http://www.sunda-wind.net

アジアの楽園Sundalandの中心部のシンガポールは、その南にインドネシア・スマトラ島リアウ州のリアウRiau諸島があり、昔の地図で見ると島々は、海面上昇で沈んだスンダランド陸地の残った丘たちであることがよく分かります。

シンガno南島

そして、丁度建国50周年でしたのでマレー系遺産博物館でもイベントが行われていましたが、今勉強してる言葉が外国で通じるのがいいですね。

西ジャワのスンダ人が大切にしている短剣クジャン(クリス)が飾られていたり、伝統の人形劇ワヤン、元祖系タコ焼き道具もあったりして嬉しくなりました。

マレー系 sinngaクジャン人形ワヤン タコ焼き具

当たり前ですが、楽園で元々一緒だったところに、人口比を大逆転するほどの中国南部の人たちが来てシンガポールになっています。万年の昔から楽園は、人々の北上と南下が繰り返されて文化が育まれています。

人類の展開を考えれば、ここでタミル主のインド人とアメリカインディアンが一緒に居て何の違和感も有りません。

印とインディアン

さて、テーマのブキテマ高地(164m)ですが、先の大戦でマレー半島を日本の自転車銀輪部隊が南下し、守備する英豪軍と激戦となりました。今は自然保護区となり静かな地域になっています。

ブキテマ 高地 ブキテマ入口

ビザ更新の短期滞在観光客として、サル君に会い丘に少し入りましたが、雨にあって一人休憩所で雨宿りし、つわものを偲ぶこととなりました。

ブキテマno猿 つわものと一人

実は日本軍は、弾が尽きそうな勝利(日露戦以来の伝統?)でしたが、白旗を掲げた英軍に対し山下将軍は勝者の席に着きました。

交渉で通訳に訳をはっきりさせなさいという意味の「はい」か「いいえ」かと聞いたのが強圧的と伝えられ、今の慰安婦問題と同様に誤解に基づく悪いイメージが拡がってしまいました。残念です。

このブキテマ高地ですがブキ・ティマ、Bukit(丘)Temah(Tin錫)ということだそうです。錫と聞くと歴史ニアとしては、何!となります、青銅の重要な元ですので。

イギリスは、貿易戦略上から選んだのでしょうが、近くのジャワ海には、水をかけるだけで錫が採れると言われたその名もブリトゥン島も手に入れてます(後にオランダへ)。

 http://www.sunda-wind.net/report/290

アジアの楽園Sundalandは、陽気がよくて食糧が豊富というだけでなく、火山地帯のもたらす豊富な宝石・鉱物(今は石油)等に恵まれた地域です。

このため、まずは溢れた、冒険心ある人々が北上して巣立っていき、氷河寒冷期には楽園に人々が南下して集まってくる所でした。幸せは父祖の地、温暖で豊かな南の島にある、です。

かって幸せを求め南に向かい、この地で安らかに眠る日本人の先人たちを偲ぶ石碑があります。

先人偲ぶ

残念ながら、今は書かれているような広く安全で強固な貿易の南シナ海ではなくなってきていますが。

 

 

http://www.sunda-wind.net

楽園Sundalandの遺産についてです。スクー寺院は、ラウ山腹にあり世界遺産登録を目指していますが、当国の世界文化遺産4件のうち3件(サンギラン、プランバナン、ボロブドゥール)が中ジャワのジョグジャ周辺に集中しており、他の1件は東のバリ島です。(下図参照)

ジャワの要図

スクー寺院の本殿ピラミッドの様式が、メキシコと中米で栄えたマヤのピラミッドに酷似している不思議さは前回述べました。

当国の研究家Samanthoによれば、スクー寺院(1,360年頃。1,186m)、近くのチュト(1,470年頃。1,400m)、東部のプナタラン(13世紀から1,415年頃まで。450m)のこれらヒンズー系3寺院の本殿及び伽藍内の構築物が、当国の遺跡の中で異質だと言います。

