アフリカ発の長頭は、「現生人類」が正に生まれた出現の痕跡を感じさせます。

猛獣が跋扈する地上で暮らさざるを得なくなり、左図、危険を察知し食べ物にありつくには音より臭いより遠く近くがよく見える目情報が重要で視線を投影する後頭が拡がり、他方、獲物をさっと取って身をかわし逃げる動きのすばしこさのための小脳が拡大して後頭部が大きい長頭となり高機能となりました。問題はこの事が出産を困難にし、その母子への危険を増大させました。未熟児は弱いですから、10ケ月十分にお腹で栄養補給が必要ですので、生まれる頃には大きくなります。先ず長頭を上手く縦にして通過させたら、肩を通すために90度回して通りやすくしないといけませんが妊婦が自分ではできず手助けが必要です。生まれても他の動物のように立ち上がったりするわけもなく、長い間の給餌が必要ですので夫婦親族が関わります。愛情を注ぎ協力して子育てし、また、妊婦が生もうとなった種族が高機能の頭を持って生き残り繁栄していきました。アフリカを出た黒人で、東進し東南アジアに至ったグループは、氷河期でしたが温暖な気候に恵まれ、熱帯雨林・草地、マングローブの海川辺や山麓などの多様な環境の中、インマレイド(例:マレーのSemang族)に変化し、豪州へフネ・筏で、北上し日本列島祖人を経た痕跡は離島である北千島の留頓(ルートン)にまでも見られます。これを欧米先生が新旧区分のモンゴロイドと称したので訳が分からなくなっており、「最初のアメリカ新大陸人」(First Peopling American Continent)問題の有力候補はインマレイドが変化した「北インマレイド」であって、新旧モンゴロイドでは正しく認識できず、表現して議論も出来ません。

さて学界は、右図、出アフリカ直後から北上した黒人が、その後東進してどのように東アジアに関わったのか、どのように黒人は変容していたのかよくイメージを与えていません。一方、東部アジアでは、DNA分析や考古学の知見から、豪州への早い段階での人類のフネ・筏での到達が確認されており、東南アジアからインマレイドが北上し、亜熱帯を越えて裸ではとても暮らせない時節がある大きな環境の違いに適応(3=4万年間)して「北インマレイド」に変化したと考えられます。更に北上を続け、シベリア南地域において北上黒人系の西からの種族も加えて寒冷・寒風・降雪の厳しい環境に適応し、凹凸・開口の少ない頭部やがっしりした体つきなど大きく身体を変化させて諸特徴を挙げられるモンゴロイド化(2.5-1万年前~、Dr. Howells Harvard U.)しました。そして今度は、そのモンゴロイドが南下して東南アジアにまで至り、今もその影響は拡大し続けています。過高断面的にこれを評すれば、モンゴロイドに成るのに東西混合の二重性が、また、インマレイドが北上しその後南下した、ローラーが上下に2度、往復でかけられたような二重性が指摘できる東部アジア人の認識すべき構造です。巷間よく日本人の二重構造説などと何でも大陸・半島からと言いますが木を見て森を見ておらず、東部アジアのこの大きな構造認識が基本なのです。これ等の事が、実は世界人類史のFPAC問題に関わる重要な事であり、 北インマレイドが重要な 生活習俗・言語の基底 なのです。新旧モンゴロイドの用語では 、この中間的な状況を適切に表現できず、曖昧で正しく認識し得ず誤解も。 細部は次回説明です。教室に、世界に、そして国際共同研究を。


図右上、アジア人類史の基本が混迷している原因は、ジンギスカンに心底驚かされた欧米先生が、み~んなモンゴロイド(新旧)と命名したため分からなくなっていますが、南方系インマレイド、北上した北インマレイド、寒冷適応で身体変化したモンゴロイドで分かります。

出アフリカ東進で沿岸や熱帯雨林などの暮らしの環境によりスンダランド地域で変化した「インマレイド」が、北上し亜熱帯環境を越えて寒さのある北に入って「北インマレイド」に変化し、また、シベリア南において東西から進んだ人類は、 万年後には 寒さ・風・雪の厳しい環境に適応してモンゴロイドに大きく身体変化しました。日本人の祖先・祖人Sojinは、「曙海」の畔・「北東亜平野」沿岸(朝鮮半島は無く、大陸から来たは誤解です)から家族渡海し、列島中に拡がりました。今、米ニューメキシコ2.3万年前の足跡発見で、人類史最後の謎である「初期アメリカ新大陸移住史」(FPAC)論議の定説が崩れ、行き着いた南米に注目でDNA分析より太平洋沿岸民の類縁性が指摘されています。ここで近年研究が進む北アマゾン奥地の孤立Yanomami古族と、人類史の日本列島ルート上の注目地域である北千島の海民・留頓(ルートン)が似ていることが驚きであり納得です。人類史の原点はアフリカで、絶対ではないですが注目すべき一つに長頭・短頭問題があります。米ハウエルズ教授が指摘したように、モンゴロイドは、発見された米足跡に至ることは有り得なかった2.5-1万年前出現と新しく、長頭の北千島・留頓は、アフリカ・北インマレイド系であり、万年を超えるヤノマミ族もモンゴロイドではないでしょう。北インマレイドの沖縄・石垣島祖人―海民・伊豆祖人―北海道祖人―コロボックル・留頓―「モンゴロイドでない北インマレイド系の南米・古先住民」の類縁性に驚くこともなくむしろ納得するのが最前線です。

