1.始まりの日本は南方北上

下図左 日本史は、南方から北上の一方向性で約4万年前に北部九州、3.5万年頃には沖縄、北海道、そして樺太、千島への一方向性の拡がりによる重要な人と文化の基層を認識すべきです。

2.アメリカ先史は定説が崩れ、北西沿岸南下の海民に注目が

図中下シベリア(中央アジア)のマンモスハンターがベリンジア陸峡を越えて無氷回廊を通過し拡がったという話は、実は全く新しい時代の事であるとの新報告で定説は崩れ、北西沿岸から入って来たDNA父系Y-ハプロ不明(?)が誰であったかに注目で、幅広い新たな研究が必要です。

3.日本からの北海道祖人の北上継続によるアメリカ進入関わりの可能性に光

図中下 これまで中央アジア人説のために日本は無関係とされてきましたが、図右母系ハプロ-D調査を見れば、ハプロ‐下位サブ分岐の違いはあるものの①南米との類縁性の強さや②北・中米の微痕跡から③沿岸注目動向における海民性ある北海道祖人(初代、縄文人の先代)は、候補と言えるでしょう。北千島の遊動海民である留頓(ルートン)・コロボックルは、参考になります。

アメリカ側の新たな探究は日本(史)にも関わるものであり、教室で紹介し各分野共同の研究を強化すべきです。―日本祖代研究会(RGaPJ)

1.北米の大氷床時代に沿岸進入の海民は全米USに拡がっていた。
(「槍持ちシベリア狩猟民がマンモスを追い、ベリンジアを越え無氷回廊から南北米に拡がった」定説は崩壊化。狩猟民の海民化説が遂に登場)

右図2.3万年前の足跡、オレゴン、テキサスなどの古遺跡のみならず、左図米国東部のメドウクロフト洞窟で1.9万年前の痕跡報告です。従って、そうであれば右図ベリンジア海民が沿岸ルートで入って来て(無氷回廊は閉鎖中)、ほぼ全米に拡がっていたという訳です。

2.にも拘らず、南米祖先因子が北米で未発見は何故?

右図下、南米祖先因子は広範囲で確認され、沿岸と内陸の2ルートで拡がった(太平洋横断ではない)、南方とDNAが驚きの近縁で復元顔はモンゴロイドではなく(モンゴロイドの出現、2.5-1万年前から。Dr. Howells、Harvard大。納得の状況)ですが、問題はその因子が何故か北米で未発見な事です。

3.左図の日本人(祖人・縄文人)特徴の母系ミトコンドリアmt-ハプロDが、南米南部で多く北米で僅少は何故か?

欧米先生、ハプロDの下位サブ区分の違いはありますが、僅少の日本人は問題に関係ないと無視するのは止めて下さい。チリ・アルゼンチン42%、沿岸地域に痕跡存在(北米南ナデネ4%・足跡に近い驚き注目、中米2%)は極めて重要で、①太平洋横断説を否定し、沿岸ルート支持、②後続進入者により吸収または消された、最古第1波の可能性を示すとも考えられる。従って、南方―日本―南米の三角関係は、北・中米を加え4角関係に完結する可能性を秘めている注目すべきこと。

いずれにしても人類史に(日本史にも)重要な「最初のアメリカ人First Americans」問題は定説が崩れていますので、疑義があれば「モンドロイドの出現時期」の検討と共に、留頓・コロボックルを含めて調査研究すべき2024です。教室は、はっきりしないからと言わずに副読本でジグザグに歩む学問の最新の現況を紹介し、子供達に世界標準の道を歩ませましょう。―日本祖代研究会(RGaPJ)

1.「最初のアメリカ人」問題は、沿岸南下説が強まりシベリア狩猟族の海民化説が米国で登場

現生人類の展開移住史において最後の謎と言っていい「最初のアメリカ人First Americans」問題は、①DNA分析により2.5万年以前にベリンジアに到達したと考えられ、その南岸の海民が沿岸を南下して南米にまで拡がったことが、近年の海中痕跡の発見や当時の広範な環境分析による南下最適時代の解明などで補強されてきており、Maritime Beringians の用語が、狩猟族の海民化説が米国でも(祖代研が既に列挙)登場するに至っています。