バリ島もヒンズー系ですが、中ジャワのプランバナン寺院のようにコーンアイスクリーム型かあるいは多重塔型で、インドでも見られるものです。

スクー寺院は、伽藍軸線は高山の山頂方向、石積み3段のテラス構造、地域に対する見晴らしの良さなどグヌン・パダン遺跡に通ずる点も見られます。しかし、本殿、彫像などジャワ王宮や地元の石工・木工による様式ではなく、また急造という指摘もあります。

テラスの段

下住民下の住民

そして、他の寺院もそうですが、この3寺院は本殿、あるいは彫像、レリーフにヒンズー・インドでなく、中東やメキシコ・中米のものと類似性があるものが多くみられるのが特徴です。

例えば、スクー寺院の彫像に羽がついてるものがありますが、幸い顔が残っているものがあり、鳥人です。人のようですが、顔は鳥であり、足の指爪も鳥です。また、はっきりしている写真左の彫像の顔も当国の人ではありません。

頸無の鳥鳥の万歳

 

Samanthoによれば、このような鳥人ものは、下の写真の左がスクー寺院、右上がマヤ、右下がユダヤ民族が過越祭の晩餐で読む有名な冊子にみられる鳥の頭を持つ人だそうです。

スクーの万歳

そして、鳥人はメソポタミアのシュメール(Samantho左)、バビロニア(同右)とも共通性があります。

鳥人のメソ 鳥人noバビロニア

他にもいろいろありますが、その一つはアッカンベーで、東ジャワ、バリ島とメキシコ・アズテック文化のものが類似です。

バリnoべろ

アズテックのべろ

日本では、相手をバカにする良くないことですが、チベットでは尊敬を込めた挨拶だということで(2枚舌ではない?)、おそらく上記の写真などは尊敬を込めたものに通ずるものでしょうから広域の話です。

そして、Samanthoは奇妙ともいえる彫像・レリーフの造形の数々、遠隔地でのその類似性から、現生人類が、巨人(鬼)族や類人猿と共存していた時代の記憶を伝えているとしています。

また、それらの寺院等の定説の建設年代とは別に、造形の元になったイメージは当地域発であろうとしています。

スクー寺院など、遠隔の他地域とこのような類似性を有する内容については、現時点では推測も憚られ、やはり「不思議」としか言えません。

更に、私には気になる点があり、次回報告といたします。

 

 

中部ジャワへの旅の最後の紹介はスクー寺院ですが、実に不思議な遺跡です。

中部ジャワ南部、世界遺産ボロブドゥールなどのある特別州都ジョグジャカルタからバスで北東上し、2時間ほどでジャワ原人の博物館のあるソロに着き、乗り継いで更に東へ向かいます。

最後はオジェッに乗り継いで、ソロから1.5時間位で地域の高山ラウ山(3,265m)の山腹の遺跡に着きます。

行きましたときはラマダン直前だったので、終わってからのイスラム教徒のお正月向けなのか修復中でしたが、観てお分かりのピラミッドです。しかもあのマヤのピラミッドに酷似と言われるものです。

本殿ピラミッドの正面の階段を上がって、頂部で焼香やお供えを捧げ祈ります。

本体の背景

伽藍中央の軸線は東西方向で、本殿は西を向いており、その正面の石積み、有名な亀石などと本殿の前方に立つ彫像は次のようなものです。

亀石とレリーフ  頸無の鳥

そのまま参道を西方の入口の方へ見ますと3つのテラスになっており、段差は1.5mくらいで石積みは小ぶりです。

3つテラス

第2の段差

テラスの北側には、象などの動物が並ぶレリーフ石群が目につき、南側は彫像ですが、私にはむしろお山ピラミッドが見えるのが印象的です。

北動物のレリーフ  南の方pira

そして、もう一つこの遺跡を有名にしているのが、入口の階段を上がるとアーチ大門の床面には、男女の性器が接した瞬間をアップしたレリーフがあります。

それとピラミッド前面右に控える「捧げ銃」彫像が立派な一物を左手で持っています。

神聖な性におおらかなヒンズー教に見られる特徴でしょう。が、ジルバブ被る当国を動いている私には一寸ショッキングです。

アーチ大門  捧げ銃

そして、私が不思議だと思うことについては、次回、ご説明いたします。

四国伊予の巨石遺跡(参照:人類最古の文明「アジアの楽園」探訪記)と当地のほほえましいストーンヘンジについて既にレポートしましたが、Danny Hilman博士がFacebookで本場英国のストーンヘンジに関し、英BBC放送の驚きの情報を紹介しハイテク調査の必要を訴えています。