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この事をしっかり認識しないDNAランダム・平等サンプリングは深層・真相に迫れず、むしろ誤解を生むので要注意と主張しておきます。教室に、世界に、更なる国際共同研究を。

右図下、北米での2.3万年前の足跡発見で初期アメリカ新大陸移住史FPAC問題の定説は崩れ、行き着いた南米に光が当たり、太平洋岸のKelp昆布Highway及びDNAのミトコンドリア(母系)ハプログループDが注目され、既知の古い14,500年前の(チリ)モンテ・ヴェルデ遺跡などと相まって、舟で南下して来た説が強まっています。

そこで、3.8万年前からの海民・伊豆祖人のフネでの活動、日本と南米のDNA―mtDの類縁性、北海道・千島列島を通ずる昆布ハイウェイ沿岸での暮らしの共通性などから北海道、日本列島北上ルートの移住説図が登場して来ています。但し、欧米に見られるカムチャッカからアリューシャンへのルートは、コマンダー諸島~アッツ島間が330kmであり3万年前頃の家族渡海はムリでしたでしょう。千島列島は、次々に島が見え最大の最大離隔距離は約80kmですが、冬季には流氷の接岸で歩いて行ける状況でもありカムチャッカ半島に行けたと考えられます。左図、そこで注目されるのが北千島の遊動海民・留頓(ルートン)で、明治32年に現地調査した鳥居龍蔵が「余程古い」とし、後に師である坪井正五郎のコロボックルCorobocle説を認めたものす。坪井東京帝大教授は、西洋科学を導入して間もない明治維新の時代に、皇国史観の縛りの厳しい中にあって、コロボックルと称することで祖先の歴史の探求のための北海道調査を行い自由活発な議論を推進し、初めて実質的な縄文遺跡図を作り上げたことは高く評価されます。また、鳥居龍蔵は北千島のみならず南米調査も行っていますが、シベリア東端・ベリンジア西端の海岸遺跡(竪穴、石器等)をチュクチ人(海岸と陸地の2種)がオンキロンと呼ぶおそらく彼らの祖先の痕跡である点に着目し、重要であって心すべしと言い置いているのは驚くべき慧眼です。

右図、既に米ワシントン大Dr. Fitzhughが、北千島における6千年前の縄文痕跡を報告し、北海道大・高瀬克範は実はカムチャッカ半島に留頓が進出していた痕跡があり、むしろそちらが主体であった事を明らかにしましたが、自称の「西の人・ルートン留頓・モングル」の所以であったことが分かりました。また、北千島を実視したH.J.Snowが留頓の舟を伝えていますが、大木が得られない地での流木利用の舟は興味深く、昆布ハイウェイ説関連の重要な遺物として注目されます。このような中で、馬場脩(おさむ)が昭和8・1933年から昭和13・1938年まで5回にわたり北千島の継続した現地調査を行っているのは偉業であり(北大も調査)、今、その大量貴重なコレクションは注目すべきものです。他方、留頓については、形質情報の他に、人骨の存在が知られており、また、子孫は日本はもとよりカムチャッカ半島、極東から東欧にまで存在していることが知られていますから一大プロジェクトでの調査研究が期待されます。人類史、日本史の解明において、内外の文献を含めたこれらの総合的な研究が今求められているのです。教室にこの状況を知らしめ、世界に発信、総合的な国際共同研究を推進すべきです。

結論的に、今や人類史人類史最先端の研究は日本史最先端の研究にも成って来ています。考古学は関東ローム層の下に、無いと思われた人類の痕跡を3.5万年前の“岩宿層”に発見し、その後の新たな発見に幕を開きました。そして近年、3.8万年前の伊豆の海における黒耀石採取のフネによる活動を、3.7万年前の長野の高地における高い認知力を示す多様な石器群を、北海道・白滝に当時の膨大な宝脈・黒耀石と人工の遺物が発見されて国宝指定に答申され、昨年も帯広で1.5万年前の黒耀石器がザクザクと発見されています。

一方、静岡・浜北では岩宿層・祖代と次代の縄文層の人骨発見による繋がりが明らかになり、これらから約4万年前の「曙海」の畔から北部九州へ家族が渡海した始まりから、沖縄へ南下し陸奥・青森を越えて北海道に北上して拡がった列島史が見えてきました。他方右図北米ニューメキシコにおける2.3-2.1万年前の足跡発見により、人類史「初期のアメリカ新大陸移住史」(FPAC : First Peopling of American Continent-単数)が、数千年遡る事となりました。1.3万年前頃のクローヴィス文化による始まり定説のみならず、全ての北米における既発見遺跡の意義が薄れて、行き着いた南米遺跡が注目されることとなりました。そしてDNA分析によってアジアと南米のつながりが明確になって「何処から論争」に一応の終止符が打たれると共に、舟で南米に南下した始まり説、太平洋岸Kelp昆布ハイウェイ説の登場で、日本と南米のDNA類縁性も注目されることになっています。ここで、これまでアジア(人)=シベリア(人)で終わっていた「何処から論争」は、ベリンジアからアラスカに至るシベリアの東端へ「誰が、何処から」が問題となります。米イリノイ大の研究で、カムッチャッカ半島及びアムール河口・北部樺太の人々は新着の種族であるとみられ、その深層が注目されることとなっています。