2.南米祖先のDNA上の共通痕跡Signalが確認され、驚きの南方との近縁性を再び発見

南米のDNA分析では、②アマゾン先住民の祖先DNAの想定因子(Signal)が予想以上に広範囲で確認され、更に何処よりも近縁なのが数年前に発見されて放置されていた遠く離れた南方であることが再び発見され、それははっきりと太平洋を直路横断したものではなく、北から南下した沿岸と内陸の2つのルートで拡がったものであると分析されています。

3.縄文人のDNAと南方の近縁性発見に加え、南米・西アマゾンの類縁から三角関係へ

タイ密林のマニ族やアンダマン諸島人との衝撃的なDNA近縁の発見など、明治・大正時代から言われて来た南方との関係性がDNAの分析で確認され、更に福島・縄文人と西アマゾン先住民の類縁性が加わって、南米と南方、南方と日本、日本と南米という三角関係が見えてきています。そして、南米へは北米を通過していることは当然ですが、日本人系の発見は目立たずこれまでは注目されていませんが、実は共通性ある微痕跡の有ることが正に古い第1波で後続に消されたとも考えられ、先の三角関係と相まって注目されるわけです。

4.2.5万年以前にベリンジア南岸に達した沿岸海民の北上説Aにおける北の解明は日本に期待

 北太平洋沿岸南下説の強まりと共に④沿岸海民の北上説は注目(米国でも日本列島北上説が登場)されており、「道東ゲートウェイ」から北上の特に旧石器や縄文遺物が発見されている北千島史の解明は重要です。また、欧米学者が考える樺太~北海道~千島ルートは、樺太から北海道への人の進入は早くて2.5万年以降と考えられており、第1波でベリンジア南岸へ達するのはムリであるので日本からこの点を発信することは重要です。また、北千島の留頓・コロボックルについては坪井・鳥居両先達のみならず、江戸時代から明治期に北海道・千島を訪れた外国人の残した文物を含め大学等が所有する豊富な遺物に対し渡米の視点による解明は日本に期待されています。

5.「最初のアメリカ人」はモンゴロイドではなかった!?問題の研究・議論のために用語を適確に

 欧米先生が東部アジア人を新・旧のモンゴロイドとしていることは誤解の元で、まず、モンゴロイドとは寒冷地に適応し身体変化した人々(2.5-1万年前以降、Dr. Howells、 Harvard大)と認識・定義すべきで、東部アジア史に今も影響を及ぼしている重要性からも早急に是正されねばなりません。それによりHowells説ではモンゴロイドではなかった「最初のアメリカ人」という事をしっかり認識すべきです。そして古モンゴロイドと称されている南方人は、出アフリカのネグロイドが時代を経た事と熱帯雨林・マングローブ・海岸河川域での暮しで変化した「インマレイド」と呼称し、亜熱帯を越えてはっきり被服や暮らしぶりも変わった「北インマレイド」が北部九州に到達したと用語を適切にすべきで、疑問・異論があれば検討して修正していくべき重要な問題です。ともかく周回遅れの教室は、本件の紹介を。

―日本祖代研究会(RGaPJ)

