで生活の中で重要な役割を占め続けてきた稀な道具である。

とされています。

普通に考えて、竹製品がこれだけであったとは思われませんし、木工製品も当然考えられます。

大昔の人々は想像を越える制作技術を有していたと考えるべきでしょう。

無論、アジアの楽園Sundalandで使われていた竹製品が三内丸山まで伝わったとは言えません。日本独自か、あるいは他の例えば長江・雲南発であったり、そこを経たものかも知れません。

いずれにしても私にはそれらの地域が、竹や木の製品をかなりの技量で作り、今も愛用しているように思われます。

工作技術という点では、時代はずっと下り中世ですが、ケチュアの人々の石積みがあります。

下の写真ですが、日本のお城も顔負けの技teknologiです。驚きの昔の技で、誇示しているかのようです。ずっと昔から伝えられてきた技の極致のように思えます。

ケチュアQuechua、またはQuichua)は、かつてInkaインカ帝国(タワンティンスーユ)を興したことで知られる民族である。ペルーエクアドルボリビアチリコロンビアアルゼンチンに居住する。(Wikipediaから)

皆様は、賑わいのクリスマスイブも過ぎ本年の越し方に思いをいたされるとともに、新たな年に向かわれていることと思います。

22日、西ジャワ州のスンダ文化保存振興会の催しとして、スンダ王raja族血統の方々、バンドゥン工科大ITB教授、科学院LIPI研究者、スンダの文化budaya Sunda芸能関係者などが集いました。(撮影時には早退、遅着の方々もいます。)

Bestdaya Bengkel StudiBudayaさんのサイトでも紹介されています。

そして一足早く、スンダ暦の新年tahun baruを祝うとともに新カレンダーKalenderのお披露目配布が行われました。

新たな年は、1952年で巨石遺跡を今回のデザインとして表紙に採用したとのことです。

集いでは、カレンダーと関わりの深い天文について、スンダの人々の農耕中心の暮らしと星々bintangの関係などが学術的に紹介されました。

また、カレンダー表紙の巨石遺跡との関連で、地域において近年になり調査が進んでいるグヌン・パダンGunung Padang遺跡(前回、当ホームページで紹介)についても説明がありました。

日本でも来年は皇紀2676年ですが、スンダ暦も同様のものです。

当地では、学校Sekolahにおいてインドネシア語・文化とともに郷土のスンダ語・文化がしっかり教えられ継承が図られておりhubulwatan立派です。

日本では今、町興しperkembangan kotaが盛んに唱えられていますが、まずは郷土の歴史と文化をしっかり見つめることからでしょう。

さて、実は今回お伝えしたいのはスンダの人たちが伝えている別の暦のことです。

世界には大変古い暦が、エジプトやバビロニア、中国などにもあり、マヤの暦は特に有名です。(電子拙著 「アジアの楽園探訪記」をご覧下さい。)

当地で伝えられているこの古い太陽暦では、その始まりの時期がなんと驚きの17,000年以上前です。

私たちが今使っているグレゴリー暦と照合でき、15,239年が、グレゴリー暦元年です。

世界には、万年、数千年の大昔を視野におさめて伝え、今も暦として活字にしている人たちがいるということに思い致すことが重要です。

エジプトMesirの神話に、神官のいわば師匠に対して弟子が文字hurufを覚えましたと得意げに報告したところ、バカ者、そんなのはかえって天、神の真理が分からなくなるtidak baikと戒められている一節がありました。

人類社会の文明の始まりとすべきは、文字ではないです。

我が国でも古事記に対する稗田阿礼の例のように、その記憶力と人々の語り伝えは驚嘆すべきものです。

野球のイチローIchiroやサッカーのメッシMessiの神技の真髄は、文字では伝えられないでしょう。観て感じ取るほかないでしょう。

同様に太古の船乗りmatros、魚獲り、石工tukan batu、大工などの神業は、相伝で語り伝えられたものの残っていないことに思いを致す必要があるでしょう。

民族の語り伝える神話mitosは、語り伝えてきた意義からもっと研究、教育pendidikanされるべきと考えます。

また、大昔の人々Nenek moyangはこれまで考えられていた以上に優れていたkebrilyananこともしっかり認識すべきと思います。

最近、日本でも飛騨の金山巨石群Situs Kanayamaに関して、太古の縄文人Jomonが夏至、冬至などの太陽Mata hariの運行を理解し、暦として巨石kalender megalitを組み建造していたと発表されています。