太平洋岸ルート説は、既に北海道、日本列島にまで延伸されたものが歴史動画に登場して来ていますが、右図千島列島の北端である占守島には6千年前の縄文痕跡が報告されており(米ワシントン大Dr.Fitzhugh)、また、明治32年の鳥居龍蔵の北千島現地調査から「余程古い」石器使用の遊動海民である留頓(ルートン)の状況が明らかになり、その後、人々は北に逃れた伝説の「コロボックルである」(大正6年)(Corobocle)と巷間の誤った認識を正し、師であり日本人類学の祖である東京帝大・坪井正五郎説の正当性を回復しています。気候や火山の爆発などで環境は厳しい千島列島ですが、処女地の昆布ハイウェイで海獣・鮭・海鳥卵・昆布などの食は豊かでした。次々に島が見えていて最長離隔距離は70-80kmですがフネで行けない距離ではアリマセンし、冬季には接岸の流氷で歩いて行けたと考えられます。重要な事は、近年の研究で留頓はカムチャッカ半島南南部に進出していたことが明らかになり、むしろそちらが主体であって北千島は西であり、正に留頓Routon「ルートンモングル(「西に住まえる人」の意)」であったことが明らかになり(北海道大 高瀬克範)ました。従って、イリノイ大の研究と合わせれば、深層では留頓・祖先が更に北方に進出していて新来のイテリメン・カムチャダールに圧迫されて南下して来た事が推測され、大昔のベリンジア関わりも視野に入ってきます。因みに、歴史動画では第1級の北の海民アレウト族に惹かれるのか、カムチャッカからアリューシャン列島ルートになっていますが、コマンダー諸島からアッツ島へは330kmで人類の家族での初期移住はムリだったと考えますし、ア列島の遺跡の発見からも東から西に拡がったと考えられています。

この点で鳥居龍蔵は、シベリア東端の沿岸民の祖先オンキロンのモノだと言われた竪穴・石器の海岸遺跡に注目すべしと言い置いていますが、驚くべき慧眼の指摘でした。さてこれらの事を踏まえ、近年のDNA分析による左図ミトコンドリア(母系)系統図は、時間的に祖人Sojin/縄文人(Jomon)を、場所的には北海道におけるコロボックル・留頓、北海道ヤマトを加えれば日本史版となり、愛知・伊川津縄文などのDNA分析が強化した南方共通性を主体にユーラシア内陸共通性が加味された特性を有する南方系説、ラインが異なるアイヌに「先住」を付した国会決議に対する内外の疑問がよく理解できます。米ニューメキシコ足跡で人類史の定説が崩れ、今や、世界人類史の最後の謎であるFPAC問題の探求は、日本史の始まり時代から現代に至る北方史の状況の解明が重要であり、人類史に日本史が絡み関わって今後の更なる探求が課題になっているのです。周回遅れの教室で論じ、世界に発信を、です。

米イリノイ大の世界mt(母系)グループ図右の南北アメリカ新大陸の状況は、北米ニューメキシコの2.3万年前の足跡発見によって「初期のアメリカ新大陸移住史」(FPAC : First Peopling of American Continent)問題が数千年遡り、これまで発見されている1万数千年前以降の北米遺跡が色あせ、①行き着いた南米が注目されます。

そのことで本ブログ既述の、1.移住がアジアからであることがはっきりし、2.南米へは太平洋沿岸を舟で南下した、更に北のアリューシャン列島からであると言う説が広く認識(3万年以前のロッキー無氷回廊通過説も登場)されてきています。特に青Dグループが、発見最古釣り針の日本と類縁性があり注目され、この点で、②本州の東西が合流した陸奥平野時代の青森から狭かった津軽海峡を北上した3.5万年前後からと言われる北方史は、最近も帯広で1.5万年前の石器がぞくぞくと発見され、また、祖代Sodai遠軽町白滝の黒耀石が国宝指定答申され、これらに繋がる北海道・北東北の世界遺産である縄文遺跡など重要です。更に北を見れば千島列島は次々に島が見え、冬季には流氷を歩いて渡ることも出来たと考えられ、「Kelp Highway 昆布ハイウェイ」と称される処女地の食の豊かさがありました。米ワシントン大Fitzhugh教授の指摘した千島北端の占守島に縄文前期より早い痕跡があることと共に、東京帝大の鳥居龍蔵がアイヌより余程古い、伝承のコロボックルであると恩師である日本人類学の祖・坪井正五郎説を認めた(大正6年)北千島の石器と流木舟使用の遊動海民である「留頓」(ルートン)は、実はカムチャッカ南南部に痕跡があり、むしろそちらが主体であった(北大 高瀬克範)という正に自称の種族名である留頓に相応しい「西」である占守の人であったことが明らかになっています。

