調べて①から⑤のポイントに自分なりの説明を付けて提出しましょう(先生が「へ~!」と言ってくれます)。

カムチャッカ半島が、①出発地と言われ、3~2万年前頃と考えられているのは何故? ②一時的な列島temporary archipelagoってどういう事? ③ルートン・遊動・海民って何?アイヌじゃないの? ④多種族って、今のどんな種族の人たちの祖先か? ⑤カムチャッカ半島からアリューシャン列島を、西から近回りはしなかったのか? 結局、沿岸から入って行った⑥「最初のアメリカ人」は、AとBの関りは不明ながら、Aが早くBの影響が強かったと考えられるが、いずれにしても、今、このような事を全く教わっておらず、世界もあまり認識していないAであるが、北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoが関わっていた可能性は十分あり、地域の日米露加の共同研究が望まれる。(答えのヒントはこのブログ幾つかの記事の中に)

号外 夏休み宿題の参考

カテゴリー: 最新情報

人類進化の旧人と新人の大きな違いは、新人が沿岸・川岸で魚介・海獣類をも食すようになった事でしょう。

多くの北海道史本が始まりとして記述する沿海州・樺太「北から南下して入って来た」は歪められた歴史です。

左図①3.5~3万年前に青森から北上した祖人が拡がりましたが、出アフリカ後に北上してシベリアを東進した現生人類マンモス・ハンターは、この時代に来れていませんでした。はっきりした痕跡は、②遠軽白滝黒耀石が北で発見されており、他方、北から細石器文化が伝わったとされていますが、「細」の名の通りマンモス後の石器です。③青森を北上した縄文時代の円筒土器は、積丹半島からなんと礼文島で多数発見されており、単なる交易ではなく北上した離島移住とみられています。そして当然乍ら、④山も川も皆名前があった環太平洋語族(元日本言語学会長 松本克己博士)の知的レベルであり、アイヌが命名したと言うのは子供に世界に誤解の元です。一方、先史の千島列島方面では、カムチャッカ半島からの南下痕跡はありません。逆にアイヌではない自称ルートン(人)の旧石器時代的な「遊動」海民が、カムチャッカ半島に進出していたとみられます。

時代はずっと新しいですが、露のディコワは北千島人のカムチャッカへの北上に着目し、岬、湖、沿岸の遺跡を精力的に研究しました。カムチャッカ半島で最も有名なウシュキ湖地域の遺跡は、13,000年前の古さで、石器にアラスカとの類似を見せ、また、北海道南の知内町遺跡(約2万年前)の墓との副葬品の類似性も言われる興味深いモノです。この北上の痕跡は、カムチャッカからの南下痕跡がないので重要です。プレ・アイヌの北海道祖人の沿岸族がカムチャッカ半島まで進出する海民であれば、アメリカ沿岸先住民の居たベリンジアは指呼の間で、右図⑤シベリア狩猟族が行けたと言うなら、ルートンは「行けなかった」と言う要素は何もないことですから、大変意義深いです。これらのことを学校は子供に教えず、世界に発信していないのは問題です。アイヌ・ウポポイの膨大な予算を、世界史的な意義を有するこの問題に関する日米露加の 共同研究にこそ投入すべきです。

②38,000年前に伊豆の海を東京諸島に黒耀石を求めて行き来したことは、石の原産地分析、関東東海で発見された遺物の年代分析ではっきりですし、伊豆東部から大きく見える大島迄約20km、当時の海流はおそらく北から、黒耀石の神津・恩馳島まで全てが見えますので謎でも何でもないのに、学校は教えず世界に発信しないのは異常です。