最近の調査(現在も続行中)で、地中に人工のずっと大きな構造物があることが発見されている。造られ始めたのは、11,000年前(!)で、調査チーム(バーミンガム大学等)は、この地中円環構造物を「スーパーヘンジ」と命名した。

私(奈良)は、これはギョベクリ・テペ、グヌン・パダンなど万年を超える石器時代人による高度な構造物の例に加わる新たな大きな発見だと考えます。

そして、超古代石器人のイメージを変換し、超古代研究の重要性を示すものと考えます。

新たなあるいは現在の遺跡の地中あるいは内部に、更に古い遺跡を発見するなどの新調査法の科学の時代の本格化です。

アジアの楽園、人類の百貨店には多くの遺跡がありますが、グヌン・パダンのみならず、古い聖地にその後、更に建造した可能性のある所はあると思いますので、今後が楽しみになってきました。

Recent and ongoing geophysical subsurface imaging on and around STONEHENGE revealed that this exposed structures is only a small circle on top of much larger manmade structures that has been buried beneath the ground! And the constructions might have been started since 11,000 years ago!! They name the hidden, burried ‘circle’ structures as “SUPERHENGE”.

ボロブドゥールも現場へ行ってこそ感ずるということがありました。

場所は、独立時代に臨時首都になったジャワ伝統のジョグジャカルタ特別州(中ジャワ)から北西へ少し外れた所です。バスで向かう途中にムラピ活火山が煙をはいていますが、わずかな間だけ右側に宝来山を控えた富士山そっくりに見え驚かされます。

寺院は、きれいに整備された公園地域の奥にあります。

「Can you speak English?」ジルバブ被った女子の珍しい質問です。

聞けば、先生からともかく英語を話す人に同行してレポートを出すように言われているノート片手の女子中学生さんで、一緒に回りました。(孫たちよ、頑張れ!)

全景hp女no学生

504体の仏像を有するボロ(寺)ブドゥール(丘の上)は、煩悩から解脱に至る3界を象徴的に表し、第1の基壇は煩悩の俗界、次いで未だ形にとらわれている5層のピラミッド、最後に解脱した3層の同心円壇ということだそうです。

上空から見た曼荼羅模様と、その多様な造形、数々のレリーフは、素晴らしいの一語です。

多様な造形hpレリーフhp

さて、ボロブドゥールは我がギョウ界ではピラミッドです(下図左下)。

pyramids[1]

www.IndoCropCircles.wordpress.comから)

グヌン・パダンなどと同様に雨や地震にも強い棚田式で、もとからあった小山に多い所で8mの土を盛った(Dunny Hilman博士より)上にあの見事な仏像、レリーフ等を作ったものです。

棚田田植hpボロブ構造hp

密林の中に約1000年眠っていた寺院を今のように修復された長い間の努力には、全く頭が下がります。

雨、地震に加え火山灰の降る地でもあります。凄いと感じたのは、中の小山の土の崩れから抜本的に修復されたということで、現在使われていない石も裏に保存されています。

修復hp石保存hp

ボロブドゥールは、小山に土を盛った基盤のあんこと仏像レリーフの表層の厚い1枚皮の言わば大福もち構造です。グヌン・パダンの場合は、その皮が時代を異にして少なくとも3枚重なってますので、修復も解明も容易ではないです。無論、大福もちの大きさも違いますし。

koridortimur.com

(koridortimur.comから)