なお、アジアの楽園Sundalandに関する本ホームページSite iniについて、お気軽にトップページの欄からご意見messageを頂けましたら幸いです。

 

 

アジアの楽園Sundalandにおける万年前の文明の曙を現場において考察し、証左の一つとなる西ジャワJabarのグヌン・パダン巨石遺跡に立ち、その状況を当地の専門家にいろいろ聞いてきました。(「アジアの楽園探訪記」を参照下さい。)

此のたび、「神々の指紋」を書いたGraham Hancockが、「Magicians of the Gods」を出版し、他の世界第1級の注目遺跡とともに、インドネシアのピラミッドとしてグヌン・パダンについても書いています。

この古いミステリアスな遺跡について、調査の第1人者の一人であるDanny Hilman Natawidjaja 博士から内部に関する最新の状況をお聞きしまとめましたのが下の概図です(図責 奈良)。 

私が特に注目する点は、

1.万年の昔に人々が手を加えた最深最下層paling bawah dasar Piramidaが、現在の表面第1層と形状が同様のものmiripであること。

2.内部に複数個の空間があり、人が造ったか手を加えたものである空室ruanganとみられるものであること。細部の空間内状況は不明のミステリーです。

3.石具 alat batu(当地の研究者は、スンダ人が大切にする小刀kujangに似ているという)の遺物が出土していること。

赤道を越えた島から、世界注目の遺跡に関する最新現地ルポlaporanのクリスマスプレゼントHadiah Natalとさせていただきます。

前回は長い長い時を経て アジアの楽園Sundalandから、爽やかな新たな風が吹き始めたASEAN共同体の発足宣言をお伝えしました。

かってここでは、温暖化による海水面の上昇により万年往時の半島大陸地の過半が海に沈む人類史上の大悲劇に見舞われました。

Sundaland - Last Glacial Maximum_75%

(Dhani Irwantoの図から)

パリでのテロとCOP21は、奇しくも現代が抱える問題を象徴的に私たちに突き付けています。

インドネシアの国鳥ガルーダに乗られるヴィシュヌ神(毘紐天)ですが、人類史の百貨店であるここでは、あのバリ島の海岸プムテラン ビーチに眠られる悲しい神々のお姿も見られます。

 神鳥ガルダの上に乗るヴィシュヌ – Wikipedia

以下、Global Indian Brog, Just Duweさんからです。

Local call this new Scuba diving spot at Pemuteran Beach as “Underwater Temple Garden – Bali”

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COP21が掛け声だけに終わりませぬように、人類に天罰が下りませぬように。

トップページ

これまで日本にも大いに関係すると考えられるインド亜大陸ドラヴィダ・タミルTamilの歴史や先史の「補助線」、アジアの楽園Sundalandについて考えてきました。

ドラヴィダ・タミルに関してはモヘンジョ・ダロ西方の万年に迫る古い遺跡や、今は土漠になっていますが宗教文献リグ・ヴェーダに書かれた内容に合致する、ヒマラヤからアラビア海に至る河川沿いに遺跡がどんどん発掘され、歴史の見直しが進めてられています。 

近年の科学技術の進歩により、1万1千年前頃のトルコ東南のギョベクリ・テペGobekli Tepe遺跡は、その地下に更に沢山の同様の遺跡があることが分かりました。

新石器時代初期以前の狩猟採集民族とみられる人たちによる驚きの巨石遺跡で、時代の様子と石器人に対する認識を大きく替えるものです。

英国のストーン・ヘンジStone henge地域も下写真の広域調査により、地域の地下に数多くの遺跡があることが分かりましたし、世界の各地で地中や海中の遺跡が明らかになってきています。