前回説明の出アフリカ族が、東南アジア・スンダランド地域に至り北上して環太平洋移住した海の民の痕跡は諸所に窺われます。なんと言っても数万年前の揺り籠の①洞窟に舟の絵を描いている、その操舟・造舟、描画の知的レベルは驚きです。そして、約90kmの海を越えてともかく6~5万年前に「急行」の豪行きです。当時の海水面の数十m上昇で陸地が拡がっていたパンカル海、曙海を北上して約4万年前に舟(筏)で北部九州に渡海し、沖縄へ南下し3.5~3万年前には北海道へ東進北上しました。注目は祖代・縄文時代の痕跡が窺われる③千島とカムチャッカを行き来した石器・土器・竪穴住居の「遊動海民」暮らしのルートン人(日本祖人系、13世紀アイヌより早くから)で、今後の更なる解明が期待されます。
はっきり海民性を残す、④厳しい北の海のスペシャリストでロシア人も兜を脱いだアレウト人は、少年から鍛える海での海獣などの漁、水を入れない縫製の舟造りなどが、正に第1級の海民です。

今、「最初のアメリカ人」先住民は北太平洋沿岸からというのが新定説ですが、⑤カナダ沿岸には海民の暮らしをトーテムポールと共に守っている人々がよく知られ、近くの動物を狩猟できるのにせずに海辺の暮らしを続けている種族もいます。また、⑥カリフォルニアのチャネル諸島では、大陸本土と異なる万年前の精巧な石器と暮らしが発掘され、一度も本土と繋がったことが無いので海の民の南下です。環太平洋は語族の共通性(元日本言語学会長 松本克己博士)の他、まだいろいろ紹介すべき内容があり、研究が期待されるこの現生人類移住史の重要ルートです。⑦フロリダ博物館には、海辺の民のはっきりした暮らしが残されていますが、世界の多くの沿岸では痕跡は既に海中です。この状況と海からの歴史視点を子供に教え、世界に発信し、共同研究に予算を投じましょう。

左上図森の猿は、①餌があり、天敵のいない安全、そして安定した陽気の「エデンの園」で問題なく暮らせていました。

しかし、気候変動によりアフリカが寒冷・乾燥化し、森が縮小して草原・サバンナが拡がると、木の実が減り、出た草原にはライオンなどがおり、容赦なく照り付ける直射日光にさらされるという激変に見舞われ、人類の必死に生き抜く適応が始まったと考えられています。立ち上がって様子を窺い、時に走って獲物を追い、猛獣などから逃げて木に登りなどしながら直立2足歩行するようになると、脳や手先の変化で石や棒などの道具を使うようになり、更に、直立は喉頭を後退させて「しゃべれる」構造へと体も生活も進化します。きびしい環境変化に迫られやむなく対応と言うのが学界の見方ですが、中には積極進取の種族もいたのではと思われます。他方、A動き回る発汗から、B水辺で暮らす種族に、C突然変異が男女の魅力をアピールする種族に、ということなのか、体毛の減少(160万年前頃)も注目すべき猿からの変化です。

人類は百万年、十万年という単位で徐々に進化していき、30-20万年前の現生人類からは特に進化が著しく、出アフリカ・アラビアを果たして図右、同緯度地域を海をも越えてオーストラリアにまで 急速に 拡がったことが理解できます。そして今、図右「最初のアメリカ人」が北太平洋沿岸から進入して行って急速に南米南端にまで達し、遥かに遠く見えない太平洋の島々に進出した現生人類史を観れば、原・旧人との大きな違いに気づきます。世界も特に我が国の学校の教科書も、「槍を持ったヒゲもじゃの毛皮パンツを付けた原始人」でなく、 ②水辺の暮らしから海辺に魚介を食す 体毛の少ない「新人」の集団の 平和な海辺の暮らしと海を越えた祖先の果敢な広海域の移住にもっと注目すべきです。子供に教え、世界に発信を。

前回、右図人類史における格段に認知力が向上した海辺の人への進化に着目しましたが、この海洋資源を利用する集団が初めて出アフリカを果たしたことにR.C.Walterなどは注目しています(Nature誌2000年)。

