右上1図米国学界では、「最初のアメリカ人」に、既に北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoの関りが出ています。

更に深堀りで注目すべきは、その下図のルートン地域人で、千島湖地域のカムチャッカ半島南部から北千島地域に住んでいました。明治8年(1875年)の樺太千島交換条約で、半島側と北千島側に分けられ、ロシアの半島側の人々は結局、半島の南西部で、日本側は色丹島に居を移しましたが現在は日ロ地域の人波の中に消えて行ったようで、辿れないとみられていますが。そして北のカムチャッカ中央部のウシュキUshki遺跡(13,000年前)が、石器などでアラスカと繋がっているのみならず、道南函館地区の知内町遺跡(約2万年前)の墓の副葬品との類似性が注目されており、北海道祖人、ルートン地域人が進出していたことをうかがわせ、カムチャッカ半島中部迄もとなれば、もうベーリング地峡へは指呼の間ですから重要で、「最初のアメリカ人」に関わっていたと考えられます。

図左、明治時代に北千島の調査に当たった鳥居龍蔵の「アイヌより古いかも」は、①人類がアフリカ発で日本列島にやって来たなんて想像もできなかった、②縄文時代ですら分からなかった時代に、慧眼の調査所見です。石・木・骨・土器の道具を使い、縄文的な竪穴住居に住み、当時の外国人が「未開」と報告した旧石器時代的な「遊動」海民の暮らしぶりから、ムリなく導かれた直感は妥当です。アイヌ伝承のアイヌに追われて北に逃げて行った小人「コロボックルであろう」と報告していれば完璧だったのです。更に、東京大学名誉教授自然人類学者の埴原和郎らの図左下、頭蓋形質分析によるルートン地域人は、「北のオホーツク人と最も遠く、北の影響を受けているアイヌ、本州人とも離れている」という事は、約4万年前に北九州に渡海して拡がった日本祖人の北上系であることを示す極めて重要なものなのです。

1.南方から北上した祖人系の人々、2.カムチャッカ半島中部にまで関わっていたとみられる人々、「遊動」海民ルートン地域人は、ベリンジアに行っていておかしくない、アメリカ先住民祖先に関わっていておかしくない、今、注目の痕跡なのです。子供に教え、世界に発信、ウポポイ予算から充当して更なる国際共同研究による解明を。

世界人類史「最初のアメリカ人」については、1図(赤い線で日本列島を通過)、今では関係の米国学者の7割方が「最初のアメリカ人沿岸進入説」に様変わりで、北太平洋North Pacific、日本列島Japanese Archipelago、北海道Hokkaidoが普通に出て来ています。

12年前からオレゴン大のErlandson博士は指摘していますが、孤立的だったようです。そして、沿岸移住説と同じである食豊かな「昆布ハイウェイkelp highway説」で、何とか話が広まって行ったと自嘲気味に話しています。博士の思い出話を聞いていると、「ケンジ、(北米で発掘された石器は)どうかね?」、「ええ、(北海道のと)よく似ていますね、そっくりです」というのがありますが、留学か調査研究で渡米していたケンジさんが、日本でしっかり沿岸説を紹介した様子は、残念ながらないようです。日本では、学校はもとより、書店・図書館、youtubeでも始まり時代のこの沿岸進入説、北海道・千島列島の重要性を見ることがない、周回遅れの状況です。

2図2013年出版本の中にこの問題も入っていますが、図下シベリア、カムチャッカ、アラスカの遺跡状況が俎上にのぼりながら、図上の充実遺跡の北海道が全く考慮されておらずに参加が無く、興味深い遊動海民の「北部千島ルートン人」(アイヌではない)が居た千島列島ルートも載っていない酷さですから、「参加」を訴えてきましたが、日本はまだこの状態で眠っているような周回遅れです。こういう説があると学校で教えなければ何の世界寄与も今後の発展も期待できないままです。最初のアメリカ人問題は、実は最初の日本人問題であることがしっかり理解されていないために、予算の充当もないまま放置されている残念な状況です。日本祖代研究会では、東南アジアのかつての大陸地スンダランドから北上して日本列島、ベリンジア、米大陸西岸を南米南端まで拡がった「環太平洋沿岸移住MPOR説」を提唱しています。子供に教え、世界に発信し、日米加露の共同研究を。

いよいよ7月、オリンピックです。ところで、下右1図 世界人類移住史の最後の謎、「最初のアメリカ人・先住民Natives」は、シベリア狩猟族が、マンモスを追ってベーリング地峡から入って行ったと思っていませんか、日本は関係ないと思っていませんか? 