140911_stonehenge2.jpg

ストーンヘンジ周辺の地下調査の模様。 Credit:Stonehenge Hidden Landscapes Project
 

今回はエジプトにおいて、あのツタンカーメン墓Tutankhamun’s tombに描かれた絵の裏測に隠れた空き室がある(90%の確かさ)との驚きの発表がありました。

FILE -- In this Thursday, Nov. 5, 2015 file photo, tourists look at the tomb of King Tut as it is displayed in a glass case at the Valley of the Kings in Luxor, Egypt. On Saturday, Nov. 28, 2015, Egyptian Antiquities Minister Mamdouh el-Damaty said there is a 90 percent chance that hidden chambers will be found within King Tutankhamun's tomb, based on the preliminary results of a new exploration of the 3,300-year-old mausoleum.

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出アフリカを果たしました現生人類の東方への展開におけるアジアの楽園のSundalandに至る前、前回お伝えしましたようにインド亜大陸地域の文明が明らかになってきました。

図1

人類の進出展開10.23peg

それは、ドラヴィダ族の万年に遡る広域かつ石器から青銅金属器にまで至る長期にわたる文明であり、かつて教わったインダス(川)文明と言う狭い呼称におさまらないものです。

高いヒマラヤ山脈を発しアラビア海にまで至ることをもって、文明を担った人々が聖なる川と認識し、何度も最古の聖典リグ・ヴェーダに登場するサラスヴァタ川流域(現在は干上がった土漠)の新たな遺跡を含む文明です。

ヒマラヤ山脈南西の諸河川流域及び海岸部と現在の海中をも含めた広域にわたる注目すべきドラヴィダ族の古い先史文明です。

図2

ヒマラヤ南西文明peg10.23

 

サラスヴァタ川沿いの約2,600遺跡の2/3が、近年になって発見されています。流域の文明は、4,200年前頃、300年にわたる長期干ばつにより衰退したものとみられています。

(川である水の女神サラスヴァタは、仏教に伴い日本に入ってくると弁天 様となっています。)

河口のドゥヴァラカ海底遺跡では、海面下23mの海中に砦壁、波止場などの興味深いものが発見されています。

この文明の中核を担ったタミルの人々は、クマリ・カンダムKumari(女王名)Kandam(大地)の話を長くしっかりと語り継いでいます。

大昔に印亜大陸の南にあった、父祖の進んだ王国の大地が(破滅的に)海に奪われたというものです。

15世紀になって、その陸地の広さ、内部の地域区分が記述されているようですが確としたものではありません。

図2で分かりますように、万年前頃の昔は大陸とスリランカ地域が陸地として繋がっていましたので、そこではないかという説があります。

あるいはもしかしたら、南の解釈によっては、同じく図2の海底遺跡地域のことかもしれません。

他方、近代になってから、アフリカ東方マダガスカル島と東南アジアの生物の不思議な類似性が注目されました。

島にキツネザル(レムール)が生息しており、この仲間は世界中でここからしか知られていない。しかし化石種インドから発見されており、また近縁の原猿類はこの島を挟んでアフリカ中部と東南アジアマレー半島インドネシアにのみ生息する。このようにインド洋を隔てた両地域には近縁な生物が見られる(隔離分布)。(ウィキペディア)

このことから、キツネ猿・レムールが住んでいたレムリ アLemuria大陸がかってあったのではという説が登場し、タミルのクマリ・カンダム話と結びつきました。

Kumari Kandam map.png

(wikipediaから)

ところが、この大陸の仮説は現代の地質学によって完全に否定されています。

でも見てください、仮説レムリア大陸の東方横には海によって大地を奪われたアジアの楽園Sundalandがあります!!