特性①沖縄、四国、北陸が離れています(欧米人には単に「島内」多様の話)。

1.アジア人の基本構造 
図右②下 東部アジア人は南方Aインマレイド(欧米先生がアジア人を新旧モンドロイドと呼称が雑な誤り)が北上して、図右②上、北インマレイドBに変化しつつ北上継続(北部九州到着は約4万年前)、それが西からも加えてモンゴロイド化Cが誕生(2.5-1万年前から、Dr.Howells)し、強い影響の拡散が今も続く2素の波という構造が基本です。
2.地図をひねり、祖史を付せば解説できます  
③列島(地図回転ヒネリ)青色の基層に、北部九州からモンゴロイド化影響が波及で、青赤2素(1,2波)が混じり①を理解できます。太平洋・日本海側が青森・陸奥平野で合流し、東北影響が大なる北海道はど真ん中で、礼文は樺太からと言う人がいますが南方含みの北陸系です。
3.「祖代・祖人Sojin」という用語が無い問題  
2代目縄文からしか語らない教室は①を説明できません。島内の増減を軽視し「渡来」を過大に語るのも誤解の元で、始まりの(甲)祖人に(乙)モンゴロイド化影響という2素(2つの各々が多様な長期の五月雨流入の波)の混じり合いであり、「2重、3重構造」ではアリマセン
-日本祖代研究会(RGaPJ)

北海道・沖縄に関し誤解の元が残り、また始まり「祖代」(日本の後期旧石器時代)の「祖人Sojin」などの用語が無い事が、世界先史にJomonやAinu(13世紀から)が依然として登場して内外に誤解を与えていることが大きな問題です。

左図 北海道は、「道東ゲートウェイ」から北千島方向へ北上を継続した事が、北千島の旧石器・縄文遺跡で窺われ、遊動海民の留頓(ルートン)・コロボックルCorobocleの研究でも支持されます。「最初のアメリカ人」問題でも昆布ハイウェイ(Kelp Highway)ルートとして世界的に注目され、本州~青森・陸奥平野~道東~千島ルートがはっきり登場しています。

北海道への樺太からの進入は、あっても2.5万年前以降(細石刃文化)であり、その人的な影響は今後の研究を要します。沖縄の始まりが九州からの南下であることは考古学会に異論なく、図は全く誤解の元です。―日本祖代研究会(RGaPJ)

左図 長く「3方向渡来説」が巷間で、学術論文でさえ語られてきました。

問題は、祖代研が指摘の①生起した時代が新しく、かつ、混在、②肝心の南方から沿岸北上ルートが描かれていない、③北海道で留まる理由は何もないのに日本から出て行かない、という誤解を招くものでした。積み重ねてきた考古学、DNA研究に今回、驚きのタイ・密林のマニ族と日本人のDNA近縁が加わり、南方一方向からの北上説が躍進です。
右図 近年、沿岸ルート進入説が強まり、遂に祖代研がカムチャッカ沿岸北上ルートと共に一応挙げていたシベリア等の内陸ハンターの「海民化」説が登場遂に登場(Maritime Beringians ベリンジア海民)です。問題は、道東ゲートウェイへは樺太経由(2.5万年以前にベリンジア到達論で、時代的に苦しい)か、青森から北上(特に問題なく、陸奥平野で東西合一の基盤)か。米一部には日本列島(青森)からの北上説が登場しています。

教室に紹介を、世界に発信を。ー日本祖代研究会(RGaPJ)

①世界驚きの3.5万年前、社会性ある設定作業力は原始人ではない

動物(猪、鹿など)特性を認識しておそらく柵などで制限したルートを定め、陥し穴猟は、鉄器の無い時代に1m級の穴を多数設定し得た知力と社会性は、図下段の今の高校生の作業を想像すれば理解でき、原始人ではアリマセン。

種子島地域は、沖縄方向と関東方向への分岐点であり、他の遺跡と相まって意義(静岡・神奈川の同様例、生業航海等)を強化し合い、何よりも軽視されている年表の祖代(原始時代、旧石器時代等)の意義を高め、日本語の重要な言語系統問題などにも参考になります。

その位置と歴史から鉄砲伝来の受け止めもロケットが飛ぶのも偶然ではない!?