実は問題は、1図の世界人類史オリンピックに、シベリア、カムチャッカ、アラスカの遺跡(黒丸、黄下線)はありますが、北海道は半分しかも真っ白で遺跡(数701か所)が全く参加させられていない上に、千島列島が書かれていませんから移住のルートもないという酷いモノです。世界の学者の世界でさえまだまだこの歪んだ認識があり、子供に学校で教えられることもありません。実際は第2図、約4万年前に北部九州に渡海して拡がり、青森から当時は海水面低下で狭くなっていた津軽海峡を越えて3.5~3万年前ごろには北海道の雪と寒気に適応して拡がり、1図の地域で見渡しても発掘遺跡は桁違いの生活痕跡であり、食豊かな昆布ハイウェイ沿いの次々に見えた処女地を北上して行った(http://www.sunda-wind.net/news/9577)可能性があります。その最初のアメリカ人については、1図青線のように、最新説は、厚い北米の氷床で進めなかった時代(1.7万年以前)に、ベリンジア南岸・米大陸太平洋岸から図の青線のようにフネで入って行っただろう、です。

となれば、冬の北の海では30分も海水に浸かれば死の厳しさですから、シベリア狩猟族がそう簡単に水が入らぬフネを造り、操作して猟をできたのか、容易でないですから、当然に北部千島ルートン人・北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoと千島列島(オホーツク沿岸も)ルートに注目で、関りがあっただろうと考えられます。既に、米学者Dr.Erlandsonなど北海道ルートを挙げている学者が出ています。北海道正史を正しくシッカリ子供に教え、世界の誤解を解いて至当に認識されるように発信です。

マンモスハンターがベーリング地峡から追って入って来たという長い間の定説が崩れ、北米大陸の北太平洋沿岸から入って来たという新説で、地域の遺跡に新たな光が当てられています。

①は北部千島人で、明治時代に調査に行った東京帝大助手の鳥居龍蔵を驚かせた石器・骨器も使い竪穴住居に住んでいる「遊動」海民の暮らしぶりです。無論、鳥居には、現生人類がアフリカで誕生し北上してきたことや縄文時代すら想像もできない事でしたが、その島の暮らしの状況を明らかにした功績は大きいです。彼は、ユーカラもなくアイヌではないそこの人が答えた「ルートン」人を使うべきでしたし、北千島開拓の郡司成忠元大尉・海軍大学卒が直感で坪井正五郎教授に調査を依頼した事のとおり、「コロボックルらしい」と言うべきでした。この北部千島ルートン(カムチャッカ南端部も)の起居の住まいがアイヌと異なり、造形はアリューシャン列島のアレウト族、極北のエスキモー・イヌイット、そして北米内陸のナバホ族に類似であり、鹿児島・上野原の縄文遺跡とも似ているのです。

②はカムチャッカ人で、冬の家と夏の家を有し、前者は北部千島ルートン人の物と類似ですが、あの北のカムチャッカ半島での夏の家は、正に南方系高床式で6本脚柱という青森・三内丸山縄文遺跡、富山・北代縄文遺跡に通ずる興味深いものであり、3万年前の北陸~道東の石器の類似性や出雲大社とも関わりあるものと言えるでしょう。そして、③日本列島~カムチャッカ~北米を通じ、共通性を感じるものとして、出雲大社の千木のように、長く残して切らずに張りだしている造形の共通性が興味深く、これは東南アジアなどでも見られる南方系のものです。こんな事からもBeringiaの「一時的列島」 (米伊3ケ大学 チームの最新研究)の小島伝いに北太平洋沿岸から入って来た「最初のアメリカ人・先住民」には、やはり 北海道祖人Proto-Japanese Hokkaido・北部千島ルートンが関わっていると考えます。子供に教え、世界に発信を。

「最初のアメリカ人・先住民」が、ベーリング地峡(ベリンジア)南岸の一時的な列島(temporary archipelago)から、太平洋沿岸の昆布ハイウェイ沿いに(3.2)~1.7万年前に入って来たという新説で千島列島に光が当たり、特に占守島、幌筵島の北部千島の先住民で旧石器時代的な‟遊動”海民(青森から北上した南方祖人系)ルートン人(アイヌではない)に注目です。