肝心の出アフリカは千人程度の話ですから、現下77億人への拡大を考えれば重要な視点です。今、「最初のアメリカ人」Nativesが北太平洋沿岸からフネで入って来たことが新定説化していますが、現生人類の初期移住史を俯瞰すると、「海民のビッグバン」と言っても許される側面でしょう。何よりも原・旧人との大きな違いは、①海洋資源を利用する集団による海を越えての「急行」と言われる豪までの拡がりであり、我々が知り得るものとしては、②ニューギニアへ約90kmの海を越えている事(フローレス原人も海を越えてはいるようですが)、③伊豆から東京諸島に3.8万年前という古さで黒耀石を採取に行き来し、④北の海で冬には30分浸かれば死という厳しい寒冷海域みおいて、生業を果たしうる操舟力と水を入れぬ濡れぬフネを造りうる技術力を有するに至っていました。

そして、⑤⑥新大陸に進入し急速に沿岸を南下し得たことです(沿岸の食豊な昆布ハイウェイKelp Highwayという環境にも恵まれましたが)。ずっと新しくなりますが、⑦東南アジアからアフリカ東のマダガスカル島へインド洋を渡海し、⑧全く島が見えないハワイやイースター島へ拡がっていることも、世界周航のクック船長を驚かせたモノです。オリンピックの機会に子供に教え、ご先祖の伊豆の海の “ 金メダル ” の偉業を世界に発信です。

現生人類は、左図1アフリカ東部が誕生地域と言われ、出アフリカ・アラビアでユーラシアに入り東進の沿岸ルートが注目されます。

更に30~20万年前の誕生以降では、左図下南アの海岸遺跡で発掘された海辺の種族が、16.5万年前から居住し、脳の成長によいと言われる魚介類を食し、赤オーカーでおそらく体などを彩色し、穴空け貝ビーズ装飾品を身に付けた格段に向上した認知力を示しています。これは森やサバンナにおける生きるだけと言っていい暮らしとは大きく違う進歩であり、サル、原人・旧人と決定的に異なるものです。そして、①このアフリカ南端と出アフリカの注目地バブ・エル・マンデブ海峡南域の遠く離れた人々にDNAの繋がりがあると発表されています。海峡は数万年前の氷期の海水面低下でも幅10km、最深50mは有ったとみられ、親子連れが歩いて渡ることは出来ませんでしたので、a.海辺で暮らしていた、b.認知力が向上した、種族だからこそ出アフリカしたと言えそうです。

他方、南ア海岸遺跡の種族は決して特異なモノではなく、600km北のカラハリ盆地の種族も鉱物やダチョウの卵殻を集める認知性を示しており、現生人類・新人の広域における着実な認知力進化があったことが分かります。一方、海辺暮らしに関しては、森やサバンナの猿やヒトの暮らしとの大きな違いがあり、また、②ヒトの体に残るサルと全く異なる体毛・皮膚、太り、耳・鼻、脳サイズ・しゃべり、未熟赤子生み落とし、水産物食、などから遥かに古い時代における水(海)辺種族のアフリカ北東部からの拡がりを言う学者もいます。いずれにしても、「海辺の人」と言うべき種族が、出アフリカ・アラビアを果たし東進して「沿岸」を、長距離の北上南下により南米南端まで、太平洋広域の移住史を残したと言えなくもありません。陸地ハンターと石器研究の先史に「沿岸」種族の暮らしに注目した深堀りの内容を加える必要があります。そして、右図日本祖史もそういう流れの中で理解せねばなりません。子供に教え、世界に発信を。

オンラインで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会は27日、17遺跡で構成する「北海道・北東北の縄文遺跡群」(北海道、青森、岩手、秋田)の文化遺産登録を決定しました。