②日本史年表で始まり祖代の軽視は問題

祖代は、教室でも巷間の歴史本でも軽視されていますが、人の本質は進歩なく(ウクライナ侵略、ガザ戦等)、ヒトの脳は昔を残し建て増し式でリセットしないので、60%の長期にわたり育まれた基層(陥し穴以外にも多くの世界考古史メダル級事象)の影響は軽視すべきではアリマセン。島内における自らの発明はもとより、神話も藷制度や食なども取捨選択していて、祖代・縄文の基盤の影響は大きいでしょう。

③日本語の起源問題に、訳知り顔のご託宣は誤解の元

9千年前、日本列島はアイヌ語だったと一流研究機関の教授の動画に登場し、あるいは弥生時代の稲持ち渡来人に元があるという先生がいますが、南方北上の始まりから元日本言語学会長である松本克己先生の「元は指摘出来ず、環太平洋語群の類型」という論に納得します。言語の成り立ちは、文化に大きく影響するモノであり、安易な我田引水のご託宣は慎むべきです。

現在の種々の問題に対しやはり原点の探究理解は重要であり、いずれにしてもまずは始まり祖代の諸事象を教室に、世界に発信を求めます。―祖代研

これまで会信伝達して来て、遂にNHK科学番組で南方から北上の日本史始まり一方向(沖縄へは南下)移住史観の図(右下)が登場しました。左図巷間の3方向渡来図ではない、初めてと言っていい図の登場で、誠に感慨深いものがあります。引き続き、祖代・祖人に関わる歴史問題の発信伝達に努めて参ります。

①今回、南方系を明らかにしたのは良いが、古墳時代強調のコメントは尚早で、南北に長い列島及び顔・体格で出自がある程度推測できる我が国の状況にあっては、サンプリングや地域差の扱い方次第で結果と解釈は異なる点に十分留意すべきで、この公正の説明が重要。

②日本史に関して始まりに「3万年」の語を使用するのは誤解の元で、「約4万年」の学界主流説の語とすべき。また、巷間には「大陸・半島からの到達」との誤解があるので、スンダランド地域からの北上、パンカル海・曙海の畔からの到達であることを説明すべき。北海道史も誤解が多く、樺太南部進出の白滝黒耀石の旧石器遺跡、青森・陸奥平野が北の基盤である地位、北千島の祖代・旧遺跡・遺物などが示す北上継続を付け加えるべきで、今人類史注目の北海道で留まる理由は無い。

③年表で59%の期間を占める祖代は、豊富な考古事象が認められ隣国文化の取捨選択や今や「縄文文明」とも言われる特色をもたらした重要要因であり、軽視するのは不適切。DNAの多様性を大量渡来に求めるのは探究不十分な現況では時期尚早で、多様なDNAを有する五月雨の(大量でない)難民的な渡来による島内における勢力の争いにおける優劣の消長要因は重要で付加説明すべき。

―日本祖代研究会(RGaPJ)

1.「最初のアメリカ人」は、沿岸ルート説が優勢

左図北米内陸の無氷回廊が未だ閉鎖中の時代とみられる2.3万年前ニューメキシコの足跡発見もあり、学術系動画にDNA日本列島ルート説がいくつか登場しています。

また、米学界最新のDNA分析で沿岸支持論文が登場する(累次、本ブログにて紹介済)など、議論で優勢な沿岸ルート説です。遂に本年2023、シベリア東部からベリンジア陸峡に進出した内陸ハンターが大槍を捨て鮭を食べ北の海でフネを浮かべて海民化し適応したという「Maritime Beringiansベリンジア海民」説が登場(祖代研は用語抜きで既に列挙済)です。sositeimaya他方フネがどんなものであったのかが問題なのだとも。他方、沿岸支持派の北海道ルートでは、あくまでシベリア・アジア内陸者にこだわる学者は樺太南下~北海道ルートを主張していますが渡道の時期(2.5万年前)が遅く、祖代研は引き続き東京・愛鷹・伊豆(3.8万年前)、青森・陸奥平野―帯広で北海道3.5万年前後、なんと言っても世界最古の伊豆の海での生業航海「海民」実証から、「青森祖人」の北上を主張しているという状況です。

2.アメリカ新大陸の古いDNA研究に光!