ルートン人が、①最後にはカムチャッカ半島南端のロパートカ岬にも居たこと、②かつて同半島南部のクリル湖地域にも居たがカムチャダールとの争いで幌筵に逃げ帰った事、③同半島中部太平洋側のUshki遺跡は、道南知内町遺跡(2万年前)の墓の副葬品に類似性がある事から進出していたとみられること、そして、④アラスカからアリューシャン列島を西方に拡がって行ったアレウト族(痕跡は約9千年前)が、舟での行動が容易でない北の厳しい海で、ロシア人も驚く優れた造・操舟力を示す習俗を有する事が傍証とも考えられることなどから、ベリンジアに達していたと考えられます(進出仮説)。

という事から、シベリア狩猟族もこの地域に進出していたものの、青森から北上した北海道祖人系ルートンは、最初のアメリカ人・先住民の祖先に関っていた可能性があります。日本では、ルートン人の色丹移住後の時代を経た今では痕跡は消えたと考えられていますが、 半島 西南部 Zaporozhyein Ust-Bolsheretsky District地区などに、あるいは引き上げた大陸に痕跡が残されている可能性もあり、日本提唱で日米加露の共同研究で世界人類史の謎と我々の祖先の解明に当たるべきです。状況を子供に教え、オリンピックの世界に発信用を。

最初のアメリカ人・先住民問題が、ベーリング地峡南岸そして太平洋沿岸から入って来たという新説で、注目される千島列島の北部千島人(アイヌでなくルートン人)は、その視点で光を当てれば実に興味深い内容があります。

活字になったものとしては1.英人がアイヌとは異なる背の低い人間が千島に居ると記述し、2.イエズス会宣教師は更に、色黒で、アイヌと異なる言葉、未開と報告し、明治時代の知識人が、3.アイヌから北に逃げた、北千島除くアイヌに広く伝承のある先住・小人コロボックルを指摘して言及し、4.調査に当たった研究者が。それぞれアイヌと異なる土俗の存在として認識しており、旧石器時代のような「遊動」の海民の暮らしぶりに驚かされ、特に、北の民オホーツク人と頭蓋形質を遠く異にすることが、アイヌや本州人よりも古い、南方祖人の北上を示すものと考えられるのです。

そして、5.今は北部千島ルートン人については、色丹から引き揚げた最後の人も亡くなって探れなくなったと認識されていますが、1877年にカムチャッカ半島沖のコマンドル諸島への移住の話があり、また半島のカムチャダールとの争いの後、同半島南部のクリル湖から北部千島の幌筵島に引き上げた事もあって、カムチャッカ半島に進出していたことが明らかなのです。クリル湖の北方で、類似の同半島中部湖地域のUshki遺跡は、13,000年前で、北海道南の知内町遺跡(2万年前)の墓の副葬品に類似性が指摘されており、青森~知内~道東~千島~カムチャッカの繋がりを示しています。無論、Ushki遺跡の石器と同時代の新大陸アラスカの石器の類似性が確認されてますので、これらのことは、北部千島ルートン人を通じて北海道祖人とアメリカ新大陸の関連を示唆するものでもあり大変重要です。

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そして、カムチャッカ半島などから北部千島ルートン人を探る可能性はない訳ではありません。南方から北上の祖人に近いルートン人、政府は祖先探求の努力をすべきです。子供に教え、オリンピックの世界に発信を。

図左下の出アフリカから世界に拡がった人類移住史の最後のテーマ「最初のアメリカ人・先住民」First Americansは、それまでの定説であったシベリア狩猟族がマンモスなどを追ってベーリング地峡(Beringiaベリンジア)を通って入り、急速に南下したというモノでした。

が、図右北米氷床に通路が開かれる前の旧い遺跡があちこちで発掘され(最新は論議を呼んでいるメキシコ北部3万年前)て崩れ、最新主流は太平洋沿岸からフネを使い入って来て(Coastal Migration Theory,沿岸ルート説)、コロンビア・ジャンクションJktで内陸に入って行って拡がったとなっています。そうなると誰が、いつ、如何にベリンジアを越えたかが新たな謎・問題となります。最新研究でベリンジア南岸は小島が連なる一時的ながら列島の様相を呈しそこから入って来たとなっています。図右上、A.沿岸で浮かび上がるのが日本列島ルートで、日本祖人Proto-Japaneseは、北海道から千島列島の海峡(最大離隔77km、目視は可能)を超えて北上できたのか(それとも樺太からオホーツク海沿岸を廻ったのか)、B.シベリア狩猟族は、ベリンジアに出て来てアラスカで氷床に行く手を阻まれ、冬の30分海水に浸かれば死という北の海でフネを造り操り舟人に成れたのか、C.前2者が出会い、混合しベリンジア滞留で変化し入って来たのか、論議が、発掘努力が、DNAや当時の環境分析などが続けられています。