マダガスカル島には、現在も遠く離れたマレー・インドネシア系の子孫が生活しており、同じ言葉を話している不思議さがあります。

キツネザルが教えてくれるマダガスカルMadagascar島―アフリカ中部Mid Africa-インドIndia-アジアの楽園Sundalandの関連性はもっと注目されてよいと思います。

そして、タミルの語り継ぐクマリ・カンダムKumari Kandam話は海に沈んだアジアの楽園Sundalandのことかもしれない、と私は考えます。

そうしますと、図1のように出アフリカ後の人類の東進・北上ルートはその後も往来が続く訳ですので、海の民でもあるタミルと日本の古い時代の関わり、言葉の類似性は驚くほどのことではないでしょう。

そして、大家の柳田国男先生が晩年の昭和36年、日本人の起源について、もっと海上の道に目を向ける必要があるのではないかと言われたことにも思い至ります。

名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月・・・

(柳田先生の話をもとに島崎藤村)

イネ島やしpeg

(インドネシア・ブリトゥン島の椰子の実)

丁度、先生の生誕140年を記念する展示会が、横浜の港が見える丘公園の神奈川近代文学館で11月23日(月・祝)まで開催されています。

小学校の遠足でこの港に行き、沢山の外国の貨物船を見ました。そして大人になってから、遠足で感じた気持ちを「海外雄飛」と表現することを知りました。

貿易立国、日本の若い人たちがこの気持ちを忘れないで欲しいと思う歳になりました、余談です。

 

 

 

 

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前回お伝えしましたように、インド亜大陸地域では、近年驚くべき古さ、数の遺跡が発見されています。

まず注目されるのは、アフガニスタン国境に近い古いメーガルMehgaruh遺跡と衛星写真分析に連携したサラスヴァタ川(現在は干上がっている)流域の多数の遺跡群です。

印遺跡群jpeg10.20

メーガル遺跡は、フランスチームが、9,000年前から3,000年前ころまでのものと報告しています。当時は今と違って、森林と水が豊かな地域だったようです。

現在と変わらぬような泥土の家での定住、初期農耕・家畜、新石器のほかに人骨、装身具、小立像などが発掘されています。

歯が西方ではなく東方(アジアの楽園Sundaland系)の人たちと類似であることが注目されます。

有名なインダス遺跡モヘンジョ・ダロMohenjo-daro(4,500-3,800年前、約4万人)からアフガニスタン南部のカンダハルに至る経路沿い地域でもあります。

そして何よりも、パキスタンにあって今もドラヴィダ族語が話されている地域の近傍です。

ドラヴィダ・タミル言語遺跡peg

サラスヴァタ川沿いは、かねてハラッパ遺跡として知られていましたが、リグ・ヴェーダの記述を裏付ける広域にわたる驚きの数の遺跡群です。

更に、海岸地域でも海中を含め遺跡が発見されてきています。

そして、万年前は大陸と陸続きだったスリランカの中央山地に残るドラヴィダ語族の状況から、万年前のインド亜大陸地域は、ドラヴィダ系語族に占められていたことが窺われます。

近年の研究により、上図の北西のカイバル峠方向からのアーリア族が侵入した(3,500年前頃から)ことによる大きな変化というこれまでの見方は修正され、もっと緩やかな自然な変化であったようです。

丁度、我が国における縄文人と新たに入って来た弥生人の緩やかな移り変わりという近年の新たな歴史認識への変化のようです。

違いは、言わば縄文タミルが今もインド亜大陸南部と一部、スリランカ、ネパールなどにしっかり残っていることです。

理由の一つは、語り伝え守ってきたタミルの古く高い精神性、長く活躍してきた優れた海洋交易、造船の民という特性によるものでしょう。

インド中央・北部のサンスクリット語と南部のタミル語を比較した場合、遙かに多くのタミル語がサンスクリット語に採り入れられていることからもその事情がよく窺われます。

ドラヴィダ・タミルは、地域西部のメーガル遺跡の方から東部へ移って行き、また、北部から南部へと縮小して行ったとみられています。

但し、上図ようにインド西部沿岸で数千年前の海底遺跡が発見され、更にドゥワルカ遺跡はもっと沖にも海底遺跡があるのではないかとみられていますので、タミル人は東漸してデカン高原南部に来たと言えるだろうかという状況です。

今やインダス文明と言って片づけている状況ではないでしょう。

メーガルや海底遺跡の古さや近年新たに発掘が進んだサラスヴァタ川沿いの遺跡の豊富さとそれらの遺跡の拡がりの広域さから、ヒマラヤ南西流域文明とでも呼ぶべき状況と考えます。