今や世界の文明の一つに数えられる「縄文Jomon」ですが、実は日本列島史は約4万年前に現生人類が北部九州に渡海して来て始まり、日本祖人Proto-Japaneseが沖縄から北海道にまで拡がって、1.65(―1.3)万年前以降、(2代目となる)縄文人と呼ばれることになります。驚きは立派な教授でも「縄文人は何処から来たのか?」と愚問を発するほどの異常にお粗末な日本史理解の現状です。2万年間以上も列島文化の基盤を築いた日本祖人が、土器が現れた生活の変化から縄文人と呼ばれる事になったに過ぎず、何処からも何も2代目は日本列島からに決まっているのです。そして、今、世界の史界では、「最初のアメリカ人」Nativesが北太平洋の昆布ハイウェイKelp Highwayから入って来た新定説で、第2図701旧石器遺跡を誇る北海道の日本祖人が、また、左図米国北西部で発見された9千年前人骨のケネウィックマンで、縄文人の名(鎌倉時代からのアイヌは全くの誤解)が挙がって注目されているのに、学校は何も教えず、書店にこれらに関する1冊の本も出ていない異常な学界の状況なのです。子供に教え、オリンピックの世界に発信し、日米露加の協同研究を。

米スミソニアン博物館Douglas W. Owsleyなどのチームは、1996年に北米ワシントン州とオレゴン州境のコロンビア川畔で発見され裁判沙汰の大騒ぎとなった「ケネウィックマン」について、制約された条件の中で、頭蓋骨などほぼ全身がそろったモノの分析を続け、結果がスミソニアン誌に掲載(2014年)されました。

170cm、72.6kg、40歳で、驚きは肋骨が6ケ所も損傷し、腰骨には若い時代に打ち込まれた槍先の石器を残しながら、アラスカの方から480kmも離れたコロンビア川の方に交易で来ていたとみられ、自元の人々に受け入れられて丁寧に埋葬されていたようです。食が アラスカの アザラシ、トド、魚で、飲み水は高山の氷床が融けた水であり、コロンビア川人でないことがはっきり分かりました。更に、右利きで銛を扱って魚などを取っていたことや水に入っていた「サーファー耳」であることも分かり、顔相・頭骸骨(南方系長頭)からポリネシア人がイメージされましたが、直接の太平洋横断の渡海は有り得ず、縄文人、アイヌ(鎌倉時代に樺太から来た種族で本件には無縁が知られていない誤解)の名を挙げています。

そして、現代の先住民Nativesインディアン(主に内陸の無氷回廊通過のシベリア狩猟族系)と似ていないということは沿岸系であり、右図約4万年前の北部九州から北海道~千島・カムチャッカ~ベリンジアルートで早い段階で日本列島から入って行った祖人系またはその後の縄文系の子孫であることをうかがわせ、いずれにしても日本系をうかがわせる大変重要なものですが、全く学校で教えられておらず、巷間本にも見当たらない酷さです。子供に教え、オリンピックの世界に発信です。

*遺跡は、メキシコ地元の大学に(英)ケンブリッジ大学が参加し、あの科学誌Natureが報じていますので、トンデモとは言えません。

しかし、①これまでの考古遺跡を①1.5万年(倍)も遡るので衝撃であり、確かに石器が3万年もあまり変化がないのが違和感、狩猟されたり食されたりした動物骨の人工傷など、他に人の関与をうかがわせる物がないなど否定的な学者の意見も出ています。実はそのほかに3万年前となると、②学者が一般に考えるシベリア・ハンターのこの時代の進出北限とシベリア人跡未踏問題があります。北極海に面したヤナ川河口に3.2万年前頃のヤナRHS遺跡がありますが、一時的な単発遺跡とみられ、その後東方に移住を続けてベーリング地峡に達した連続をうかがわせる痕跡は全く無いのですから、メキシコどころの話ではありません。