そして、沿岸ルートという事で、図中央上、明治時代の北千島調査で驚かされた、石器を骨・木・土器を使い旧石器時代のような遊動の暮らし振りの北部千島人(アイヌでない)、ロシア人が全くかなわない造・操舟力のアレウト族などが歴史の底から浮上しています。また、これらの関連で、北海道祖人の北上継続問題、伊豆祖人の東京諸島の行き来、そもそも賑やかだった日本列島中央部や曙海からの北部九州への渡海などに世界人類史の光も当たります。因みにこれらのことから、東南アジアの今は過半が沈んでいるスンダランドから太平洋沿岸をベリンジアを経て南米南端まフネを使い移住したとする 日本祖代研究会の 環太平洋移住MPOR(Migration along Pacific Ocean Rim)説が妥当です。子供に教え、オリンピックの世界の人々に発信を。

図左上、青森から津軽海峡を越えて3.5~3万年前に雪と寒気の暮らしに適応した北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoが今注目です。

図右、昨年メキシコ北部高地で3万年以上前から万年にわたる季節的な居住を示すとみられる遺物を発掘したと、地元・英国・デンマークなどの3大学チームが一流科学誌Natureで発表しました。当時の大陸氷床の状況から内陸移住は出来ず、太平洋沿岸から入って来た(Coastal Migration Theory)のだろうと言われています。熊やコウモリ、ネズミなどの動物の骨や燃えた跡、何より外から持ち込んだとみられる石灰石の石器(2000個)などから判断されたものですが、石器に関する疑念やDNA分析などで得られているこれまでの定説を1.5万年も遡る驚きの古さで異論も出て論議中です。DNAについては、現代人に繋がることなく途中で消えたのだろうと発言されていますが。

問題は、この関連で、北部九州への渡海で始まり、図左下、38,000年前から伊豆の海を東京諸島南部の黒耀石を求めてフネで行き来していた「伊豆祖人」(おそらく専業で広域交易もしていた、原始人ではない)、その子孫の北海道祖人が、北上を継続してベーリング地峡に至り「最初のアメリカ人・先住民」Natives ―First Americansに関わっていた可能性について、世界はもとより日本の大学生ですらよく知らない事です。①北海道へは北からマンモス・ハンターなどが入って来たという北上の見方の無い北海道史の誤解、②更に北上の可能性は、遺跡・遺物で、はっきり確認できず語らないという日本的な非科学的態度に問題があります。北海道の熊や北キツネは石器を作りません、たとえ酸性土壌のために融けて人骨の発見が無くとも、遺物が示す北上した「祖人」Proto-Japaneseが作ったのです。子供に教え、オリンピックの世界に発信し、学術論議に「北海道祖人」の積極的な参加を。

過半の学者は図の内容に異議なしでしょう。しかし現状では、よく分からないとして教えず、それでいて「原始人」とだけ言う大問題です。

A.アルカリ土壌のお陰で沖縄では人骨が多く発掘され、石垣島祖人に加え、約2万年前の沖縄本島での港川祖人が、次代・2代目の縄文人に繋がるとのDNA分析による認定です。B.日本列島史の始まりは曙海を約4万年前に家族で渡海し北部九州へ。北上して北海道へ、南下して沖縄へ3万年前までにはほぼ列島中に拡がりました。今と似て関東甲信越は、中央部が黒耀石の産地のせいもあり賑やかで、何よりも千島列島から 「北海道祖人」が 北上を継続しアメリカ新大陸に至った可能性が、今史界の注目です。そして、C.実は、島国で開発の発掘も多いことから、先史上の金メダルがゴロゴロという誇るべき状況なのです。まず第1に、約4万年前の始まりの祖人から令和人までが一気通貫で繋がっている世界にそう類の無い驚きの状況です。

2.伊豆の海を南部東京諸島の黒耀石を求めて38,000前から行き来していたダントツの金メダルは、某大新聞が謎と書きましたが、大島は大きく見え、海流を考え、諸島の南部の島々は海水面低下で今よりずっと繋がっていたので浜辺を舟を引いて行けたことなどを考えれば謎ではなく、造・操舟力、誰でもが漕いで行ったわけではない専業とみられること、遠隔地との交易などからもはや「原始人」ではないです。3.磨製石器はネットで3千円という安値で売り買いされている酷い状況ですが、木工などの為か、世界を見れば1万年は早いぶっちぎりの金メダルなのです。4.陥し穴猟も、鉄製スコップの無い時代に大きさ・深さ1mを超える穴を何十個も作った、動物の習性理解、多数の穴の構成イメージ形成と作業指示などの社会性が見られ、計画性ある大作業力も「原始人」ではないです。