更に、古い海底遺跡と海洋での国際交易活動が注目されます。

種々の言語との基本的な語彙の共通性などから言葉の面でもタミル語こそ母なる言語と言われるようになってきています。

ところで、インドネシアは、正に多様な人々の島々から成る国であり、それだけに多様な中の「統一」という標語を掲げ建国以来、大変な努力をしてきています。

問題の多い現在の国際連合UNが、範として研究すべき国と私は思っています。

国は一つの言葉インドネシア語ですが、例えば西ジャワ州では地方の言葉を大事に守っており、州庁教育局に地方の言語文化振興の部課があります。

 

JB教育局peg

アルファベットの下に見えるのが、この地域のスンダ語のスンダ文字です。そして、近隣のタイなどのどこよりもタミル文字に似ています。

このようなタミルは、古い時代に彼らの父祖の進んだ王国Kumari Kandamが(破滅的に)海に没したという語り継いできた神話を有しています。

また、古い時代から場所を換えても守ってきた文芸アカデミーSangamに咲いた文学も評価されています。

更に次回も、タミルを追って探究を続けます。

 

http://www.sunda-wind.net 現生人類の出アフリカ後、アジアの楽園のSundalandに至る前にインド亜大陸地域の海浜を経て来ています。 そこの万年の歴史を探って行きますと、実証という観点ではドラヴィダ・タミルの人たちに行き当たります。

南インドIndia selatanを中心に、長きにわたり自分たちの文化を持ち続けてきた人たちですが、何しろ日本語に一番近い言葉として真っ先に挙げられる言葉が話されています。

展開言語図日10.13縮

シンガポールへ行きましたときに、公用語としてしっかりタミル語が示されており、インド人街となってますが、実態はタミル街があります。

土産 (1)縮

タミル塔縮

イギリスがゴム園などでの労働者として、植民地から多くのタミルの人たちを連れてきたと言われており、現在も道路工事、建設現場などで多く見られます。

マレーシア・クワラルンプルの空港でもレストランや空港の清掃などで働いていますし、バンドゥンでは数は少ないですが、親子2代でお店を持って反物を売ったりしています。

タミル嬢syuku 

タミル人男縮

3高のイケメン君は、自分は多数派のタミルオリジナルではない港町マドラス系だと言っていました。親とはタミル語、店ではスンダ語、インドネシア語、英語で頑張っており、ここでやっていくということです。

インドネシアでは植民地としていたオランダ人に連れて来られ、北スマトラの大都市メダンMedan、リアウRiau、首都ジャカルタを主に数万人とみられる人たちが、多い所では自分たちの学校や病院などを持ってしっかり根づいています。

さて、インドと言えば聖典Rig Vedaリグ・ヴェーダです。 古代以来長らく口承され、のちに文字の発達と共に編纂・文書化された数多くあるヴェーダ聖典群のうちのひとつで、最も古いと言われています。

祭祀、呪法、生活、神、性愛、宇宙などの内容の全10巻で、1028篇の讃歌(うち11篇は補遺)です。

 

リグ・原本

(ウィキペディア)

神話扱いされてきた古いリグ・ヴェーダですが、その中で独りきわだち勝る大河と記述されている聖なる、ヒマラヤからアラビア海に至るサラスヴァタ川沿いを主に地域で約2,600の遺跡が発掘されています。

これまでは神話として片づけられてきましたが、記述と遺跡発掘の附合から見方を変えていかねばならないでしょう。

下図左の上のメーガル遺跡は、フランスチームTim Prancisによって約9,000年前という驚きの古さが報告されています。

また、学校で教わったインダス川モヘンジョ・ダロ、印パにまたがるハラッパ遺跡などに加え、衛星写真分析から干上がった聖なるサラスヴァタ川沿いの状況が明らかになり、発掘によって無数の遺跡が発見されてきています。

印遺跡群jpeg10.20

いわゆるインダス文明、そして聖典リグ・ベーダの内容の年代・記述の歴史性、更にはインド先史とそれを担ったドラヴィダ・タミル史が全く見直される状況になってきているのです。

Kini prasejarah India, Dravida Tamil sedang terevisi secara drastis.

