米オレゴン大の自然・文化史博物館youtube説明資料における現生人類の世界移住史図で、既に(2013年)日本列島を北上して北海道から千島列島~カムチャッカ半島、ベーリング地峡沿岸ルートが発表されており、「最初のアメリア人」First Americansに対する説明にもなっていました。

問題は、北海道・日本列島が重要な世界史上野問題で登場しているにも拘らず、日本側では全く呼応していない異常な状況です。学生・生徒・児童は、世界でこういう事が議論されている事さえ、教科書・巷間本・博物館で全く見聞できていない状況です。勿論、かつて 学生・生徒・児童 だった大人もです。まさか、学問研究の抑圧とは思いたくないですが、正に学問の自由に関する異常事態なのです、議論がある事だけでも教えるべきです。関連協同研究と遺跡遺物等の発掘・保護に予算を。

多数の考古学関係者に異論のない最新の内容を子供に教え、更なる解明への意欲を喚起し期待もしましょう。その端緒となる事象を教えないことは罪です。

①日本列島史が約4万年前、家族によるフネでの30~40kmの 渡海で始まった操舟・造舟の知力は特性理解の重要な点で、1万件を超える旧石器遺跡の分析から、北上南下の3万年前までの列島拡がりが教えられます。これと連携する②黒耀石を求めて38,000年前から伊豆の海を行き来(10数km以上)した“世界史上の偉業”も理解できます。③鉄器の無い時代に、1m以上の深さ・大きさの穴を多数掘って、北海道から九州で陥し穴猟をしていたことは、狭い日本ならではとは言え、動物の習性理解、多数の穴構成の企画・指示・集団作業は、もはや「原始」と呼ぶべきではないです。栃木県に残された「環状キャンプ」の集団行動も 米先住民インディアンのよう で注目です。④刃に繋がる磨製石器は、なんと世界的には新石器時代になって登場する物を2万年も早く旧石器時代から使い始めていたと言える驚きですが、住まいやフネの伐採・木工作業の匠の技が理由ではと納得できます。⑤暮らしが分かる貝製の釣り針(沖縄)も島国ならではで、発見最古の点で世界の金メダルなのです。

これらの渡海や海の行き来や釣り針などは、①図、青森~北海道からムリなく食の豊かな昆布ハイウェイの北上を継続したことが考えられ、今、「最初のアメリカ人」Nativesは、北太平洋をフネでやって来たという新説の時代に、祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoの関りの可能性が注目されるのです。これらの世界的な内容を教えないことが、全く理解できないです。早急に改善を、世界の共同研究の企画、参加を。

1図「最初のアメリカ人・先住民」の移住史が、新大陸の発見遺跡から理論的に1.7万年以前、フネで北太平洋沿岸・昆布ハイウェイ沿いに入って来て始まったという新説で、”米臨海“・北太平洋地域の海の民は注目です。

シベリア狩猟族がベーリング地峡を通り内陸「無氷回廊」から入って来て、アメリカ新大陸先住民への第2新波のDNAの影響は大きいかも知れませんが、北の海のフネは濡れれば凍傷や死を覚悟せねばならない厳しいモノですから、最初は沿岸のアメリカ先住民がとなれば、地域の海の民は注目です。残念ながら、海水面が当時より約120m上昇しているため、沿岸はもとより主に海浜であった暮らしの遺跡の発見は困難ですが痕跡はうかがえます。千島列島から”米臨海”地域で、縄文時代の遺跡は発見されており、うかがわせる暮らしぶりは近代まで続いています。北千島(6千年前遺跡)、2万年前の道南の知内町遺跡の墳墓の副葬品と類似品があるカムチャッカ(1.3万年前遺跡)、シベリア東端のチュコト(1.5万年前遺跡と海岸民アンカリ)、アリューシャン列島(8.4千年前遺跡)は、共通なのは竪穴住居で、新たな視点での掘り起こしが期待されます。

2図占守島人が島を「ルートン」と呼んでカムチャッカ南端から幌筵島に、歴史から取り残されたように暮らしていたことは注目です。樺太千島交換条約で、カムチャッカ南端の人々は欧州ベラルーシなどに、占守島などの人々は南部の色丹島に移住させられ、残念ながら、今は歴史の渦に消えたと理解されています。カムチャッカ南端の人々は、北の遺跡が道南知内遺跡と墓の副葬品に類似性があるので、大昔はその方にまで居たのがカムチャダールに追われて南端にとどまったのではとも考えられます。