5.3万年も前に、 一時的セッティングではありましたが、アメリカ先住民にも見られた環状キャンプを作っていたまとまりの社会性、広場で行われたことの精神性などがうかがわれ、当然に山や川には名前があった知的レベルでしたから、鎌倉時代に入って来たアイヌが地名に名を付けたと言うのは誤解を招くモノです。6.沖縄で見つかっている釣り針もはっきり海民性ある技術で2.3万年前当時では金メダルです。D.始まり時代の年表は、祖代・祖人ではっきり祖先であることを認識しています。現行の後期後期旧石器時代人のように英語では訳分からない事も無く、「岩宿人」では沖縄や北海道を語り難く、「岩宿人」がアメリカに行ったかもと言えば、「何それ?」と言われますので、やはり祖人です。祖代前期、後半期、末期と石器の分析で得られた時代3区分も出来ており、旧さを考えれば十分です。

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図左上の北海道大学のオホーツク人南下の誤りだけでなく、シベリアのマンモス・ハンターが南下しても無く、アイヌが来るまでに3万年の長い豊かな歴史の積み重ねがあり、全ての川、山、岬、動植物・・・名前がありました。そして、
アフリカから北部九州、そして北部千島と考えて初めて、各地のアイヌの伝承で先住の”小人コロボックル“が北へ逃げて行った話が、納得できます。 何よりも、世界人類史の謎である「最初のアメリカ先住民」First Americansには、日本祖人のDNAが入っている可能性が、今議論されているのです(勿論、アイヌは本件に無縁です)。 以上、先人の旧石器遺跡の発掘努力は素晴らしく、世界に誇り得るものであり、また、祖人は「原始人」などではないことを子供に教え、オリンピックで来日客を東京諸島に案内するなど、世界に発信すべきです。

沖縄・港川祖人のDNA分析で、2代目縄文人から令和人まで一気通貫しましたが、日本史の巷間本は、図左のその始まり(約4万年前から)を見つめないので歪みがあり、その始まりに触れた本もアフリカ発の長い行程を経た認識が弱く歪んでいますので、オリンピックを機に骨軸を正しましょう。 そんな古いことはよく分からない、古代から今に至る歴史と関係がないと言う傲慢さも問題です。

認知力を向上させていた数万年前の出アフリカ黒人は、赤子を東京で今育てれば高校くらいには入れる素材でしたでしょう。ただ、赤道付近の裸体暮らしの人々が、日本列島近くにいつ、どのルートで達していたかを考えることが必要です。そして、何よりも重要な事は、北部九州にフネで家族が渡り、3.5~3万年前くらいには津軽海峡を越えて北海道に適応し、九州西岸から南西諸島を南下して沖縄に至り、概ね列島中に拡がり、2万年間くらいの追加同系人の進入と定着後に、北や西から新たな文化の人々が入ったものの、ナイフ形石器や細石器に残る北から南に長い列島の数個の地域差は、今の津軽弁と大阪弁の違いよりはるかに小さいのです。

特に今注目を要するのは、北、北海道史です。図右上、世界人類史の最新説では、「最初のアメリカ人」は、1.7万年以前に、ベーリング地峡南岸の一時的な列小島(temporary archipelago)から沿岸・昆布ハイウェイをフネで入って来たというものです。そうなればこれまでのシベリア狩猟族ルートだけでなく、④千島列島の海を越えて行ったのか(オホーツク海沿岸含む)が浮上し、処女地の食の豊かさや次々に島が見えていたこと、ベーリング海には北極海冷水が地峡で止められて流れ込んでいない状況でしたので、それまで南方から北上して来た祖人の北上継続を否定する要素は有りません。

そして、⑤旧石器時代のような石・骨・木器を使用し遊動海民の暮らしぶりの北部千島人が、明治時代に調査した東京帝大助手の鳥居龍蔵を驚かせています。興味深いのは、頭蓋形質の比較において、一部に南下説もあるオホーツク人とは最も遠く、アイヌとも本州人とも離れている、むしろ古い時代に南方から北上した祖人系と考えられることが重要なのです。ロシア学者が驚いたように、アイヌは交易品を獲りに来るだけで北部千島などには定住はしていませんから、本来は樺太・千島交換条約で急遽「千島アイヌ」と呼称しましたが、実は長い歴史からは鎌倉時代に入って来たアイヌと呼ぶのは適切ではありませんでした。既に、その後の強制のロシア正教になじみ聖像を飾っている人もいましたが、ずっと古いシャーマニズムは残されていました。