日本語の源流議論もそういう状況を踏まえてなされるべきだと思います。

さて、世界史的Sejarah duniaに実に大きな意義sangat pentingを有するタミルDravida Tmilについて、更に探って行きます。

 

未だ問題の多い現代の人間社会のあるべき方向、その将来を考える上で温故知新、人類の大規模な文明社会の始まり、原点の様子を探ることは重要でしょう。

近年、DNAの分析などにより祖先である現生人類の足取りがかなり分かって来たのは大きな成果です。

アフリカを出て海浜沿いに東進、アジアの楽園のスンダランドで北上し、南から、西から日本に到達して日本を覆った後、北からも進入してきています。

人類の展開9.16syuku

しかし遺骨などから分析しうる肉体は、人間を人間たらしめる行動を司る最も重要な精神や心理を内部におさめて運搬する、いわば容器に過ぎません。

この点で、現生人類は出アフリカ後、5万年前頃には容器内のコンテンツとして言葉の画期的な進化を果たし、4万年前頃には洞窟絵を描く精神性を示しています。

そこで、他の動物群とはっきり異なる、人間らしい大規模な集団社会の生活状況となりますと、集団の言葉が精神性や生活文化と直結しますだけにその分析が重要です。

日本では、4万年―2万年前頃に南・西、北から入って来た頃から既に生活に重要な道具として黒曜石の使用が各地で認められています。

それを探して船出し、その使用痕跡の分布から、遙かな遠隔地と人々が交易する知能、コミュニケーション力と海上移動技能を有し、日本全域で生活していたことが分かります。

黒曜石図jpeg

縄文人が1万数千年前には、確認しうる世界最古の土器を作り、狩猟採集その後の初期稲作、交易などに必要なかなりの言語力を有して生活していたことは確かでしょう。

弥生人が3千年前頃に南・西から進入するまでに1万年以上の期間があります。

その間の縄文人による言語の使用、生活文化、信仰などは、地域で差があったとしても日本全土を覆い、その後の基層をなし現代に続く重要なものと考えていいでしょう。

この点で7,000年前頃、南九州鬼界島の火山の大噴火で当時の先進地域の九州はほぼ壊滅したと言われています。

西日本も大きな被害を受け関東、東北にまで灰が及んだ大災害による後退は、誠に残念なことです。

日本語の言わば親語はどれだろうということで、100年以上も言語学的な分析が行われてきていますが、どうも誰もが納得する決め手はまだないユニークな孤立的な言語と言われています。

その中で名前が挙がっているのが、①南方(ポリネシア系)語、②インド亜大陸のタミル語と③シベリアの南のアルタイ語です。

近隣の大陸国と同系でないことは不思議です。

候補が遠隔の途上国の地であり、欧米を含めた言語、文化、歴史などの総合的な研究が容易でないことも解明に至らない理由の一つのように感じます。

因みに、ポリネシアは、せいぜい3千数百年前にアジアの楽園のSundaland 地域からラピタ人が漕ぎ出し入植したとみられていますので、南方地域語と言うべきでしょう。

そして、南方地域語と言えば、7千年前頃には平野部が海没してしまいましたが、基層語としてアジアの楽園Sundaland 地域のことがよく認識されていないのではと感じています。

人類が東アジアに達する前に既に東南アジアで話されていた言葉に思いを馳せる必要があります。

更に、次の候補のタミル語が人によっては、日本からあまりに遠隔地のため結びつかないようです。

しかし一方で、世界的には下図のアルタイ語も(ウラル語も)タミル語に類似と言われていますので、日本での議論はなんだかなあです。バイカル湖地域○Bの人々もCからよりもAルートから進出し北方適応したのでしょう。

展開言語図日10.13縮

その後、強い影響力を持った大陸語に追われた古いものは、離隔した島、陸の孤島と言うべき人里離れた所、山奥などに残ったのでしょう。

現存の言葉をみていきますと、その始源的な古さと広域にわたる影響力でドラヴィダ・タミル語に比肩しうる親語と言うべき言語は、おそらく世界には無いようです。

(南方地域語として、万年の昔のアジアの楽園Sundaland語は、既にそれぞれ類似なものが複数存在していたと思われますが、タミル語との関係を含め不明です。)