注目点は、いくつもありますが、お釈迦様にどう結び付くのかという船のレリーフ(10枚)があるのをPhilip Bealeが見つけました。

香辛料シナモンの貿易でシナからアフリカまで活躍した甲板に小屋のあるその帆船を復活させ博物館にしています。アジアの楽園、万年前から世界の中心・中継の海の民のここの人らしいところです。

philiphp船小屋hp

ここに来て感じましたのは、万年の昔からグヌン・パダンの人々がゲデ山に対するように、此処の人々はムラピ山に対してきたことです。

マラッカ海峡もスンダ海峡も陸地だった正にアジア楽園時代は、共にインド洋に面する世界に開けた賑わいのマチの奥ノ院にあります。

そして、古来の精神性の代表である「山岳信仰」は違う、正しくは荒ぶる天、神に祈る「活火山信仰」だと感じました。

それは、厳しい火山被害罰と水の恵みの両方を有する祈りの対象です。大昔の人は、休火山も死火山も分からず、やがて区別なく山岳が祈りの対象に成っていったのでしょう。

火山灰hp

最後に、アジアの楽園の人たちは聖地の上に時代を異にして築造します。聖地の言い伝えだけは語り継がれるからでしょう。

パンフレットには、ボロブドゥールの内部には何もないと書かれていますが、その立地、周囲の状況から基盤となった小山は聖地だった可能性があり、何かがまだ内部の奥に眠っているのではと思いながら帰りました。

建物全景hp

20万年前頃アフリカで誕生し海産物も食す現生人類の部族は、海水面の低下(約130m)した紅海及びホルムズ海峡を越え、8-6万年前頃、インド亜大陸西部地域に達したとみられています。

東方へは、海水面の低下により出現した広大な海岸地域を移動し、7-5万年前頃にスンダランド、4万年前頃には海を越えてオーストラリアに達し、また、北方の沿海州にまで進出しています。

東方への進出は、西の欧州よりも速度が速かったようです。

人類no展開

東ジャワの現生人類ワジャック人は、4万から1万1千年前頃の間、また、マレーシアのサラワクのニア人も4万年前頃とみられています。

ワジャックとは、山、盆地のある場所の名称で、あのジャワ原人のいたソロ、サンギランの南東に当たり、ワジャック人は最初、山の斜面で発見されました。その後も他の場所で新しいものが洞窟などで発見されています。

wajakの山

この時代の現生人類は、熱帯地域の保存がきわめて難しい状況の中、タイ西部からパプアに至る広域で発見されています。従って、スンダランド全域に存在していたと考えられます。

新人no発見

ワジャック人について言えば、彼らは混血で中国人やオーストラリアのアボリジニの特質も示しています。長期間存在し、日本にもその形質の影響が及んでいます。

Paul Stormは、ワジャック人の頭骨はがっしりした中石器時代のもので、その後の世界的な人類の小型化に合わせつつ、現在のジャワに住む人たちに繋がる祖先と考えています。

ワジャックno頭骨

重要なことは、ワジャック人が4万年前頃現れているので、人類の展開のかなり早い段階から北方の人種と南の人種がスンダランドで混合していたということです。

それはまた、スンダランドへ南下した人の波がおそらく1度や2度のものでなく、人の数も相当の数であったことが、混血の影響から窺われます。

特に、2万年前頃の最終氷期最寒冷期や1万3千年前頃のヤンガー・ドリアス寒期の北方の寒冷の影響は大きかったでしょう。

彼らは、暖かく食糧豊富なアジアの楽園スンダランドに来ざるを得なかったでしょう。そして、北方が暖かくなれば、また、北上した者も多かったでしょう。

この北と南の全く生活様式の異なる人々の南での融合は、生活技術の融合をもたらし、人種の坩堝スンダランドでの文化を発展させていったことでしょう。

私は、ワジャック人が3万年にわたり長期存在したことや日本にまで影響が及び、また、現在に繋がっていることなどから、楽園で大きな存在だったろうと考えています。

但し、スンダランドの人々の「サラダボール」の具体的なイメージは、将来更に実証成果を得て形作られることになります。

これらのことから、メソポタミアに始まる人類文明史の前の段階におけるスンダランドの重要性に着目すべきと考えています。

It is said that Homo sapience get out from Africa to Eurasia in 80,000-60,000 years ago and probably reached Sundaland in 70,000-50,000. The sea level was lower 130m than that of nowadays.

They proceeded along vast seashore toward East. Then they crossed eastern straits upto Australia by 40,000 years ago and also went upward to north.