このように、アフリカから北部九州、そして北部千島と考えて初めて、各地のアイヌの伝承で先住の”小人コロボックル“北へ逃げた話が、納得できます。むしろやや悪口でアイヌが語っていたのを呼ばれていた北部千島人などが知らなかったとしても、むしろ存在の可能性を示すものであり、現にそれを南に来てから聞き知った鳥居の老現地助手である北部千島人は怒っています。つまり、図左上の北海道大学のオホーツク人南下の誤りだけでなく、シベリアのマンモス・ハンターが南下しても無く、アイヌが来るまでに3万年の長い豊かな歴史の積み重ねがあり、全ての川、山、岬、動植物・・・名前がありました。何よりも、「最初のアメリカ先住民」には、日本祖人のDNAが入っている可能性があるのです(勿論、アイヌは本件に無縁です)。子供に教え、世界に発信し誤解を正そう。

約2万年前(祖代末期)の沖縄・港川人のDNAが、現代にまで繋がることが分析で分かったようです(13日付の科学誌サイエンティフィック・リポーツ、総合研究大学院大、東邦大などのチーム)。

総研大の五條堀淳講師(自然人類学)は、日本列島のヒトの集団は、(祖代)・旧石器時代から現代に至るまで、遺伝的につながっていそうだと発言しており、これは、2.7万年前(祖代後半期)の石垣島人と共に、港川人も祖代を代表することになります。このことによって、図左下 1. 祖代始まりの北部九州への渡海と列島中への拡がり(北海道への北上と沖縄への南下)、2.現在を思わせる関東甲信越の連接と賑わい、3.北海道の雪と寒気に適応した拡がりという動態、図右 世界人類史における日本のポジション、北海道からの北上継続による「最初のアメリカ人」関りの可能性などが見えてきますし、 年表 の前期・後半期・末期という区分も出来ています。

1万件を超える旧石器遺跡の発掘と分析で明らかになっている暮らしぶりに係る豊富な内容は世界に類なく、北部九州への渡海、伊豆の海の行き来の造舟・操舟、磨製石器、環状キャンプ、陥し穴猟、釣り針など先史考古学の金メダル級の誇るべき内容が既にかなり分かっています。祖代・縄文時代が93%期間という日本文化の基層で、その後代への影響は大で重要です。もう、よく分かっていないからの言い訳は無用です、科学とは仮説を提示し前進を図るモノ、出版界は一気通貫となった今は、ゼロ扱いの祖代の特集を。子供に教え、オリンピックの世界に発信を。

大問題です(祖代会員の情報)。有名大書店の歴史コーナーに行くと、2代目「縄文」からで、始まりの初代・祖代・旧石器時代の標記が無く、書籍も殆どありません。また、多社競うように多点数を出版していますが、日本始まりの祖先のことを北部九州への渡海からきちんと解説した本は、1冊も無い異常です。

つまり、言わば企業の社史関係の本は沢山あっても初代・創業のことを解説した本が無い、2代目からしか記述がない異常 という訳なのです。初代時代はよく分からないからは屁理屈で、日本の場合、 1万件を超える旧石器遺跡は、大昔にしては 十分 に明らかにしているのです。さて、現生人類の移住史で、①日本列島に入って来た線が何故、九州で止まる異常なのか?おそらく北海道への北上と沖縄への南下を示したくない(遺跡が示しており分からない訳ではない)からで、特に北海道への北上をはっきりさせたくないからでしょう。つまり北方から入って来た、来たかもしれないとしたいからでしょう。しかし、1万件の遺跡はそんな思惑を否定しています。次に、②始まりは、後期旧石器時代、無土器・先土器時代、岩宿時代などと今の学校は、先史の明らかなことに比し扱いが曖昧で、英語で言っても国際的でなく、人を付ければ 先土器時代人など英語では 更に訳が分かりません。