しかしながら、米足跡で定説が揺らいでいる今も欧米学者は、シベリア狩猟族が来たとイメージしているものとみられます(太平洋沿岸ルートは舟に切り替え)。他方、mtグループ図を見ると③カムチャッカ半島のイテリメン・カムチャダール族は、周囲にも東端チュクチや何よりアメリカに全く見られないハプロG(ハプロD、Bよりも新しい東アジア発)主体であり、新しく安住の地を求めてシベリアの方からやって来たことを窺わせ、ニヴフのN9-Yも同様で、カムチャッカ半島、樺太北部・アムール河口は、北東部ユーラシアにおいて他と違う独特のモノで興味深いです。このことから、カムチャッカに居た留頓・祖先は、イテリメンなどに圧迫され後退したとも考えられ、北海道祖人Sojinの北上ルート痕跡を蓋って見えなくしているようでもあります。カムチャッカ半島には、1.5万年前のウシュキUshki湖畔遺跡があり、アラスカと石器の類似性が指摘されてシベリア狩猟族のアラスカ拡がりとして欧米で受け止められてきましたが、FPAC問題が2.3万年前に遡った今、その意義の見直しが必要でしょう。そして北に注目した鳥居龍蔵が、シベリア東端の海岸に石器人的オンキロン( チュクチの祖先、 ベリンジア西端) が残した 遺跡に注目すべしと言い置いたことにも光が当たります。

チュクチはトナカイ狩猟族的ですが、実は海岸にも依然としており、内陸チュクチもともかく海獣を平素食することを強く求めていますので海岸から内陸の暮らしに移行したと考えられるので注目されます。これ等の状況がよく欧米に伝われば、北海道祖人の北上ルートは更に注目度を増すことでしょう。教室に広め世界に発信を。

Peopling of America, Kelp Highway route from Hokkaido!

NA Footprints changed paradigm. ①South America‘s blue mt-D by boat, ②Aomori-Hokkaido-Chishima, Jomon artifacts and Routon Tribe in Kamcatka, ③New people pushed ancient Japanese back?

沿岸移住説が盛り上がりを見せる中、①アンダマン諸島人DNAの類縁性で北京・田園洞人、日本の祖人Sojinが注目される南方系ですが、アメリカ新大陸で太平洋岸を南下という事で更に海民性に関心が向いています。

この事から、沖縄南城市のサキタリ洞窟遺跡で発見された2.3万年前の釣り針に光が当たっています。人類がいつから魚を釣って食していたかは論議されていますが、東チモールのジェルマライ洞窟遺跡では4.2万年前に外洋魚を食していたので釣っていたと考えられていますし、米カリフォルニアのチャネル諸島遺跡でも1.3万年前に釣りがあった痕跡が発見されています。②3.8万年前の伊豆の海での行き来は、最古の生業操舟です。③仙台では海獣・海鳥を食していたと考えられ、東西が合流した青森・陸奥平野から狭かった津軽海峡を越え3.5万年前後に北海道に適応して北上を続けたことでしょう。少なくとも千島北端・占守島の縄文痕跡(6千年前)がそれを窺わせます。➃近年発掘の長野高地遺跡の多様な石器は、約4万年前に北部九州~伊豆、長野、沖縄へと祖人の拡がりを実証し、実は近傍の湯倉縄文人が古いミトコンドリアDNA(母系)-D4hで、青森下北・尻労安部縄文人が類縁なのですが、アメリカ先住民とも類縁なのです。静岡浜北祖人は縄文人に繋がっており、近傍の伊川津縄文人と繋がり、下北、千島北端と縄文繋がりという訳です。北千島の「余程古い」(鳥居龍蔵)遊動海民の留頓(ルートン)はカムチャッカに進出痕跡があり、むしろそっちが主体だった事が分かっていますから、更に北上していた可能性があります。アメリカ新大陸移住が太平洋沿岸南下という事になれば、考古学的、DNA的なこれらの繋がり関連性は、大いに注目されます。先ずは教室で教え、世界に発信です。

新入生の皆さん、教室だけではない教育探究型(文科省)の時代には、研究最前線を見てみよう。世界人類移住史の最後の謎である最初のアメリカ新大陸移住問題は、米ニューメキシコWhite Sands における2.3-2.1万年前の足跡発見で歴史を数千年遡らせ、実験考古学が巷間みられる数人が大槍を手にマンモスに襲い掛かる図を否定して、「誰が・いつ・何処から・どのように」の定説が揺らいでいます。