いずれにしても右図、ルートン地域人はその広域を遊動する 暮らし (鳥居龍蔵はもちろん旧石器時代の概念は無し)で明治人を驚かせ、良かれと準備された色丹でなく、厳しい自然ながら海獣などが多くいる祖先から暮らしてきたルートンへ帰りたがりました。他方、アレウト人はその高い操舟・ラッコ狩猟等の技量でやって来たロシア人を驚かせ、コマンドル諸島を侵略したものの暮らせずに全滅した露人に真似のできない適応力の広域活動でした。つまり両者とも地域に適応した“高度な” 海の民の暮らしぶりに痕跡が残されており、新たな光で歴史の解釈と更なる発掘研究が求められています。そして両中間地域では、ベーリング地峡沿岸の海岸人アンカリもいました。これらの事を子供に教え世界に発進し、更なる解明に国際共同研究がなされるべきです。

1図右上#1「最初のアメリカ人」はフネで北太平洋沿岸から来たと言う新説で、それまでのBシベリア狩猟族に加え、3万年前からのA祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoが浮上(道南知内町遺跡と1.3万年前のカムチャッカ・ウシュキ遺跡の墳墓副葬品の類似など)し、ルート上の千島列島が重要です。

2図、歴史を重ねた古い遺跡・遺物が発見されている北部千島の赤太円の“ルートン地域”(仮称:自分たちの占守島をルートンと呼称))が特に注目されます。1図のように千島列島とカムチャッカ半島南半部を行動域にしていたのではと思われます。明治期の日本人として最初に北千島の遺跡・遺物に着目したのは、その開拓に殉じたと言っても過言で無い 報效義会活動の郡司成忠(海軍大尉を退いて予備役となり、民間人として千島を目指した)で、占守島で竪穴住居や石器等を発見し、東大人類学の坪井教授に伝え、門下の鳥居龍蔵による20世紀の幕を開く 明治32年(1899年)の同島1週間の調査となったものです。石器、(内耳)土器、骨器など石器時代と思われる遺物が、ガラス製品などの近世の物とともに発見されました。

注目すべきは、図右、当時の学界の動向を踏まえ、鳥居はこの石器時代の遺跡・遺物はいかなる種族が残したのか、という問題意識をはっきり有していたことです。そして、調査を終えて、1.北海道に残された同種の遺跡・遺物に似ているが違いがあると認識、2.②③④のとおり、鳥居はルートン地域の人々に関して「アイヌ」の語を使用していません。 3.④土俗は筵北海道より北部千島に古風が存在しているかもと。 その後、アイヌ語と同様の言葉を話し、ロシア正教を信ずる現地の人々の暮らしに石器時代的な要素がみられるものの、世界的にも「アイヌ」と呼んだために鳥居もそう呼ぶ事にし、今もそう呼ばれているに過ぎず、鳥居が注目したように、鎌倉時代からのアイヌとは違う、現代的には先住の痕跡を探り得る可能性を指摘しています。

実は、鳥居は下図の東部シベリア種族について、海岸地域で竪穴住居に住みアレウトやカムチャダールなど“米臨海”種族と共通性あるアンカリ族(古い)とシベリアではマンモスの骨で住居骨格とするようにクジラの骨を大量に使って住居骨格とするオンキロン族(新)の2重性に注目しています。

つまり、鳥居は書いていませんが、北海道や千島において竪穴住居で石器時代的な暮らしの種族と木材骨格で茅葺きのチセ住居のアイヌ(新)の2重性に繋がるモノなのです。当時これに関連し、アイヌの口碑のとおり、アイヌでないコロボックルの竪穴住居や石器だとする甲説(東京帝大坪井正五郎等)と、いやそれはアイヌの祖先であり2重・2種性ではなく、コロボックルなどはいないとする乙説(東京医学校小金井良精等)があり、鳥居は、現地調査においてアイヌ口碑のような「コロボックル」はいないと報告し、乙説で決着しましたが、やむを得ない当時の判断の誤りです。確かに「小人」はおらず、そんな話も無かったのですが、実は、「小人」という悪口を言われている人々が言わず知らなくても当然で、現に、鳥居の助手の北千島老人は色丹に移住してコロボックル話があるのを知り、自分達は「小人」なんかじゃないと怒っています。しかも、後になって鳥居自身が判断を誤ったかと反省していたと言う話もあります。