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一つには、③ちゃんと大切な祖先、始まりの祖先の時代として認識していないおかしな問題です。例えば、27,000年前の石垣島祖人・白保竿根田原洞穴人について、世界の学生がいる教室で、これは何処の人骨かと訊けば、分かっている学生は「日本」と答えます。じゃあ「アルタミラの洞窟絵は」と訊けば「スペイン」と欧州の学生が少し誇らしげに答えます。こういう事に対し、その頃には、日本やスペインなど無かったと言って訳わかららなくするおかしな教授がいて、曖昧となりボヤけさせられて放置されているのです。世界先史考古学で金メダル級である、北部九州への家族での渡海、造舟・外洋操舟、 伊豆の海の行き来、磨製石器、陥し穴猟、環状キャンプ、釣り針などなど、初代の(日本)祖人Proto-Japaneseは分かっている方だし、当時としては先進の海民性ある原始人ではないのに、そこを言わずに原始的な狩猟採集民だったで終わらせているのです。そもそもフネを造り家族が外洋を渡海する操舟認知力は大変なモノであり、文化的な物も海辺・川辺の暮らしに木や骨などで作っていて残っていないのでしょう。それでは何故、そんなことがと言えば、隣国に比し島国であったので当時の豊かな先史が分かることと誇らしい先進の海民性がはっきりして、隣国の歴史が古い或いは日本へ伝えたと言っていること(自虐)が崩れる忖度からでしょう。

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どんな企業の社史も創業時代を見つめます。新たに分かって来たこれらの事、始まりの祖先の誇るに足る先史をしっかり子供に教え、世界に発信して誤解を正さねばなりません。

東大TVの世界現生人類移住史ルート図は、①日本列島に入った祖先が九州で止まっている(下図左上)のが、大問題です。

1万件の旧石器遺跡は、北海道に列島を北上し、九州から沖縄に南下したことをはっきり示しています。南北米の太平洋岸の最新の沿岸ルート説が折角認識されているのに、世界が注目する北・西太平洋の花綵(かさい、はなづな)列島ルートが無いのでは困ります。

今や、北海道からも千島列島へ北上した可能性(下図右上、前回説明)がありますので猶更です。

次に、日本(列島)史を論ずる際に、世界の人はもとより日本人もJomon、縄文と2代目からばかり論ずるのが大問題で、どんな会社でも初代創業から社史を記述します。中には、縄文人は何処から?と問う先生もいますが、2代目は日本列島に決まっています。また、江戸人と明治人も、世の中は大きく変わっていますが、人の中身はそんなに変わっていませんよね。世界の多くの国は4~1.65万年前頃のことなどそんなには分かっていませんが、幸いに島国日本は建設・発掘が多くそれが出来ているのです。書かないのはよく分かっていないからと言い訳されますが、豊富な旧石器遺跡は全く世界に類例なく、九州への渡海、石垣島人骨と屈葬、伊豆の海の行き来、磨製石器、環状キャンプ、陥し穴猟、釣り針などは先史考古学の金メダル級であり、縄文時代以前の日本始まり時代の事は、大昔としてはよく分かっている方なのです。つまり、説明できず議論しないのは、実は単に祖人Proro-Japanese、祖代という道具となる用語が無い だけ (明確な言語概念の無い者は、他に教えられず命令できない―欧州将軍名言)のことなのです(それとも隣国に遠慮しているのか?)。「後期旧石器時代人」なんて英語で見たことありませんし、世界は時代認識も多少異なっていますので、説明が大変です。そして、日本史は、祖代・縄文時代が93%の長い期間を占める基層ですから、人、文化・習俗・信仰など影響は大きく重要です。さあ、オリンピック、英語で始まり時代を説明し、世界の議論に参加して貢献を。子供に教え、日本が共同研究を主導し貢献を。

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マンモスに米国で見られるような人工の傷跡も付近に石器などの人工物も見当たらず、北海道の現生人類を対象に考えられる時代とも違い (10万年前など) ます。多くの北海道歴史記述本は、誤解の元で訂正が必要です。

これにより、石器の分析などから導かれる青森から津軽海峡を越えて3.5万年前頃には北海道に入って居た南方系の「祖人」Proto-Japaneseが、はっきりイメージできます。そして、②「最初のアメリカ人」問題で史界注目の「北部千島人」と関わります。明治時代に調査に当たった東京帝大助手の鳥居龍蔵を驚かせた祖代・旧石器時代後期のような‟遊動海民‟の暮らしぶりの「北部千島人」は、実は北海道大学の見立てとは全く逆で、オホーツク人とは最も遠い存在の祖・縄文人直系なので北から来たわけではないのです。千島の調査に当たったロシア人学者を驚かせたようにアイヌが住みついていた訳ではないのです。