It was faster to East than West Europe even though it needed to cross straits.

人類no展開

Homo sapience Wajak Man, in East Java, is thought to be existed from 40,000 to 11,000 years ago and Niah Man, in Sarawak Malaysia also from 40,000.

Wajak is mountain and basin place name and Wajak Man was inicially found in slope. It’s in the southeast of Sangiran, Solo.

wajakの山

Homo sapience of this age were found in many places in spite of difficulties for finding in this tropical region.  Those are from in west Thailand to Papua in the east. So, it seems they had spread over Sundaland.

新人no発見

As for Wajak Man, they were of mixed parentage and show both characteristics of Chinese and Aborigine in Australia, too. They had long existed and spreaded even to Japan.

Paul Storm insists that the most likely interpretation is to consider the Wajak skulls as Mesolithic robust representatives of the present inhabitants of Java after with worldwide decrease in size of the human body.

ワジャックno頭骨

Important thing is, mixture of Homo sapience in North and those south locals occured in Sundaland in fairly early stage of human’s spreading deployment as Wajak Man appeared in 40,000 years ago.

It also means that wave and numbers of Homo sapience in North coming down to Sundaland were big enough to make such influence. It was not once, but many times in tens of thousand years because of very cold climate in North.

Thay can’t help coming down to warm environment of Paradise in Asia. And when it became rather warm in North, some went upto it.

Mixture of Homo sapience of quite different each way of living must have mingled technique and developed culture in melting pot-Sundaland.

I think Wajak Man were a big player in Paradise in Asia-Sundaland because of its long existence, spreading even to Japan and ancestor of modern Java people.

But, a bit concrete salad bowl image of Sundaland people should be formed with more evidences in future.

We should pay more attention to Sundaland as a fore stage of Mesopotamia Civilization.

ジャワ原人の里(博物館の表現)は、ジャワ島の中央部ソロの北20kmの川と平野のサンギラン地域にあります。

バンドゥンからジョグジャ(独立時、蘭に抵抗する一時は臨時首都)、ソロへは長距離バス、ソロからサンギランは市内バス、そしてサンギランと書かれた門をくぐってからはバイクタクシーで動きます。

バイク運ちゃんに、まず発掘現場に向かい、次いで博物館へ行ってくれと言うと、遠いだろう、雨で土砂崩れが起きてるとか渋ってました。物価安のソロで破格の数字(1,000円)を巡るやりとりとなったので、剽軽さが戻り動き出しました。

運ちゃんは途中、マンモス象が外に飾られている新築博物館で聞き、細いコンクリート道を曲がりくねりながら灌木の林を進み、2つ目の新築博物館を過ぎて一寸行ってダメだとなりました。鉄砲水で道が壊されています。

やむなく小休憩のコーヒーにし(彼らはラマダン)、運ちゃんと店の村人に聞きました。

洪水破壊 村人

「この辺に洞窟はありますか?」

「ないね~。」

確かに子供のころの経験から、こんな所の土質で横穴洞窟を掘ったら雨が降らなくても落盤しちゃうなと思いました。

崖状況

それでは、どういう環境だったのだろうと言えば、博物館の展示では、今より植生は少なく、ライオン、トラ、サイ、ワニ、野牛など多くの動物がいたようです。

環境

ライオントラ サイワニなど

サンギランでは洞窟は描けず、何しろ証拠がないので、立ったり座ったり所在なさげです。もっと多くの老若男女がいたはずですが、皆、こうだったんでしょうか。コワイ動物もいますし、夜はくる、時に雨も降る、家財道具もあったでしょう。涼しい朝夕に動き回り、暑い日中の時間は休んでいたでしょう。

原人様子原人家族

展示に近づいて聞き耳たてれば、原人たちもバカにするなとブツブツ言っているようですし。

それではどうも変だということで、フランスでは、原人も木と石で粗末な小屋を作り、火を使っていたという例が紹介されています。

仏粗末な小屋

生活の場である遺跡は、既に報告したタイのバンチェン遺跡もここも川そばです。そもそも見つかっている遺跡から原人の数を推測すれば、洞窟のある他の地域でも、水が得られ食料を得やすい川そばの都合のいい洞窟の数及びスペースとは全く合わないでしょう。