既にYouToubeの歴史動画においてはカムチャッカ半島から「米臨海」を経てアラスカ入りし、太平洋沿岸を南米南端まで南下した図は出ており、多くの研究者が最初の進入は太平洋沿岸と考えるようになっています。そうした中で、当ブログ提唱の環太平洋移住(MPOR: Migration along Pacific Ocean Rim)説と同様の南方系北上の日本列島通過ルート図が、図右Dr. Barnhart による歴史シリーズの「最初の米新大陸移住」において遂に登場しました。博士は、確たることは未だ言える段階でないが個人的には沿岸移住仮説を支持としています。また、南北アメリカにおけるミトコンドリア母系DNAの、欧州には見られないハプログループD1の状況を橙着色で示して明確にアジアからだと主張しました。ところが実は、このD1の上位はD4であり、日本人において最も多く、特に色が濃い南米アマゾン、行き着いたパタゴニアと同類性があることが重要で注目されるのです。左図①当時の地形の状況は曙海と北東亜平野の時代で、南方から北上して来て曙海沿岸から対馬海峡をフネで家族が越えて来たことになります。興味深い事は、現在は大陸側と認識される北京近郊で発見された田園洞人が淡水食であったことで、狩猟族ではなく曙海から遡上した海民とも考えられる事です。また、巷間の日本人祖先は朝鮮半島から来たと言うのも、そもそも当時朝鮮半島は無く、曙海北沿岸から来た海民でしょうと言うのが正しいです。

②列島の祖史では、3.8万年前に伊豆の海を越え(25km)て神津島(恩馳含む)の良質な黒耀石を求めて行き来していたことが特筆されます。朝日新聞が謎と報じたためか教室で語られませんが、既に対馬海峡を家族で渡った子孫であり、当時の海水面低下による陸地拡大のより短い距離を、屈強な男だけで黒潮分岐流の無かった時代に渡ることは謎でも何でもありません。そして、造舟・操舟の能力、長野の高地に進出して多様な石器を残していた知力を窺わせる遺跡があり原始人ではなかった状況が注目されます、また、静岡・浜北で祖人骨、縄文人骨が同一遺跡の下上層で発見されていることは、現代にまで至る人の断絶無い「繋がり」を窺わせる重要なことです。③北部では、大雪は降らず陸奥平野があり、仙台には海獣がいて食豊か、北海道史は3.5万年前後で巷間言われた北からのマンモスハンターの痕跡は無く、青森から竜飛・大間を越えて道東ゲートウェイから北上を継続、北部の遠軽町白滝に国宝答申の出土石器を残し、昆布ハイウェイを北の「米臨海」に向かったことでしょう。ここで認識すべきは、➃当時は未だモンゴロイドは登場(2.5-1万年前、Dr.Howell 米Harvard大)しておらず、南方のインマレイドInmalaidが北上し亜熱帯線を越えて変化した「北インマレイド」、即ち石垣島祖人のような人々が列島と地域に拡がっていて、氷河期の北の暮らしにも適応したものと考えられます。最後に、⑤教室では、(後期)旧跡時代~縄文時代~弥生時代・・・ですが、旧石器時代の用語使用は問題です。世界では、旧石器時代は250万年前くらいからであり、後期旧石器時代も始まり5や3万年前、終わりの新石器時代の始まりは1.2や1万年前と日本とは全く合いませんから(実は世界の新石器時代の磨製石器は、日本では3万年以前から)、英語にすれば誤解の元です。

教室の議論では、後期旧石器時代人と言うたびに舌を噛みそうですし、縄文、弥生、・・・江戸、令和と全く合わない違和感です。祖代研究会SGPJでは、既に有名で世界に定着しているJomonに倣って祖代Sodai、祖人Sojinを提唱しています。縄文時代の始まり時期論議を一応決着させ、分かり易く世界に誤解されないJomonのような日本の固有用語とすべきなのです。今や世界人類史にとっても日本理解は必要で、そもそも日本史の重要な始まり原点である祖代が教室で活発に語られないのは問題であり、用語に一因があります。

YouTube歴史シリーズ動画の標題写真は、①これまでのマンモスハンターがベリンジア「陸橋」を行くものではなく、海と舟と海民です。説明のBarnhart博士は、②DNAの分析と③考古学等の分析の両面から迫っています。

DNA分析では南北アメリカ橙着色図のように、広く見られかつ古いミトコンドリアDNA(母系)のハプログループD1に注目しています。D1系は、現生人類がアフリカから出てアジアに至りアメリカへという事で欧州には見られず、発生・出アフリカL3から下位に枝分かれして、M-D-D4-D1となります。数字の少ない方が先・親なのは奇妙ですが、米先住民の研究で命名が始まり1,2としたために、左図のように古い方が逆に数字が大きくなっています。そして博士がD1を示している理由は、アメリカで議論になっている「米先住民は、アジからか欧州からか」を強く意識しているためなのです。図がはっきりアジアを示している、即ちアメリカで広く見られ古くかつ欧州には見られないDグループだ、明瞭にアジアからだと言う訳です。ところがこの事は実は左図で分かりますように、上位はD4であり日本で最も多い型なのです。そして、色濃く多い南米の秘境アマゾンやパタゴニアと日本には同類性があるという注目すべき重要な事を示しているのです。他方③の考古学等では、米西海岸・カリフォルニア沖合のチャネル諸島が、かつて海水面が低下していた時代には1つであり、本土から26マイルの海を隔てましたから、人類が舟で渡ったことが分かり、ピグミーマンモスの居た時代である13,000年前の米最古の人骨アーリントン・マンは、発見された石器が同時代の本土内陸で広くいきわたっていた有名なクロービス石器とは違うタイプであり、これらの事から狩猟族とは暮らしぶりの異なる海民だったことが窺われます。