更に③祖・縄文人系の北部千島人が、カムチャッカ半島の南端にも居住していたことは重要で、カムチャッカ中部のウシュキ遺跡(13,000年前)の墓の副葬品が北海道南の知内町遺跡(2万年前)と似ており、北部千島人が進出していてその後に大陸系種族・カムチャダールなどに半島南端まで追い込まれたとも考えられます。そうであるなら、北部千島祖人がベーリング地峡に行くのはもうすぐそこの事なのです。無論、鎌倉時代に北から入って来たアイヌ やそれ以前の モヨロ人 、オホーツク人、など北から入って来た種族は、 このような北海道先住民である祖人の太平洋沿岸北上の歴史には全く無縁で、④樺太から入って来たアムール川系集団のアイヌが、縄文人の単純な子孫でない(北大 天野教授)ことも認識する必要があり、地図でみるアイヌの歴史―縄文から現代までの1万年史 平山 裕人 (著) というタイトルは誤りと言っていい誤解の元です。子供に教え、世界に発信を。

右図沿岸をフネで17,000年以前アメリカ新大陸に入ったという新説です。北の海ではフネが水漏れして、あるいは操舟ミスで転覆して30分も冷海水に浸かれば死の厳しさで、シベリア狩猟族が造舟・操舟するのは容易な事ではありませんので、やはり太平洋岸種族が注目です。

右図まずは数十m以上の海水面の低下で、南方のスンダランドが出現し、日本に影響が大きい「北東ア平野」と「曙海」という状況、そして、北にベーリング地峡が出現して北極海の冷水がStopされて入り込まない「米臨海」は、正にハワイに繋がる海となり、親潮などに影響が。当時は氷河期だったので、シベリアには更に厳しく、太平洋正面は冷水stopで相殺であったか。沿岸の移住では、左図飛び石小島の千島列島Kuril Islandsが一番の問題でしょう。祖代には、①最大島間約77km、次いで60kmの海峡をフネで越えて北上し得たかですが、人類としては、オーストラリア行きに約90kmを越えていますし、そもそも祖人は、北部九州へ30~40kmを渡海して来ており、伊豆の海を行き来し、狭かったとはいえ津軽海峡を越えている海の民性がありました。何よりも次々に島が見えていたことは重要です。

さて、②北部千島を見ると、明治時代に調査に行った鳥居龍蔵が驚いた祖代・旧石器時代のような遊動する海人の暮らしぶりです。食料の得られる時期・場所にフネを操って島々を移動して暮らす人々は、北海道から北上した人々と考えられています。③遺跡としては、国後及び択捉島までの祖代・旧石器痕跡ですが、日本人研究者は不明ながら北部千島・占守島の2ケ所の遺跡について話があると報告していますので重要です。千島列島の考古遺跡の研究で調査に当たったロシア学者を驚かせたのは、④左図左上アイヌ(鎌倉時代頃、樺太から北海道へ進入)は千島列島に定住することはなく、交易品を獲りに来ただけであることから、アイヌではない千島列島人がいるという、別の種族の存在という問題です(別途報告)。

いずれにしても沿岸で暮らした人々の生活痕跡は、その後の海水面上昇で今は海面下ですが、右図米臨海の東・南のアリューシャン列島の⑤アレウト族の家は当時を窺わせますし、衣服や生業ももっと素朴でしたでしょうが、似たようなものでしたでしょう。そこの考古遺跡としては、1万年を越えず、また、東から西へ新しくなっており、何より西のカムチャッカの方からは420kmの海峡越えはムリでしたでしょうから、ベーリング地峡南部の東進ルートでしたでしょう。時代を経てロシア人が、アッツ島西の「コ」マンドル諸島に侵入し占領しましたが、アレウト族の暮らし振りに適応できず、全滅していることは注目です。大昔の人の方が、むしろ適応力があったのです。

寒さが吹雪が霧が激流が噴火が津波がと現代人は厳しい環境を指摘しますが、占守島から色丹に移住させられた北部千島人は、占守の暮らしの方が(遊動で)簡単に獲れる食料は豊富で、(病気もなく)よっぽど暮らしは楽だ、返してくれと言っています。今でも結構なロシア人が島暮らしを止めて大陸へ行っており、大昔の方が、むしろ北上し進入して暮らした可能性があったとすら言えるかもしれないことに留意すべきです。これらのことから左図右下、⑥4万年前から日本祖人が列島を北上し、北海道祖人がベリンジアに向かい、縄文人にバトンが受け渡された主たる流れ(青)に、鎌倉時代頃にアイヌが樺太の方の脇から入って来て(赤)アイヌ伝承のように先住の”コロボックル”が千島の方に逃げて行ったのが北の歴史なのでしょう。子供に教え、世界に発信です。

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