遺跡の位置

狩猟採集、漁労では、あたかも休耕田するように川そば各地を転々としていたとしても、そこでは今に通ずる根拠のある暮らしをしていたでしょう。

狩猟と採集魚獲り

(上記の資料写真は、ジャワ原人博物館から)

火と道具を手にした数十万年前の原人はもとより、アフリカを出、複雑な言葉を身につけ更に進化していた数万年前の現生人類は、洞窟ではなく主に川そば平地に居たとイメージを修正すべきでしょう。洞窟に住む者もいたということです。

証拠が残り易い洞窟から、見つけ難い平地への生活イメージの転換は、例えれば防衛という軍事的な山城から、軍事に加え統治管理の社会性を有する平城に移るくらいの大きな意義の違いを時代の見方にもたらすと考えます。

大半が平地で生活していたとなれば、縄張りなど隣近所との様々な課題・問題を生じ、社会の階層、交易や冠婚葬祭、争いなどの相互の関係の処理をもたらし、文化・文明への助走です。家畜やバナナ栽培も始まっているでしょう。

驚くべき巨石構造物を造り、見事なレリーフを残した11,500年前頃のトルコ東南部の石器人によるギョベクリ・テペ巨石遺跡は、平地で暮らした彼らが、助走からいよいよジャンプしたかという様子を示しています。

3月末、当地科学院LIPIで開催されたグヌン・パダン及びギョベクリ・テペ合同実証セミナーで、そう実感しました。

ギョベクリ研究会

当地の大多数であるイスラム教徒の大きな年中行事のラマダン(日の出から日の入りまで断食)月が始まる前日17日に出発し、始まった翌日に帰る長距離バスの旅をしました。

リュックを背負い肩に力が入って西ジャワを回った1年前とは異なり、今はほぼ通学の格好・荷物です~と出かけました。

距離の長さで途中の町の様子を、そしてラマダンの始まりの時期であるのでその様子をということです。

バンドゥンから東南に向かう中部ジャワ州、ジョグジャ(-カルタ)へのバス旅は、市内の東部から発着する分かり易いものです。

途中の大休憩を入れて往きはジョグジャまで13時間、帰りはその奥のソロSoloから15時間でした。それでも、上窓からの自然な風、2人用席を一人で、道が舗装され渋滞もなく、景色を観たり帰省の女子大生さんなどと話をしたりで苦にはなりませんでした。ともかく何でも初体験ですし。

長距離バス途中休憩

現代の街道沿いでしたので、店、イスラム教会、学校、官公庁、田畑、川と橋、山々、曲がりくねる山道、など西ジャワ州とそれ程の大きな違いはありません。

西ジャワの川は非常に深い谷が結構ありますが、中部ジャワの川は深くないです。

私にとって一番の違いは、屋根がトンガリ2段なのは類似ですが、千木を見ませんでした。

伊勢神宮・出雲大社などから、ラオス、タイ、西ジャワで見る建物上部の千木は、山道の州境を越えて中部ジャワに入ると見なくなりました。

そこの部分にアクセントがあるものがみられ、最早、千木ではないですが、この変化もまた興味深いです。

トンガリ屋根

そして、この州境はスンダ人とジャワ人の分け目でもあるところが、意味がありそうです。

さて、ラマダンが始まり、日中は屋台が閉店または開店休業してますのではっきり分かります。(それでも開いていて異教徒が食べる所はあります。)

早朝の暗い中、帰りを歓迎されていると錯覚するような灯りが通りに煌々とつき人々で賑わっていました。各地で同様の特売(日中は高い。)だそうで、夜明け後も我がバス停の上では続いてました。私には、師走の晦日あたりの感じです。

ラマダン店2夜明け特売

そして、今回、世界遺産ボロブドゥール、百万年前と言われるジャワ原人のいたサンギラン、何故か中米マヤのピラミッドと酷似していると言われている不思議なスクー寺院(修復中)と、人類の百貨店の主要階を観ました。