博士はこの事を新大陸進入が2系統であった可能性を考えているようですが、ニューメキシコでの2.3-2.1万年前の足跡発見で、遥かに古い時代に沿岸の海民が内陸にも拡がり、長い間に内陸の暮らしに適応していったとも考えられます。足跡時代から1万年もの期間が有りましたので。他方、南米での最古遺跡であるモンテ・ヴェルデは川筋で海岸のそばではないですが、20種類の海藻を食していたことが分っています。狩猟族系の欧米人には海の雑草sea weedであり、好んで食す人々とは違いますから、モンテ・ヴェルデ人は海と関わりがあった海民系であることを示しています。そして博士は確定的な事は未だ言えないとしながらも、これらの事と日本や豪州へは人類が舟(筏)で渡海しており、個人的には沿岸ルート仮説と思うとされ、南方北上系の日本ルート図を出しています。なお、博士の図ではアリューシャンへ東進するルートですが、カムチャッカ半島東のコマンダー諸島からアッツ島への家族で300km越えはムリだと思われ、また、遺跡は東から西への逆の拡がりですから、「米臨海」北回りルートに修正すべきでしょう。いずれにしても、世界人類移住史ではっきり南方系の日本通過ルート図は初めて見ます。➃図参考のゲートウェイである北海道、舟の行き来や古人骨の静岡、沖縄など各地の日本列島史実がこれを支えるとともに、日本の状況を世界に発信すべきです。



なお、Ainuはオホーツク系南下始まりの13世紀からで先住ではなく、万年話の本件に全く関わらない事も発信して世界の誤解を正す必要があり、むしろ北千島の遊動海民で「アイヌより余程古い」(鳥居龍蔵)と言われる留頓・ルートンを紹介すべきなのです。

読者は既にご承知の内容について、何度目かのeigo発信をtwitterで試みました、字数制約は有りますが。①最初の南北米新大陸移住者Peopling of American Continent(南北単数・略称PAC、First Americans)は、寒地風・降雪に身体適応変化したモンゴロイドではありませんでした(北方インマレイドInmalaid:印アンダマン、インドネシア、マレーの混合新語)。②当時はベリンジアで繋がっていた大ユーラシアと認識すべきで、ニューメキシコの2.3万年前の足跡発見は定説を崩すパラダイム変化です。既発見の北米遺跡は中層であり、行き着いた南米の最深古の状況解明から戻る考察が今や重要です。③欧米学界はシベリアから内陸からとイメージしてますが、既に新説登場の太平洋沿岸・日本列島ルートにも注目を。人骨もあり、祖代から縄文への繋がりもあり、北部九州渡海始まりや伊豆祖人の渡海活動から次々に島が見えた千島越えは可能だったと考えられて時代を経た痕跡もあり、祖代の白滝遺跡の黒耀石群は国宝指定答申され、北海道最古は「3.5万年前後」の歴史認識で、マンモスハンターの南下ではなく青森北上です。なお、欧米に誤解がありますが、オホーツク系で樺太から南下混血したアイヌはせいぜい13世紀 からで先住(コロボックル・祖先)ではなく、米Nativesインディアンや豪アボリジニとは全く違って本件に登場しません。

Bone in Morocco ①has changed human history and ② Footprints in New Mexico changed paradigm that no Mongoloid had appeared yet in initial phase. South America and coastal route seem important now, ③Rich artifacts and bones, activity by boat since 38,000 BP in Japan, too.

左図①アメリカ先住民Nativesによる最大のフェスティバルが、正に2.3万年前「足跡」発見のニューメキシコ州都アルバカーキで、新たにベリンジア移住として認識されるべき2万5千年の歴史に目覚めるかのように行われました。

右図②我々はサルからの進化ではアリマセン、誤解です。また欧米先生が騒ぐ近頃流行りのユーラシア大陸のネアンデルタール旧人ともはっきり違います。地球人は新人(モロッコで31.5万年前の人骨発見で、誕生史が10万年遡り見直しが)で皆が親戚であり、大半は出アフリカを契機に拡がった者たちなのです。そして大ユーラシア大陸のアメリカ移住という最後の謎について、③足跡発見で定説が崩れましたが、その重要な意味は、北米状況が分かれば南米へ南下移住したので歴史は分かるといったものではなく、実はこれまでの北米遺跡は全て「中間・中層」段階のモノであったことが明らかになった事です。即ち、引き続き北米最古を探す事以上に、まずこれまで軽視されて来た南米で、古人骨のルチア(ブラジル、1.2万年前)アマゾン先住民などの最深・最古を探究し、逆に北方の状況を見直す時代になっているのです。ここで、南米への第1波は太平洋岸を舟で来たというのが、世界の学界の主流認識ですから、大ユーラシア大陸(南北の米新大陸を含む)内陸の陸上移住のみならず、遡って北方も太平洋沿岸が、舟で行動した海民が、そして太平洋沿岸ルートである日本列島の始まり祖代Sodai(縄文Jomonの前)の「祖人Sojin」(約4万年前に対馬海峡を舟・筏で家族が渡海)を、特に海民である3.8万年前からの伊豆Izu祖人、太平洋側と日本海側の両側を北上した人々が東西合流した陸奥平野Mutsu・青森~ゲートウェイ道東(北方領土含む)の3.5万年前頃に及ぶ祖代の歴史状況を研究すべき時代なのです。