そもそも、択捉島とウルップの離隔や80kmもある新知島へ陸民の北海道アイヌが舟を操って行ったのかは疑問です。これは極めて重要で、アイヌの口碑は基本的に正しく、鎌倉時代頃にアイヌが樺太から入って来る(北海道大学のDNA分析結果)前に、竪穴住居に住み石器・土器・骨器等を使った祖代・縄文時代以来の日本列島先住種族が居たと考えるべきでしょう。アイヌとのトラブルで、千島の方へ逃げて行った話も十分あり得ることなのです。国会がドサクサでアイヌ先住民族決議をしてしまったために、この点が抑圧されて、学校で、世界で誤解されているのが大問題なのです。実は今はもういないルートン地域の人々が、アイヌ語と同様の言葉を話し、ロシア正教をしっかり信じていたとしても、その習俗は日本列島史の先住性の痕跡を留めていたと考えられるのです。

この“遊動海民”の先住が理解されれば、ルートン地域に古い痕跡が残り、1図の”米臨海“地域との比較で、A祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoが北上を継続し、「最初のアメリカ人」に関わる可能性があることも理解されます。20世紀の扉を開いた先達の成果に現代の歴史考古学の光を当て、21世紀の成果を導かねばなりません。残念ながら現状は明治時代の熱い研究心を失い、むしろ1世紀前の鳥居認識より退歩していると言わざるを得ません。子供に教え、世界に発信し、国際共同研究を進めて、世界人類移住史の最後の謎の解明にも挑みましょう。

出アフリカの現生人類が南方から北上し、約4万前に北部九州にフネで渡来し、列島を北上して青森から当時は狭かった津軽海峡を越え雪と寒気の北海道に適応して道南~道央南部~道東~道北東北部へと3万年前頃に拡がって行ったことは1万件を超える旧石器遺跡が示しています。つまり、北海道史は、図左の雪と寒気に適応し生活を開拓して来た長い歴史なのです。

しかし、多くの巷間本・博物館は、始まりを根拠なく 大陸から南下したマンモス・ハンターのように書いている歪曲です。①アフリカを出て北上して極寒のシベリア地域に向かってから東進、或いは②ヒマラヤ東方の大山地・大河と危険な動物のいる樹林地を北上して、沿海州・アムール川及び樺太に3万年前に至った痕跡は発見されていません。道内にマンモスの骨は有っても、10万年前で古過ぎ、他所の国で見られるような、人に狩られた痕跡もその近くに石器などの人工物も全く発見されていません。遺跡が示す北海道への北からの進入は、有ったとしても2万年前以降の細石器文化からですが、その石器はマンモス後の中・小動物狩猟用なのです。かつての「騎馬民族は来なかった」と同様の状況です。

さらに、今、「最初のアメリカ人」問題で、北米の氷床が融けて無氷回廊が開通(1.5~1.4万年前以降)する前などの遺跡(北米1.6万年前、南米1.45万年前)が多く発見され、「最初に来たのは、マンモスを追ってベーリング地峡から無氷回廊を通って入ったシベリアのマンモス・ハンターではなかった」と定説が崩れています。北太平洋昆布ハイウェイ・沿岸をフネで南下して来た人たちというのが新説です。そして、そうなれば、祖人・北海道Proto-Japaneseが、北上を継続して関わった可能性が注目される訳です。北海道の黎明は、南下人が始りのような印象操作説は、正されるべき大きな問題なのです。子供に教え、世界に発信を、国際協力研究で更なる解明をです。

道庁赤れんがの歴史サイトは、オリンピックを前に「周回遅れ」です。上段記述の左住み始めは掲示資料では約3万年前、また、シベリアのマンモス・ハンターが来たように書かれてますが、石器は青森・本州と同じと言ってA.自ら否定し、また、そんな記述ができるB.人と物の痕跡も無いです。