右図北米先住民の母系ミトコンドリア調査ではシベリア・アジア内陸者が圧倒的に優勢なため、日本は無視されてきました、依然されています。しかし、日本人に多いDNAミトコンドリア・ハプログル-プ古mt-Dが北米で極めて少なく(なんと「足跡」の近傍に存在)奥の南米端に多い(南部パタゴニア42%シェア)という事は、むしろ逆に古い第1波であり、北米では後続の強いシベリア・アジアの内陸者に、コロンブス以降者に押されて消されていったのでは? 

かつてコロボックル論争の際に、人と暮らしぶりは確かにアイヌの伝承そのものだが「北千島では誰もコロボックルなんて聞いたことも無い、(コロボックルではなく)遺跡・遺物は祖先からの物である」と言っているということで、学界では否定され消され巷間のファンタジーにされていきました。

しかし、現地調査で聴き取りを聞いていたグレゴリー現地老人助手が怒ったように、侮蔑の意味を含んだ「コロボックル」を、言われている当人たちが知らないのはむしろ当然で、逆に彼らこそコロボックルとも言えるのです。現に鳥居龍蔵(東京帝大)は、明治32年の現地調査後に否定され消されたコロボックルを、明治38年には北千島人(留頓・ルートン)であると認めており、大正6年には、はっきり学会講演で述べて学術誌に掲載され、自著にも書いていますが日本学界は今も無視したままで明治先達の偉業を教室で紹介すらしていません。

さて、最初のアメリカ人問題における古mt-Dは、確かにサブ(下位)グループでいろいろ違いはありますが、日本人(祖代・縄文人)とアメリカ新大陸の第1波人のDNA精査検討をあらためて推進されるよう、教室でコロボックルについて紹介するよう強く求めます。

1.約4万年前の①北部九州への家族渡海から樺太まで祖人・次代の縄文文化の拡がり

教室は北からの南下事象を強調しがちですが誤解の元で、当時は広大な青森・陸奥平野に充実の列島中央部の人・文化が太平洋側と大雪の無かった日本海側から北上して東西合一し、石器と遺跡の分析から3.5万年前後には北海道に進出し環境に適応しています。

国境の無かった樺太、千島には北上継続の痕跡が亜残り、樺太には祖代の白滝黒耀石や縄文土器と次への移行、擦文土器の痕跡が残っています。流入とみられる北の樺太からの「細石刃文化」の強調は誤解の元で樺太コロボックルの存在を認識すべきであり、北部九州と樺太南南部で亜庭湾北側の「宗谷北」地域は、大陸を視野に歴史的に外来の接点で多様性を有する独特の類似性があることに注目すべきで、宗谷北での南北の犬の混交もその事を示しています。

2.問題は用語「オホーツク文化」で誤解の元、視野をオホーツクでなく大陸に拡げ「宗谷北文化の波及」に修正を

縄文土器が移行し擦文土器も派遣されている土器・文化の「オホーツク」名称は不適切で、肝心のオホーツク海の北・東・南からは採り挙げる影響もなく、注目すべきは宗谷北・窓口へのバイカル・満州系の西の文化の波及(アムール河口経由としても)です。東北から宗谷北への拡がりの深さもオホーツク土器とは比べものになりません。北方史の特徴的な事項を②宗谷北の人骨埋葬がよく示しています。大陸系の父と南方縄文系の母という「別の人種の組み合わせ」を露学者たちは人体形質の分析で明らかにしています。よく沖縄と北海道が縄文DNA比率が高いと言われますが、違う事情であることを子の墓は示しています。先生はオホーツク土器を強調しますが注目は刀で、古墳時代から平安時代へと長い時代に特に東北で改善された蕨手刀(わらびてとう)が北海道から樺太にまで渡っていました。その扱いの重要性と広域性は、注目です。「オホーツク文化」は、カタカナ・針小棒大であることが誤解を与え、本州初期の東海~千葉房総の沿岸文化をパシフィック文化と称するようなもので異様です。名寄のように茂寄(モヨロ)、飛似台(トビニタイ)と漢字にすれば正しい理解はなります。