では、原点の出アフリカから考えれば、スンダランドから東進を続けて豪州へ、③A北上して北部九州へ約4万年前に渡海して来たことが分かっています。インド北部・ヒマラヤ南方から内陸のA‘ルートを遺跡痕跡から挙げる学者もいますが河口から遡行した痕跡を連ねた線とも考えられるほど、河川山地の厳しい地形と猛獣大蛇に昼夜の寒暖などで出アフリカ黒人には大変なルートなのです。この時代は、内陸東進のBルートが無かったことが重要で、バイカル湖地域遺跡の人骨も東アジアのモンゴロイドの北西進とみられています。従って、A曙海沿岸を台湾山地から北上し時計回りに北部九州に来たA・A’の似たような人々が、「日本祖人」Proto-Japaneseとして沖縄に南下し(1.台湾から同様の種族だが、台湾痕跡はその後消された)、北海道に北上した日本列島圏の始まり時代の状況を、1万件を超える旧石器遺跡(2.特に黒耀石の採取と交易)が示し、北海道の遺跡は3.5~3万年前という古さの拡がりです。

更に、3.北太平洋圏は、食の豊かな昆布ハイウェイKelp Highwayに沿って、千島・オホーツク、ベーリング地峡南岸の「一時的な飛び飛び小島の列島状態」、今に残る北米・北西海岸の痕跡など、東南アジアのSundalandから太平洋沿岸を北上して日本列島~千島・カムチャッカ・ベリンジア・北西海岸と、重要な北海道が3.5~3万年前であり、一応3万年前メキシコも荒唐無稽ではない状況なのです。無論、海水面の上昇で痕跡は海面下、DNAは今の先住民に痕跡を伝えずという解釈ですが。つまり、700件の旧石器遺跡を有する人跡未踏でない北海道が、世界の日本の史界でしっかり認識されていないのです。この環太平洋の繋がりは、元日本言語学会長の松本克己博士の言語系統論により支持されているのにも拘らずです。子供に教え、オリンピックで世界に発信です。

アフリカで30-20万年前に誕生した現生人類は、認知力を着実に向上進化させていき、出アフリカ後の5万年前頃からの遺物に特に目立ち出して学界では注目されています。 各地に拡がった その一因は、1図鳥の渡りで、これを現生人類・新人が認知したであろうことは重要でしょう(当時の渡りの鳥種、ルート、態様に違いがあったにしても同様)。

原郷の東南アジアSundaland地域から北上しての北部九州への渡海と列島拡がりも、人類の北太平洋沿岸からのアメリカ新大陸への進出(食豊かな「昆布ハイウェイ」のお陰だけでなく)も、鳥の導きがあったお陰も重要と考えられ各地の伝承がこれを示しています。2図何故か日本では、世界現生人類史における北海道の重要性が等閑に付されています。700ケ所にのぼる旧石器遺跡が示す北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoの「最初のアメリカ人・先住民」との関りの可能性が今、世界の学界では注目なのです。子供に教え、オリンピックの世界に発信を。

1図人骨頭蓋を分析し人の近縁性を調べると、世界遺産の青森・北海道の縄文人は、①インドネシア・スラウェシ(旧名セレベス)島人が最も近く、②ミヤンマー・チベット・ネパールが次ぎ、何と③現代日本人よりそれらが近いという驚きの結果に先生方の解説は何も有りません。

しかし、既に本欄報告の右図のように、セレベスは出アフリカ後に東進した現生人類のインマレイドが北上に通過した原郷で何の驚きでもなく、ミヤンマー・チベット・ネパールなどもインマレイドが北上したか、一旦セレベス方向から大陸に入って行きその後南下したモンゴロイドに山岳地に追い詰められて古い痕跡を残していると考えれば不思議でなく理解できます。大陸北のモンゴロイド南下の混血影響を受けた③現代日本人よりそれら①②に近い理由も分かります。2図は、ブラジルの万年前の古人骨女性ルチアが、何と豪アボリジニやアフリカ系であり、また、アマゾン3古部族のDNAが、南・北アメリカ、シベリアなどの途中に全く見当たらず、やはり豪アボリジニ・ニューギニア・アンダマン諸島人などに近いという驚きの結果に、ハーヴァードの先生もやって来たんじゃないのと苦笑いの冗談コメントですが、太平洋のハワイ・イースター島などへの人類移住は紀元後の話ですから、アリエマセン。