当時は海水面上昇で朝鮮半島ではなく、また、南の島々とあるは沖縄・南西諸島を意味するなら誤りで、今の東シナ海に広がっていた北東ア平野の沿岸を北上して北部九州に来たルートが、考古遺跡上も有力でムリなく渡来です。従って石器説明も、青森から北上した人々(磨製石器など)と1万年遅れて及んだ大陸の細石刃の影響とすべきです。この世界考古学史上の”金メダル“の重要石器が、北海道で も3~6千円でネット売買されているのは世界に大恥であり、政府・道知事は早急に対策を講じましょう。

次に下段写真では、①北上ルートであり(考古遺跡、環太平洋言語松本博士説等から)、②道東で止まった理由もなく、食豊かな昆布ハイウェイの 北上を継続したでしょう。現在「最初のアメリカ人」問題で、初期は内陸の無氷回廊は未開通であり、沿岸ルートの③いつ、誰が、何処からが世界の注目ですから、②北上の可能性による”日本祖人”の関りも注目であり、出発点の北海道史は重要なのです。青森~道南~道東旧石器遺跡は、十分にルートを支持しています。世界にキャッチアップし、子供に教え、しっかりオリンピックを迎えましょう。

自分たちのご先祖が、①アフリカ発であり、全世界の人々がともかく親戚であることを書いていません。有力な1例が太平洋西岸域であることは、前回説明の通りです。

しかもはっきり直接の祖先は、約4万年前、北部九州にフネで家族がやって来たという現在の科学が示す内容を教えていない驚きの不思議です(北京原人は全く関係ありません)。そして、②肝心の始まりの“日本祖人”が、沖縄に南下し北海道に北上したという1万件を超える旧石器遺跡が示す内容も説明していません。教科書によっては、さして意味ないナウマン象が居て大陸から来た、従って人も来たという印象操作の嘘が誤解の元になっている不思議です。沿岸北上が有力なのです。③教科書の最初から北海道が色違いの写真を出している誤解の元の教科書もあります。日本列島史は北上史であり、祖代~縄文~続縄文~擦文~・・・、万年の大昔から、青森から北上して定着した人々が基本で、モヨロやアイヌという紀元後に加わった人々もいますが、人がすっかり入れ替わってしまったことは有りませんので、色違いは誤解の元です。

実は始まりの北部九州に、家族が30~40kmをフネで海を越えて来るのは、造舟、操舟を考えれば専門家がいたにしろ高い知的レベルであり、教科書が原始時代と記述しているのも問題です。世界の旧石器時代を比較すれば、日本祖人は”金メダル“を幾つも取っているのです。④伊豆の海で黒耀石を求めて少なくとも十数kmをフネで行き来し、静岡・関東・長野にまで交易で神津恩馳島産が行っていますし、⑤「陥し穴」猟は1m以上の深さの穴を何十も企画し鉄器もなく掘って作っている知能と集団の社会性を北海道から九州まで示しており、アメリカ先住民インディアンのような「環状のキャンプ」跡を残しています。また、⑥磨製石器は欧州・近東よりなんと驚きの2万年も早くから出現しており、伐採・木工などに使っていたようですし、釣り針も発見としては世界最古ですが、教科書はこれらを全く書いていない異常な不思議です。このためか、磨製石器が3~6千円でオークション売買されているのは世界に大恥です。膨大なウポポイ予算から真の文化財保護に充てるべきです。

今や仕方がないので、副読本でこれらの内容を子供に教え、世界にも発信しましょう。そして世界人類移住史の最後の謎である「最初のアメリカ人」問題を、国際協力研究で解明しましょう。その重要な基礎となる北海道始り史の研究と遺跡・遺物の保護を、アイヌ予算から充当しましょう。

1図出アフリカからの我々現生人類の歩みは、正に先人が東亜島弧の花綵(かさい・花づな)と称えた”海道”の歩みが今、注目です。 きっと、先人も関連を直感されたのでしょう。