ボロブドゥール ボロブドゥール

ジャワ原人博物館 サンギラン

スクー寺院 スクー寺院

私にとっては、やはりバスを乗り継ぎバイクタクシーに乗り田舎の奥に行ってみて初めて分かり、感ずる大きな発見!が、それぞれにありました。次回から報告いたします。

 タイ東北のバンチェン遺跡は、1967年のテストサンプルの測定で7,000-5,000年前と出ました。その後、定住し始めた人々は、5,600~1,800年前頃まで文化の華を咲かせていたとされています。

最初の発見は、1957年に自宅建設中のお医者さんが彩色された土器壺を見つけて学校に贈り、その後も見つかった古い土器は学校に展示されました。

66年に米ハーバード大の学生が人々の生活の調査に来て多くの土器片を地上で見つけてタイ美術館長に届け、館長はタイで見たことのない先史時代の遺物と判断し、テストサンプルを米ペンシルベニア大に送り、前述の測定結果となりました。

バンチェン遺跡と言えば、ユニークなデザインと鮮やかな彩色の土器類です。

陶器

ところが、82年からのペンシルベニア大とスミソニアン博物館による米国巡回展示のタイトルは、「バンチェン-失われていた青銅時代の発見」でした。

青銅

青銅文化は、5,000年前頃中東で始まり、2,500年くらい遅れて東南アジアに伝わったという定説の大変更を迫る発見の衝撃でした。バンチェンの物は、この遙かな遠隔の地で5-4,000年前頃からのものです。

それは、その後の鉄器時代をも経た連綿と続いた文化であって、東南アジアに対する見方、認識を大きく変えるものでした。

銅は周辺の地域から、錫は、ラオスの古都ルアンパバーンや現首都ビエンチャン地域からのものとみられ、タイ-ミヤンマー国境地域からのものも考えられるという広域にわたる交易状況も明らかになっています。

そして、これらメコン川流域のラオス大都市の何千年前からの由来も想像させます。

中東から伝わったのだろうか、楽園発だろうか、タイ東北の楽園の一隅だけのことだろうか、楽園の他の地域や沈んでしまった楽園中央はどうだったのだろうか、考させられます。そして、昨年末の期末試験後に飛んだ錫の名産地、ジャワ海のブリトゥン島が想い出されます。

いよいよ本題に入ります。まず、最初に感じましたのは、副題のとおりです。プミポン・アドゥンヤデート国王(ラーマ9世王) (1946年6月即位)は、考古学や博物にもご関心を持たれて各地をご訪問されていますが、1972年3月、妃殿下とともにバンチェン遺跡の発掘現場をご視察されました。

「それらの貝は、淡水からか海水からか分かっているのか?」

「遺物は発掘現場で見たいと思っているが、何故、これほど多くの遺骨や彩色土器が出てるのか? ここは墓か?」

「赤く彩色された土器は、焼いた後で彩色したものだな?」

「遺骨の年代測定は、できてるのか?」「バンチェン遺跡は、国際的な関心事であり、年代測定には、皆の協力と参加が期待できるし、より信頼度が増すだろう。」

「この遺骨が第1、第2ピット(穴)よりも古いというのは、深いところにあったからということか?」

「ここに居た古代の人々と200年前にここに移住してきた人たちに何か関係はあるのか?」

国王と妃殿下のご視察は、遺跡が特筆すべき国家的な考古学遺跡であると関係者に認識させ、それらの協力、バンチェン遺跡の永続的な保存と発展を呼び起こすこととなった。                                      (バンチェン国立博物館ガイドから)

国王と妃殿下のご視察は、74年米ペンシルベニア大学との共同調査、75年国立博物館開館、80年ニュージーランドの大学の調査参加、ハワイ大学の遺骨調査、82年から4年間の米国巡回展示、次いでシンガポール展示、83年ケネディ財団の博物館への資金支援と国際化し、92年、遂に世界遺産に登録されました。