しかし、これもセレベス系の北海道祖人Proto-Japanese Hokkaido・北部千島ルートン地域人とその子孫が、昆布ハイウェイ沿いに太平洋沿岸を南下して行ったと考えれば理解でき、同じ言語圏である(松本克己博士)ことも支持します。問題はこれらの事が子供に全く教えられず世界に発信されていないことで、人類史に貢献していないと言うより、もはや自由な論議の阻害になっています。オリンピックで抜本改善し世界に発信を、ウポポイ予算をこちらに。

図左約20万年前にアフリカで誕生した人類が出アフリカを果たし東進、インド・東南アジアの①沿岸・雨林生活で身体変化を生じ「インマレイド」(X)となったとみられますが、これを「古モンゴロイド」と学界が呼称しているは誤解の元です。

モンゴロイドよりもはっきりネグロイドに近かったでしょう。このインマレイドの北上が始まり時代の東部アジアであり、「A」と「移住困難ルートのA‘」があったにしてもいずれも南方系人が、②約4万年前に「曙海」時計回りで北部九州に渡海(多く旧石器遺跡と38,000年前の伊豆地域の痕跡から)して来て、沖縄へ南下、北海道へ北上です。そして③このA,A’の言葉が、環太平洋言語圏(元日本語言語学会長、松本博士)で、南北アメリカと共通性のあることが重要です。つまり始まり時代のA、A’系が、ベーリング地峡を越えた「最初のアメリカ人・先住民」関りを示しています。これらの事と同時に、④出アフリカ後に北上し、シベリア南部を東進した種族がアジア東部にまで至った継続的な痕跡が無く、北部九州への渡海に関っていない事を示しています。このように初期の東アジアに人類が拡がった後、図上Y:降雪寒冷に適応し、身体変化したモンゴロイドが生まれていきました。

そして始まり時代が終わると⑤ 日本の北と西から大陸の細石器文化が流入し 、「モンゴロイド南下」は やがては東南アジア地域にまでの長期・広域の大影響です。但し、日本史で は人の大きな入れ換えはその後も無かったと考えられています。この始まり時代約2万年間強の「祖代」と縄文時代は、列島文化の基層と言えるもので、習俗・信仰等を形成し、その後流入してくるモノの取捨選択に影響を与えたと考えられます。これら人類史、日本先史を踏まえて図右Martin線で、a.マンモスとb.狩猟族ハンターとc.北海道の歴史の関係が明らかとなり、旧石器遺跡の状況からも青森祖人の北上と拡がりが北海道の始まりであることが明らかです。そして、北海道祖人の北上継続でd.北部千島ルートン地域人、e.「最初のアメリカ人」関りなどが、今、注目なのです。この北海道の始まり史、特に北海道祖人・ルートン地域人のアメリカ先住民Nativesへの関り可能性と辛苦の北海道開拓史が重要なのです。子供に教え、世界に発信を。


1図P.Martinの研究は興味深く、「最初のアメリカ人」に関わる時代のシベリアにおける動きを明らかにしています。

2図に拡大していますが、マンモス・ハンター(狩猟族)の活動の北限とマンモスそのものの南限が線で示され、極北は出アフリカの新人が進出し得ておらず、ハンター無し地域になっています。実は東部シベリアの北極海に面した地域には、ヤナRHS遺跡(32,000年前)がありますが、一時的なモノとみられていますので、Martin の認識でよいでしょう。他方、シベリア居住の有名なマリタ遺跡(23,000年前)では、 Mattewsによれば 実は発掘の殆どがトナカイの骨であり、マンモスは数%ですのでマンモス・ハンターと言うのはミスリードです。常に実証慎重を強調する学者先生が、何故か北海道史の始まりを北からマンモス・ハンターが入って来て歴史が始まった ように印象付け記述しているのは問題です。 マンモスは、数少なくずっと古い物と認識すべきで、「マンモス・ハンターは来なかった、青森祖人が狭くなっていた海峡を越えて北上して来て拡がった」とはっきり訂正すべきです。