「最初のアメリカ人」関連で2図菊池俊彦元北大教授が視野におさめられたオホーツク海、ベーリング海の古代史が痕跡を窺わせ、特に教授が点線不明とされた北・中千島史は遊動暮らしの祖代、石器土器竪穴住居の縄文的で興味深く、この北部千島と北海道を中心に視点を据えると南方からの歴史と接合し、 「最初のアメリカ人」関連とも接合し ます。東亜島弧の花綵列島という人類史の歩みの幹が浮かび上がり、特に太平洋東側の南北アメリカ新大陸沿岸へと幹は伸びて行っていることで、欧米最新の「昆布ハイウェイ(Kelp Highway)」沿いの人類移住史とも接合します。それはまた、環太平洋の言語の類似性に着目された元日本語言語学会長の松本克己説とも合致しています。

日本祖代研究会では、ハーヴァード医科大がアマゾン古部族のDNAが、スンダランド地域(アンダマン諸島~パプア)のほか、他に類似が無いことから現生人類の環太平洋移住(MPOR:Migration along Pacific Ocean Rim)説として研究を進めてきており、少なくとも研究意義は疑いないと考えていますが、巷間では誤解を招く誤りの「日本の始まり3方向渡来図(サハリン、朝鮮半島、沖縄)」や北海道大学の 樺太からの種族の進入を過度 (花綵“海道”の幹でなく枝葉) に強調することで、花綵 史の子供への教育や世界発信が不十分となっています。オリンピックの機会にしっかり改善しましょう。先住でない進入アイヌへの膨大な予算を、世界人類史研究の幹である本研究の国際的な推進に向けましょう。

1図北海道大学の大のDNA分析による歴史ついての推定は、修正が必要です。

①カムチャッカ半島の集団は、AとBの2種があり、かつ②南下した痕跡は見られず、むしろ近代まで北千島人が半島南端に存在していたように北上を考えるべきです。オホーツク人は東西南北で多様であり、確かに北部と西部に古代史上の類似性がありますが、③北海道史の対象はオホ-ツク西部人系であり樺太種族と言っていいでしょう。モヨロ貝塚人もアイヌもそうで、④アイヌは鎌倉時代頃の進入者です。北海道史は3万年前から始まり、⑤祖人、縄文人、…と歴史を重ね、擦文人となりこれらの間に内地から、北から細石器文化人などが加わり北海道人となっていますが、その大きな器にモヨロもアイヌも入って来て既に居た人と部分的に折り合いをつけ、あるいは追い出し追い出され、融合しながら北海道人となって来たものです。

2図菊池元北大教授が、紀元後のオホーツク古代史を探っていますが、興味深いのは北・中千島人については、点線の不明扱いになっています。実はこの点こそ今日的な重要課題で、北部千島の解明が一つの鍵なのです。さて、世界人類移住史は、3図テキサス大学がミトコンドリアDNAをたどることで、「最初のアメリカ人」に関して発表し、初登場の日本列島通過ルートとシベリア内陸ルートで、氷床線で移住を制限したことも考慮しており、何れが先かも分かる今日的に興味深い内容となっています。それは、シベリアの狩猟族がマンモスを追ってベーリング地峡を越え「無氷回廊」を通って米本土に入って来たという長い間の定説が新遺跡の発見等で崩れ、1.7万年以前に北太平洋の食豊かな昆布ハイウェイ沿いにフネで入って来たという考古学上の新説に合っているのです(前回紹介)。

つまり菊池教授が視野におさめていた 4図、「最初のアメリカ人」候補は、海獣・漁撈系の甲(太平洋系Aとオホーツク海系B)とシベリア・マンモスハンター子孫のトナカイ・ハンター系の乙となり(中間的諸種族も)、移住史の甲は、島々が弓なりに配列していて、花を編んで作った綱=花綵(かさい・はなづな)のような弧状をしている花綵海道ルートに、南の日本列島人から北の海の民アレウトまで連なっています。その花の一つが、菊池元北大教授が点線で残した北部(北・中)千島という訳です。小柄、褐色、石器や土器も使う未開で、明治時代に調査した鳥居龍蔵が、縄文時代のような竪穴住居を作るも定住せずに島々を移動して暮らす遊道海民としての人々の様子を伝えています。旧石器時代・祖代、縄文時代の暮らし を留めたような驚きの ものですが、アイヌ語系の言葉を話しロシア正教を信仰していました。