3.北部九州と宗谷北の類似性は南・弥生文化と北・宗谷北文化と元寇の衝撃

時代や影響の大小は異にしますが、③外来文化を受け伝えて生活に影響を与えた点や元寇が及んだ影響も類似性が見られ、樺太では1284年から元に征討され一時はアムールに反攻したアイヌも敗北・屈服し、この間の南下避難が道史に影響します。

4.樺太アイヌの④北海道への南下で全道の擦文文化が急変へ

猿払町史が一端を記述している④アイヌの南下流入は、漸進的に道内に拡がっていた擦文土器の時代の文化を急変させます。にしていますが、蕨手刀も有って一時はアムールに攻め入った戦闘力を有する樺太アイヌの元寇敗北余波の南下は道内での勢力争い(実は様々な8以上の種族の存在を北海道「アイヌ」と総称する誤解の一括り)をもたらして道史を急変させ、種族の配置を変え消長させていきます。コロボックルの北への逃げ伝承も有名なシャクシャインの闘いもこの一環です。

最初のアメリカ新大陸人の問題で注目される北海道史は、不穏な発言をするプーチン、樺太の地名を中国名に替えていると言われる習政権などの状況を踏まえ、正しく見直されて行かねばなりません。―日本祖代研究会(RGaPJ)

Initial Peopling of America

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(Front line of Research)Initial Peopling of America

Who were the Maritime Beringians?

DNA analysis of new and ancient Native Americans indicates that origin had been formed before 25,000 BP in Beringia or in East Asia. Important environmental situation in ancient north America has to be noted that great ice sheet had covered large portion of continent from the west coast to the east and had not been opened up as the Ice Free Corridor until 14,500 0r 12,600 BP.

It means human migration had to be conducted in coastal route to those archaeological sites in Canada and CONUS made before IFC clearance period. “Maritime Beringians” group had got down southward along “kelp Highway” and the best duration of it was during 25,000 to 16,000 BP by recent analysis of ancient environment and way of life in the related region.

Siberian mammal hunters and inland Asians of same kind had to adapt to maritime life using boat in freezing northern sea. Big change of image of them!

Anyway, scholars now face a new question.
Who had come into Canadian island and west coast region of CONUS during closed Ice Free Corridor period? And, candidates are “Marinerized” Siberian and East Asian Subgroup, hopped AHC, and SHK on stepping-stone by using boat along Kuril/Chishima islands way. Some US scholar supports the theory of SHK, but it doesn’t seem possible as SHK had reached Hokkaido in 25,000 years ago of the same finishing time in Beringia.

A巷間誤解の北のマンモス・ハンター痕跡は北海道にありませんし、細石刃文化の流入が強調されますが、青森祖人の進出後の数千年後の事です。3.8万年前からの本州中央部の遺跡は図左下の充実を示し、太平洋側と日本海側(当時は大雪無し)からの北上と青森・陸奥平野での合一を基盤に青森祖人の北上が北海道史の始まりであることを石器が示し(堤 隆)ています。