2006年に博物館はリニューアルしていますが、現場の考古学調査の状況も展示されています。現時点、東南アジア最古の遺跡の世界遺産です。

BT舘入口 博物館敷地 展示 人骨現場展示 見学奈良青銅器 土器など

なお、敷地にたなびくタイの国旗が、インドネシアの紅白国旗を2つ上下に置き中央に幅のある青い帯を入れたものだと気づきました。日本は白地に赤丸で、3者が類似の親戚ものだとあらためて感じました。

期(学年)末試験を終え、早速、遺跡見学にアジアの楽園北部、タイ東北にある東南アジア最古という世界遺産バンチェン遺跡(7-5,000年前頃~1,800年前頃まで)を見学に行って来ました。旅行社で格安バンコク行きを買い、試験前なので遺跡の概要と行き方とバンコクでの見物をチェックしたくらいで出かけました。

ところが、ジャカルタの空港で便予定を確認したところ、時間、便名はいいのですが、行き先はこれまで何回かトランジットしたことがある市街東部の空港ではなく、北部の空港であることが分かりました。確かにバンコクの国際空港だそうですが、いやはやです。

バンコクなので、お寿司は控えるにしても旨いうどんにはありつけるだろうというささやかな期待はしぼみました。それはさておき、言葉も字も全く分からないタイ東北ウドンターニー(以下、ウドン)の田舎に行くプランは変更を余儀なくされました。大体、東京から青森に行く感じです。

今は海の上、かってはアジアの楽園だった上空を飛びますと生き残った島々が見えます。それにしても楽園は広かったなあ、多分何か痕跡はあるのだろうなと思いつつ。4時間で正午前に北部空港に着きましたが、駐機の飛行機も少なく記憶にあるあのバンコク空港での各国機の賑わいはなく、港内の店数も比較になりません。

うどんは全く無理と諦めました。Informationで行き方を聞きましたところ、お嬢さんが私の行きたい所をあの難しいタイ字で書いてくれ、外のバス乗り場〇番で〇〇行きに乗り運転手、車掌に見せなさいと言ってくれました(私にとっては通行手形)。

空港からの町のバス停と東北行き長距離バス乗り場は離れていますが、我々を町で降ろした後、空港へ戻るバスが、あんたはそのまま乗っていなさいと言い、途中、近い所で降ろしてくれる親切でした。

あとは、近くの店、バス乗り場、窓口、・・手形を見せて少しづつ進み、昼パンを買って便数の少ない出発10分前の東北行バスに乗れました。(実際の出発は、予定の20分後)

バスの予定では、到着は正に真夜中ですが何とかなるだろうです。実際、バスが着けば3輪トゥクトゥクの運ちゃん達が来て、値段を交渉して近くの適当な宿まで連れて行ってくれました。

出発してしばらく窓外を見てましたら、1時間ほどするとアレッ!?ラオスかな?カンボジアかな?という景色になってきました。

そして、ホントにびっくりしました。幹線道沿いに点々とあるローカルバス停らしき小屋があのバンドゥン・スンダの2段式屋根なんです。そして、看板で地名を確認すると(右下)ウドンにもバンドゥンがあります。

考えてみれば、バン コクなんですから、行きたい遺跡バン チェンがあり、バン ドゥンがあって不思議はない訳です。何せ楽園内のことですので!!。違う国、遠い遠い違う所というこれまでのイメージが、現場で変わりました。旅程は長かったですが。

2段屋根  タイのバンドゥン

2段式屋根、地名について、どっちからどっちに伝わったのかですが、アジアの楽園が沈んだ(7,000年前)後、3,500年前頃以降、学界では台湾-フィリッピン経由でアジアの楽園南部に人の大きな移動があったと考えられていますので、これもそのある時期ウドンターニー方面の方から南下し、ジャワ島スンダに伝わったのではないかと考えられます。

かって万年の昔、北上して行った人たちの子孫が、気候風土の違いから肌の色や容貌もすっかり変わり新たな経験を携え、長い年月の里帰り移動南下したのでしょう。そして、タイ東北のバンチェン遺跡などが川沿いにありますので、家財具・動物を積んだ船が活躍したと思います。

タイ東北遺跡 川沿い遺跡

タイ東北のバンチェン遺跡など  同遺跡は、川沿い(バンチェン国立博物館から)

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