カムチャッカ半島南端にも居住していたことは、半島中部太平洋側のウシュキ遺跡の墓が道南の知内町遺跡に類似している状況を考えれば、大昔はもっと北に拡がっていたのだろうと思われます。日露の千島樺太交換条約の歴史の大波に襲われ、色丹島や欧州のベラルーシなどに移住させられてよく分からなくなっています。残された関係の人々を見つけ出してDNA調査ができれば、最も古き痕跡である遊道海民千島について、また、アメリカ先住民との比較で貴重な何かが分かるかもしれません。膨大なアイヌ予算をこの貴重な研究調査に振り向けましょう。子供に教え、世界に発信しましょう。

考古人類学の雄である米国のテキサス大学が、アフリカ発の現生人類の女性で伝わるミトコンドリアDNAの移住図に、興味深い最終氷期最寒期(LGM、2.5~1.9万年前)の氷床線を入れて公表しています(http:2007現在確認できず)。この線以前の時代となると違う状況も考えられるものの、歴史理解の有力な状況が分かります。

そこからは、左図の東南アジアのスンダランド原郷が、日本列島への北上が示され、また、沿岸と内陸の2つのルートが分かり、重要なことは氷床線と併せて考えれば、沿岸ルートが先で、 内陸ルートは、 氷床が融けてからの後発で入って来たことが分かります。即ち、2ルートと新旧の 2層性です。テキサス大の資料時期では、はっきり言えないと考えたためか沿岸ルートは米本土に入った所で止まっていますが、その後、内陸の氷床が融けた「無氷回廊」開通頃の南米チリのモンテ・ヴェルデ遺跡や未だ開通していない時代の北米1.6万年頃の遺跡が続々と発見され、左図太平洋東側赤点線の沿岸ルートで拡がったものと考えられます。

このようなことは、前回まで考察した痕跡を追える、青森~アンカレジ沿岸ルートの実在性や人々の新旧2層性とも合っており、新たな視点で双方を観ればそれぞれが実に納得の内容と理解できます。氷床線以前の古い時代状況は有り得るものの、ともかく世界人類史の観点で、祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoと北海道始り史、「最初のアメリカ人」との関りなどが、極めて重要です。東京・札幌オリンピックがこの状況を全く知らせずに、鎌倉時代に入って来たアイヌを過剰に持ち上げ、他方、学術辞典がこれらの内容を全く採り挙げないという、両者の世界からの「周回遅れ」は酷過ぎます。ともかく子供に教え世界に発信し、関係諸国の協同研究で更に明らかにすべきです。

イエズス会アンゼリス神父は江戸初期 にその使命から、流石に驚くべき左図地図報告をにしています。

ベーリングの120年前に海峡を、間宮林蔵の200年前にやはり海峡を把握し、北極海に至る陸地もまずまずで、青森とアンカレジを正しく認識しています。それにも拘わらず、興味深いのは①北海道を大きく理解し、「米臨海」西沿いは、カムチャッカ・千島・道東が陸続きです。即ち②千島は、島間の 最大 距離約80kmという、漕いで1日で行くのは大変な所があり、20を超える島々を舟で行き来せねばなりませんが、す~っとアラスカに行けそうです。そして、中・北千島人は、③ヒゲ無く未開でアイヌとはっきり違う理解をしている点も興味深いです。アイヌと中北千島人は、④顔を合わせて交渉しない物を置き合って交易するやり方(沈黙交易)でした。また、別の神父の情報では、⑤エゾ人は、彼らの言葉を理解できない(孤立的な古さ)としていますので、中・北千島人は、アイヌとも一味違う言葉でもあったのでしょう。

「最初のアメリカ人」沿岸ルートである青森~アンカレジは、地形的には思ったより一通性がある認識を持たれる状況にあり、人的には右図新旧の2層という状況で古Ⅰ層の一通性が窺がわれ、はっきりと祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoは、「沿岸ルート」のやはり有力候補であることが分かります。更なる研究を進めるとともに、子供に教え世界に発信です。