周回遅れの教室に新風を入れて研究の最前線を覗き5月病対策を。また、昨年末に国宝指定答申がなされた遠軽町の祖代・白滝黒耀石群、世界遺産である北海道・北東北の縄文遺跡を世界に発信し、国際共同研究の推進を。

昨日、右図世界人類史の最後の謎「最初のアメリカ新大陸人」問題で、定説を数千年早めて覆す騒ぎの「ニューメキシコの足跡」の地に米先住民が集結、最大のフェスティバルが行われました。

図中下、諸説ある中で、青森(左図 白丸:最初期の遺跡と青森-祖代後期遺跡・赤四角)・北海道(Kelp Highway 昆布ハイウェイ)ルートも既にいくつかの動画で登場しており、関わりの可能性がある各地の祖人Sojin(縄文前の祖代Sodai人)も注目していることでしょう?!(縄文Jomon人は、1.65-1.5万年前で足跡に間に合わず、Ainuは13世紀からです、内外の誤解を正そう)。参加の旗に、丸に十の字の薩摩隼人・島津家・鹿児島のマークが見えて興味深いです。

左図①近年のDNA分析により、印アンダマン諸島人、8千年前ラオス人骨、狩猟族でない淡水食の北京・田園洞人、(北部九州祖人)、愛知・伊川津縄文人が類縁の南方系で、静岡・浜北、関東へと繋がっていきます。

②文化的にも伊豆の海を3.8万年前に黒耀石を求めて舟を造り行き来し、長野高地に多様な石器群が見られ、陥し穴猟や環状キャンプなどの社会性とそれらが言語コミュニケーション無しには考えられないことから、「日本祖語」を有した祖人は、もはや原始人ではアリマセン。当然にして列島中の山川、動植物などに名前があったでしょうから、別に13世紀からのアイヌが命名した訳ではありません。そして、③祖代当時の列島中央部は、沿岸及び広大な関東平野での遊動暮らしで現在を思わせる太平洋側と日本海側が連接された賑わいを見せていました。そして、そこに精神性ある縄文文化が加わって、今、東北史は見直されてきています。右図当時は日本海側に大雪が降らなかったことも幸いし、オットセイなど海獣・海鳥卵・海藻の豊かな仙台の東西2方向から祖人Sojinは引き続き北上し、早い段階から東北の高地部にも拡がっていた(白丸)ことが分かります(海水面が数十m上昇し、発見困難)。青森は最古級遺跡こそ見つかっていませんが、祖代後期遺跡(赤四角)が日本海側と太平洋側で発見されており、東西が合流した「陸奥平野」、食豊かな津軽海峡Kelp Highway(昆布ハイウェイ)の暮らしから、竜飛、大間のいずれからも容易に北海道に進入できました。帯広、常呂の旧石器は本州との繋がりを窺わせています。北海道進出の祖人は、道南・道央はもとより、襟裳から道東のハイウェイを拡がった暮らしが近年は「最初の南北アメリカ新大陸人」関り可能性で、世界人類移住史的に注目されてきています。

そして、日本一と言われる豊富な宝物の黒耀石が幸いした遠軽白滝旧石器群が国宝へ、大陸からの細石器文化ももたらされ、やがて精神性ある先進の北東北・世界縄文遺産へと受け継がれましたが、当然と言えます。生徒・学生に、世界に発信を、更なる研究の深化を。

女性議員を、女性の活躍をと言われる昨今ですが、世界に天照大御神や紫式部・清少納言に比べられる時代の偉人女性は他に見られません。その大きな理由は、約4万年の日本史期間の92%にもなる日本文化の厚い基盤に有り、近隣国との違いも島国としての独特のこの基盤にあるのでしょう。

①最近のDNA分析で、愛知・伊川津縄文人が、明治以来言われて来た人類の出アフリカ後の南方系の北上を示す類縁性が明らかになり、その事は、②始まりの北部九州祖人(約4万年前)と伊豆の海を行き来した3.8万年前の伊豆や愛鷹祖人、長野高地の香坂山祖人、また、伊川津の隣の浜松・根堅祖人(1.8万年前)、同縄文女性(1.4万年前)の繋がりとも類縁と考えられ、相互に実証性を示します。考古学的には、伊豆祖人の舟の作成・黒耀石採集の海上操舟や長野の高地にまで活動範囲を広げ、かつ多様な石器を生み出した知力が注目され、また深さ1m越えの陥し穴を60基以上設けた作業の社会性は、「あ~う~」ではムリですから「日本祖語」があったものと考えられます。祖代が遊動する狩猟採集時代と言われる中で、石器技術の高度化、環状キャンプや住居状遺構など次の代への着実な発展が窺え、始まり祖代から現代を思わせる列島中央部の賑わいが広大な関東周辺に見られました。引き継がれた縄文期には伊豆・河津の縄文工房、そして地域の暮らしぶりを示す充実の貝塚などに加え、③東日本の生活文化の面では火炎土器、土偶、木造建築物など精神性や造形のレベルの高いモノがありました。