すると2図では、「一時的列島」(Temporary Archipelago:米伊3大学研究と命名)から1.7万年以前に、フネで入って来たと考えられているために、「誰が」青点線の沿岸をベリンジアに北上して行ったのかとなります。図右のA.次々に食豊かな島々が見えた千島を北上したルートン遊動海民(北部九州への渡海、伊豆の海を行き来した祖人の子孫)、B.シベリアからカムチャッカ南部に進出していた可能性あるハンターが沿岸暮らしに切り替えて北上、C.海民とハンターの混合が考えられますが、いずれにしてもルートン海民の造舟・操舟のノウハウは重要だったでしょう。ルートン地域人の研究が重要な所以です。3図は、「最初のアメリカ人」の検討で、シベリア、アラスカの関連遺跡が各々十数ケ所というレベルに対し、700ケ所の北海道が軽視されている現状は日本学者の問題です。そして、ベリンジアによって北極海の冷水がSTOPしていたので、「米臨海」は正にハワイに繋がる海であった事も、シベリア寒気の厳しい氷河期のこの時代の検討に当たり重要な事です。子供に教え世界に発信し、国際共同研究で解明すべきです。


世界(新)人類移住史の最後の謎「最初のアメリカ人・先住民」First Americansは、大きな話題で研究も新たな内容が続々と出ています。

①1図では、これまでの議論の内容、どういうルートが論じられて来たのか、現在はどれが有力かと丁寧に説明され、沿岸説を支持しています。②生徒もアメリカ先住民の歴史という事で学んでおり、サイトでは近年の新たな発掘遺跡が紹介されています。特に、学界に衝撃を与えたのが赤丸南米モンテ・ヴェルデの14,500年前の遺跡です。と言うのは、③シベリアからベーリング地峡を南下して氷床が融けた「無氷回廊」から米国に拡がったという定説よりも古い遺跡だからで、北米でもいろいろ発掘されています。融けても草木が生え動物が動き人がそれらを食しながら移住できるようになるのは、早くて13,500年前くらいだろうとみられるからです。そうするといろいろなルートを検討しますが、やはり④北太平洋沿岸ルートが浮上します。⑤最新の研究でもベーリング地峡南岸には、当時の海水面低下で小島の連なり(temporary islands)が出来ており、その小島伝いに、昆布ハイウェイ沿いに東進したと考えられています。そして有力な理由が、⑥食豊かな「昆布ハイウェイKelp Highway」であり、魚介類のほかに海獣、鳥・卵などが豊富なしかも獲ることが簡単な処女地があった事です。

こうなると、⑤それまでのシベリアのみならず、沿海のアリューシャン列島と千島列島が注目され、それまでと違って図を見てもちゃんと来れそうなモノになっています。アリューシャン列島の遺跡は東から西への移住を示しており、カムチャッカの方から渡海するなら約400kmですので当時はムリだったろうと思われ、米国の学者には「北海道」を指摘する者もあらわれて来ています。ルートを更に検討すると、⑦図の青森~北海道から北上の祖人系「遊動海民」である「ルートン(占守島)地域人」(アイヌではなく、オホーツク系でもない)が注目されます。祖代(旧石器時代)・縄文時代のような暮らしぶりで、明治30年代に調査に行った鳥居龍蔵を驚かせた人々で、今、考えればアイヌ伝承の北へ逃げた小人「コロボックル」を思わせます。最初のアメリカ人問題は、実は始まり時代の日本問題であることがよく理解されていない周回遅れです。子供に教え世界に発信し、関係国の共同研究をという事です。

次のページ

前のページ

↑トップへ