右図沿岸ルートの青森~アンカレジについて、明治先達が地域の歴史と人に関し、2層構造観に至っていたことは正に驚きの先進性です。

日本考古学始まりの大森貝塚発見の米学者モースと人類学の祖である坪井正五郎は、北海道にはアイヌと違う先住の人々がいたと口碑や遺物などからはっきり新旧2層を認識し、フィールドワーカーで有名な鳥居龍蔵は、千島列島を訪れ北海道アイヌと北部千島の人や暮らしぶりの違い、特にシベリア東部・カムチャッカ半島にはシベリアで見られるマンモス骨で家を創る系の鯨骨利用のエスキモー(イヌイット)以前に、竪穴住居に住み石器や骨器を使い、ゴミ溜めに熊・トナカイ・セイウチ・トドの骨を残したオンキロン(人)がいて、海岸にはアンカリ(人)がいたことを把握し、オンキロンとアンカリはその名前の言葉(発音)から同じ種族ではという新旧2層の認識を示している。

そして北部千島人と海岸のアンカリ人の中間のカムチャッカ半島「米臨海」側には、13,000年前の遺跡で道南知内町遺跡と墓の副葬品の状況が似ている同種と考えられる人々がいたことを考えると、繋がって図中の旧新1・2層の区分となります。「最初のアメリカ人」については、舟の民「北部千島人」と海岸の民アンカリが移住沿岸ルート系の古い痕跡を残しているモノとして、実に納得の新旧2層の種族構造の仮説に導かれます。 更にコレが、近年の米先住民Ntivesの広範なDNA分析から得られる見方とも矛盾がないのです。因みに、アリュウシャン列島アレウト族は、DNAは新しいとしても暮らしぶりは離島に海民性の暮らしぶりの痕跡が残ったモノとも考えられ興味深いです。 膨大なアイヌ予算を充当して古文書や遺跡等について関係諸国との協同研究を推進しましょう。子供に教え世界に発信しましょう。

今、世界人類史の重要な問題である「最初のアメリカ人」(1万数万年以前から)について、右図①日本最新の旧石器辞典が全く扱っていない周回遅れです。従って、子供は学校で全く教わっていません。

旧石器時代は約1万年前以前、中国では1.4万年以前になろうかという状況でアフリカ、ユーラシアを扱いながら、世界注目のアメリカ新大陸の重要な旧石器時代を全く扱っていない異常です。問題は長く左図②シベリアのマンモス狩猟族Bが、当時の海水面低下で生じていたベーリング地峡からマンモスを追って入って来て、氷床が融けた「無氷回廊」を通り米本土に、南米にまで拡がったというものでした。ところが近年になって、③その回廊が開いた頃の南米チリ遺跡が歴史界に衝撃を与え、北米では開通以前の遺跡が諸所で発見され、北太平洋沿岸の昆布ハイウェイ(Kelp Highway)をフネで入って来た”沿岸ルート説”が主流になってきました。DNA分析によってアジアからであるとなり、一部に根強かった大西洋ルートなどは否定されています。そして、④食が豊かな昆布ハイウェイルートと石器の類似性に着目したアメリカ学者の中に、A日本から来たのではと言う者が現れました。

日本からとなれば北海道であり、3万年前からの祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoが注目されますが、日本では根拠もなく沿海州・樺太の方からマンモスを追って(現生人類が)南下し入って来たというイメージが今も書籍や博物館の展示で与えられ、南方九州から北上して拡がったという1万件を超える旧石器遺跡が示す事実が示されない異常から、外に出るイメージが生まれず、今やアメリカ学者が言い出した事に対応できていません。さて、左図A④3万数千年前の青森から狭くなっていた津軽海峡を越え、3万年前(石器分析)には北海道に拡がっていた祖人が注目され、図のように一旦はいろいろ別れても合流する種々のルートが考えられます。当時の地峡により、北極海の冷水の流入はSTOPしていた米臨海は正にハワイに繋がる海でした。外国の学者にはアリューシャン列島ルートを指摘する者もいますが、図中央のロシア・コマンドル諸島(かつて侵入した露人が生活難で全滅)から列島側へは400kmを超える漕舟が必要で、1日10時間で約1週間、万年前には困難だったろうと考えます(仮に、祖人が渡っていたなら言葉もない驚き!)。