現在のイラクであのメソポタミア文明を興したシュメール人の粘土板文字から解明された言葉に接したタミルの学者は、「これは、タミル語だ!」と共通性を実感しています。

また例えば、時代は万年の議論に比べればずっと新しいものの、あのイエス・キリストが最後に発した7語があります。

十字架の上の苦しみの中で、 回りにいた人は誰も理解できなかったとも言われているその7語は、ドラヴィダ・タミル語では、「神よ、死をお与え下さい。」だったと解されている始源性があります。

そして、青年時代の状況が全く不明なイエス・キリストは、当時、各地にあったインド伝道所に接触していたのではという見方すらあります。

人類史におけるドラヴィダ・タミルの地理的な位置、古い文化、近年の発掘成果を踏まえたその先史をもっと認識する必要が有るように思われます。

タミルの影響が日本に及んでいることも、共通の単語や日本の地名に残っており間違いないでしょう。

では次に、そのドラヴィダ・タミルに光を当ててみたいと思います。

 

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ときどき街の食堂で、アジアの楽園のSundaland関連記事を探して古新聞を読みますが、この写真にはびっくりしました。

私のホームページ読者の皆さんなら、何度も目にされている人類の進出展開の北上ルートを想起させますので。

渡り鳥図syuku 

(10.1付 Pikiran Rakyat 紙から)

人類進出図和syuku10.5

これはハチクマ鳥の渡りであり、冬モンスーンの9月から3月は、アジア北から大陸ルートを暖かい豪へ、夏モンスーンの1月から8月は、大洋ルートを北上し日本へという、1,300万年前からとみられる渡り行動です。

ハチクマ鳥縮 渡り鳥図

(10.1付 Pikiran Rakyat 紙から)

日本では、ミツバチの巣の蜂蜜や幼虫を食し産卵もしますが、ミツバチは巣を壊されるとまた別の新たな巣を作りますので、鳥によって飼育されているようだと言われています。

雨が近づくこの時期は、渡りが当地では田植えを始める時節であることも告げるそうです。

私の住んでるバンドゥン東北のDago 地区は、渡り鳥が列をなす回廊コースだそうで、記事は環境観光の振興を提案しています。

私は、人間の到着の遙か昔から行われてきたこの万kmという長距離の鳥の渡りは、人間の新たな進出展開に大きな影響を与えたものと思います。

鳥が行って帰ってくるということは、未知の地への展開が保証さているようなものです。空中という天・神に近い所で行動し、人を導く天使のようなものと思われます。

此処では鳥籠の鳥がバスターミナルなどあちこちで売られ、大事にされていますし、国章のガルーダ(イスラム国ながらヒンドゥーの神鳥)はもとより、パレードにも堂々登場します。

パレード鳥syuku

既にお伝えした、例えば、スクー寺院の彫像に羽がついてるものがありますが、鳥人です。

人のようですが、羽を有し顔は鳥であり、足の指爪も鳥です。

鳥の万歳

Samanthoによれば、このような鳥人ものは、下の写真の左がスクー寺院、右上がマヤ、右下がユダヤ民族が過越祭の晩餐で読む有名な冊子にみられる鳥の頭を持つ人だそうです。

スクーの万歳

そして、鳥人はメソポタミアのシュメール(Samantho左)、バビロニア(同右)とも共通性があります。

長江文明も太陽と鳥、インダス文明の鳥土偶、そして日本のアイヌの鳥信仰は縄文人にもあっただろうと推測され、神武東征神話は、八咫烏です。

先史時代、鳥は遠く離れた地域でも人々にとって特別な動物であったようですので、人々の移動・交流は興味深いことです。

やはり人間も同じように、氷河期終期の寒冷期にはアジアの楽園に南下し、暖かくなれば北上して行くということが繰り返されたことでしょう。

そして人々のこの離合集散が、異質の触れ合いによる文化、文明を育んだものと考えています。

鳥は、渡りを行うことや船乗りなどの情報収集に重宝された天・神に近い、人を導く天使のようなものであったのだろうと思います。

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