むしろ図中上の露学者シュービンが語ったように北樺太、B占守島への北上継続を認識すべきで、沿海州の白滝黒耀石の存在もその方向ですし、6千年前の縄文遺跡が発見されている占守島の留頓(ルートン)は、カムチャッカに進出し、そちらが主体であったことも分かっています。
13世紀のモンゴル元の樺太乗り出し、西文化が波及した宗谷北(日本刀を副葬した父・西、母・縄文系の有力者の墓)の意義などが語られることなく、カタカナでオホーツク文化といわれて来た内容は、北海道から進出した祖・縄文人以来の樺太南南部人に、西・北の大陸人が進出して混成で生み出された異国と接する北部九州的な「宗谷北」文化の道内波及であり、これまで歪められてきた北海道の図のような人の歴史を認識する必要があります。オホーツク海北側及び東のカムチャッカはロシアの進出まで語るほどの影響はなく、オホーツク文化と称するのは針小棒大であり、賑わった伊豆祖人の文化の拡がりを太平洋文化と称するようなもので誤解の元です。
また、大森貝塚の発見で日本考古学を開いた文明開化期のお雇い外国学者のE・モースが、考古遺物のプレ(前)・アイヌ説を述べ、B明治の先達が苦心の学術用語コロボックル(アイヌ伝承の先人、留頓ルートン)を使用して不敬の問題を起こすことなく全日本遺跡図を明治38年には発表しており、現地研究フィールドワーカーの鳥居龍蔵が発表した「相当古い第1北千島アイヌ、第2樺太、第3道内」という人の歴史の基本をもって偏向を是正するため教室で採り挙げねばなりません。
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これらの事が論じられずに誤解のまま放置され拡がっていることが、日本史・コロボックルに理解なく、アイヌの実情も無理解なC「縄文以来のアイヌ(語)」という余りに酷い歪曲が国際的に発表され、今種々のその他の誤解が振り撒かれています。これ等の北海道史の誤解の是正を政府に強く求めます。

①北米2.3万年前 足跡の衝撃

全米のメディアが報じたニューメキシコにおける子供や動物の「足跡」によって、それまでに発見されていた2万年前から1.4万年前の複数の遺跡報告によって揺らいでいた「1.3万年前からのクローヴィス石器文化人が最初」という定説は、決定的と言っていい打撃を受けています。

本土米国への進入が注目される人類のベリンジア陸峡への到達3~2.5万年前の時代には、内陸の無氷回廊(IFC)は大氷床が融けて開かれた状況には未だなっていません(3~1.4万年間)ので太平洋沿岸ルートという事になり、定説だったマンモスを追ってベリンジア陸峡に入って来たとされるシベリア狩猟族C、北東亜族Bは、大槍を捨ててフネに乗り換えベリンジア海民(Maritime Beringian)化したという衝撃のイメージ転換になります。北米太平洋岸の海洋・流氷、地形、気候、生物等の古環境の最新の研究分析と極北の民イヌイットの月光・オーロラの地での氷上での暮らし振りなど(Ice and ocean constraints on early human migrations into North America along the Pacific coast February 6, 2023)から、人類の大氷床時代のアラスカ~カリフォルニア沿岸の南下は可能とみられ、条件的には2.5~1.6万年前の間が最適とする学術報告がなされており、これまでの発見遺跡やDNA分析と齟齬がありませんので、「When」と「Where/How北米沿岸/フネ・徒歩」が見え、「Who」に関しては古シベリア狩猟族C、古北東亜族B、カムチャッカ東岸北上グループAの3区分となりますが、アメリカ先住民(古人骨含む)の米国でのDNA調査からCと考えられており、東シベリアを東進するルートと樺太回りSHKが考えられています。

①―2 北米沿岸ルートで注目されるカムチャッカ沿岸Aの「Kポイント」(カムチャッカ半島南端ロパトカ岬、占守島)までのルートと研究現況の表

千島aルートとオホーツク海北沿岸からカムチャッカ西岸を南下するa’がありますが、a’はA、B、Cのいずれも一応通り得るルートで痕跡が全く無い事と学界で説が全く出ていませんので「Who」の比較絞り込みの点で略します。千島ルートは北海道東端の「道東ゲートウェイ」へ米最新説のサハリンからのSHKと祖代研が列挙を提唱している青森からのAHCの2通りとなります。これをDNAの面からと考古学上の観点から両者を比較しましたのが図下表となります。