更に、考古学的には“米臨海”地域は、せいぜい1.5万年前までの遺跡発見の状況ですが、⑤DNA分析ではもっと早くに現生人類はベーリング地峡に達し、そこで滞留してDNAが変化したCと考えないと理解できない状況にあるとの分子生物学分野の意見が出ています。という状況で世界は移住史の最後の謎に取り組んでいます。日本も積極参加し、北海道の当時の状況、考えられるルートに係る状況についての解明努力が必要で、膨大なアイヌ予算から充当して協同研究などにより世界学界に貢献しましょう。子供に教えて研究進展に期待し、世界に旧石器時代・日本祖代の北海道関連を発信しましょう。

青森で最古級の土器(縄文でない)が出た16,500年以前を旧石器時代・日本祖代とするので、アメリカ大陸分は扱っていません、がいい訳なんでしょう。

しかし、そもそもかつては、縄文時代とは概ね日本列島に縄文土器がいきわたり、定住生活や弓矢の使用や明らかに先代と暮らしぶりがはっきり変わった13,000年前頃からで、約1万年間と言われていました。今では15,000年頃説、そして最近増えて来た16,500年説ですが、青森にしかない縄文もない土器が登場した時をもって縄文時代の始まりには違和感がありましたが、仮にアメリカ新大陸との関りを排除するためであれば、世界を観ないその姑息さは許されません。世界移住史最後の謎の「最初のアメリカ人」問題は、無氷回廊定説が覆って17,000年以前に「米臨海」沿岸ルートから進入説が主流となってます(関係米学者7割)。

青森~アンカレジ沿岸ルートも浮上、3万年前からの祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoは、注目です。学界は、縄文時代の始まり、世界の「最初のアメリカ人」問題を議論しよう、子供に教え世界に発信しよう。

世界人類移住史の最後の謎、「最初のアメリカ人」については、右図の「米臨海」沿岸からフネで1.7万年以前にという事で、青森~アンカレジの「昆布ハイウェイ」沿いが注目されてきており、特に図中央、北部千島の海の民”祖・縄文人”系の痕跡に、その探求課題が浮上して来ています。

ところがなんと、100年以上も前の考古人類学の始まり時代に、日本人類学の祖、東大の坪井正五郎教授が、図左千島列島人に注目すべし、①アイヌとの関連、②石器時代人(祖代、縄文時代は分かってはいなかった)との関係、そしてアジアとともに、③北米の人々の由来を考え究めるうえで必要と指摘し、正に現代を驚きの先取りしている先進性です。では、千島列島の調査研究はその後もなされてはいるのに何故、今日まで教授の先進の認識が生かされていないのかは、A.折角、当時も現地研究がなされたが、当時のレベルの判断で坪井教授の認識を否定してしまい、また、教授が亡くなられて反論の機会もなく立ち消えてしまった。B.特に、世界的にも③アメリカとの関係では、シベリア・マンモス狩猟族がベーリング地峡を越えて入ったとする移住の旧定説が根強く、注目されなかった。C.学界が千島アイヌ、あるいは北千島アイヌと呼んでしまい、鎌倉時代から北海道に入って来たアイヌと同一視する矮小化の問題を生じてしまった。ことなどにより休眠してしまいました。

坪井教授は、当時得られた聞き取りや現地研究、文献諸資料から、「アイヌとは違う」人々という今では重要な問題意識を有して注目しましたが、結局その後の研究においては、(北)千島アイヌとして矮小化され、アメリカとの関連に着目する研究は無い状況になってしまっています。実は明治の千島・樺太交換条約で、日本政府は国境の外国密猟者による襲撃の危険もある”北部千島人”を説得し、明治17年(1884年)に南の色丹に移住させ生活基盤を与えましたが、結果として病人が発生したり大きな生活変化に適応できず、97人の過半が亡くなり、生まれた子供を加えて62人に減少、その後混血もあり道民の中などに融け、昭和16年には今から思えば学術的に重要な北からの移住者がいなくなってしまいました(千島列島を巡る日本とロシア:秋月俊幸)。

色丹で生まれた子も年月が経ち、今では亡くなっていることでしょう(DNA調査を追ってほしい!)。残念ですが、この新たな光が当たる千島列島人、特に海の民「祖・縄文人」系の「北部千島人」は、これまで行われた種々の研究をそういう目で見直し、隣国史と比較検討することが求められています。世界が求める課題の重要研究に、近頃の膨大なアイヌ予算から世界課題の国際協同研究 に充当しましよう。子供に教え世界に発信し、誤解も正しましょう。

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