また、それらが祖代からの狩猟・漁撈の暮らしに加わり、独特の文化で戦いに強かった(別の視点では弱点)歴史的な特徴に登呂稲作が加わり北上し変化を与えました。問題は、それらを継承するその後の東日本の歴史が、魏志倭人伝や記紀の影響による九州~畿内史観で歪められ、軽視されて至当に探求されず描かれていない事でしょう。正すことが求められています。(大谷翔平、佐々木朗希君たちもそうだと言っています?!)

浜松地元の方が不思議発見。さて、歴史上重要な北海道・白滝黒耀石器群が、昨年晴れて国宝に指定答申がなされました。ところが、石よりも重要な人が教科書にすらその意義説明をきちんと採り上げられず、世界に発信されていなのです。

実は浜松と同じ県内の「伊豆祖人」は、3.8万年前に伊豆・東京諸島へ舟で行き来し、黒耀石を採取(年代、原産地特定の実証)していた活動が世界初で、言わば「世界考古学史上の金メダル」なのです。しかし、一般的に日本列島は酸性土壌で人骨発見が無いためと新聞が「驚きの謎」と書いたためか、今一つ知られていません。そこで「根堅祖人」です。そもそも天照御大神誕生地の名(古事記)を有する尊い遺跡で、沖縄以外では最古の祖先人骨です。日本列島の中央部、何よりも近傍の「伊豆祖人」を実証的に説明しうるものであり、また1.4万年前の20歳代・143㎝、女性の根堅縄文人骨へと繋がる(いつから縄文かは学者議論中)始まり時代からの歴史を現代に至るまで示す重要な者なのです。それもこれも「祖人Sojin」という用語が無いために、教室で話をし、学者が種々の課題を議論することが一寸し難いからというだけの事なのです。それは「後期旧石器時代人」の語が、長すぎるし英語にすればイメージは世界でバラバラ、日本史固有の始まりである約4万年前からとは思われず、その後に続く新石器時代と縄文時代も当然に合わず、そもそも教室で後期旧石器時代人について説明すれば、その都度舌を噛みそうなのです。今や世界文明の一つともされる縄文Jomonの大切な親・先代、日本史始まり祖代Sodaiの #浜北祖人Sojin と伊豆祖人の活動を教科書に世界にと言いたいのです。

更に、現生人類の「最初のアメリカ新大陸移住」PAC問題は世界の注目であり、北海道からの「昆布ハイウェイ・Kelp Highway」ルートはその一つの有力候補なのです。それを実証面で支えるのが海民・伊豆祖人の舟での行き来活動であり浜北祖人骨なのですから、祖人骨を国宝に、話を教室に世界にという訳です。 


山口先生は①充実のサンプルを詳細に分析し、遠隔類縁の発見事実のみを発表されたが、おそらくその結果に先生のみならず見聞の学界皆が驚きをもって受け止めたのではないでしょうか。

今では、3.5万年前後からの北海道史始まり「祖代」の遠軽町白滝遺跡の黒耀石群が国宝に指定答申され、最右図米ワシントン大のDr. Ben Fitzhughが北千島の6,000年前という縄文遺跡を報告し、稚内に近い礼文島では4,000年前の縄文女性人骨が顔の復元までされています。1.オホーツク人とは異なり、2.樺太、道内のアイヌより北千島の「留頓」に近いという発表結果も、図右北海道周辺含む地域の時代史の概要を人的な歴史の積み重ね層序で描けば理解できます。つまり北千島・留頓は、孤立的であったため古さが維持されていたのです。鳥居龍蔵は北千島・留頓を、「道内アイヌ(第2)より余程古い第1アイヌで、コロボックル(恩師の坪井東京帝大教授の説)である」との最終認識を発表(大正6年)していますので、符合します。更にオホーツク人とは異なるという事で、それぞれが南方系の北上史であることをうかがわせ、実は樺太アイヌも、祖代には稚内~樺太は陸続きでしたのでその下層には貝塚人の存在を推定させます。山口先生の研究は、今日的に極めて重要な一つの示唆を与える意義深いものなのです。また、②重要な北千島・留頓については、5回の調査による馬場脩先生の膨大貴重な「馬場コレクション」に北上史の視点で光を当てねばなりません。

そして、③コロボックル・留頓そのものについては、最後の田中キヌさん、世界各地に散在する関連の留頓系DNAが、今や世界人類史の解明に資する重要なものとなっています。もしかしたら、世界を驚かせる結果が埋もれているかもしれませんから。ともかく生徒・学生に状況を教え、世界に発信し、国際共同研究を推進すべきです。

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