アメリカ先住民のDNAについては、アジアにズバリこれというタイプのない複雑なものといわれ、ベリンジアであるいはそれ以前に混血・変異が生じたと見られています。米国の最新説ではC古シベリア人APSを挙げ、この点でB、Aを斥け、ルート北米太平洋岸説の高まりからこれまでの東シベリア東進のみならず、サハリン南下SHKを挙げているわけです。しかしDNAについては、かつてNational GeographicとIBMが大プロジェクトで広範なサンプル調査による拡散図を発表しており、図に見られる通り日本列島ルートがあり、考古学的な観点からは第1波、後続、無氷回廊を通過する時代差のある第2波が考えられます。従って、青森ルートを排除せず更に研究していく必要があると考えます。

②列島北上の青森~道東ルートは充実の本州に支えられ少なくとも関わりの可能性

既に、動画など一部に登場しています。3.8万年前の東京・静岡の遺跡と何と言っても伊豆祖人の世界最古の生業航海が沿岸ルート時代に注目で、長野の高地に至るまで確実な時代の古さに支えられています。更に青森は、当時は広大な陸奥平野の時代でしかも太平洋側と大雪は無かった日本海側の両方から北上して東西が合一した賑わいの時代であり、狭かった津軽海峡を大間(竜飛)―襟裳―3万年以前の帯広へというわけです。下北、津軽に祖代遺跡があり、大平山元では最古の土器が発見されている次代の縄文は三内丸山などの世界遺産という充実で、サハリンとは比較になりません。既に知られた沖縄サキタリ洞窟の人骨や釣り針に加え、黒耀石を求めた伊豆の海の生業航海が知られてHonshuが登場するに至っていますが、まだまだです。DNAに関しては、N.G.拡散図に加えて少数だったために後続に押されて目立たなくなっているのではとも考えられます。

③サハリン・樺太ルートは痕跡の古さの点で時代的にベリンジア到達が難しく、人骨・遺物の両面で実証性が空白

オホーツク南ルートであるサハリンS・北海道H・クリル(千島)Kのルートは、DNAが古シベリア人APS系でオホーツク・沿岸ルートという名称から米学界では登場の書籍も出ていますが、北海道の始まりは本州石器(堤 隆)の祖人であり、樺太からの北海道への最古流入である祖代の細石刃文化はせいぜい2.5万年前以降(佐藤宏之)で新しく(シュービン氏の挙げた年代も)、「最初のアメリカ人」の参加資格であるベリンジア2.5万年以前(DNA分析、足跡への移住)の到着に間に合いません。支える沿海州の例えば有名なオシポフカ文化も1.6万年前程度の事で論外です。他方、シュービン氏は講演で北樺太や占守島における原始的な礫石器、占守島の祖代遺跡などに言及し、また遠軽白滝産の黒耀石が沿海州にまで及んでおり、学界は北海道祖人が道外に北上を継続した可能性という現在全く見られない事を採り挙げるべきです。

そして日本史研究にとって重要なこの人類史課題に関し、周回遅れの教室の抜本改善と世界への発進の施策を強く求めます。―日本祖代研究会(RGaPJ)

列島中央部の①充実した祖代遺跡の発掘は、太平洋沿岸・広大な関東平野・中央高地・雪の日本海側と広域に及んでいます。

その古さと遺物の質・量は、世界最古の生業航海という活動や暮らしの賑わいと事象の時間的な繋がりを実証する内容の点で世界が驚くレベルのものです。これは考古学関係者の多大な努力と経済開発の故でも有りますが、実は氷河期当時の相対的に恵まれていた環境に理由があります。始まりにおいては相対的な気候の温和はもとより、曙海沿岸の複雑な海岸線と小島が多かった事は生物多様など種々の点で小部族の海民にとって恵まれていました。大河川の河口と単純な海岸線に比べれば自明です。列島では、同様な状況に加えて太平洋側では特に沿岸突端部の照葉樹林、関東平野の遊動キャパシティ、東京諸島・静岡・箱根の黒耀石原産地、陥し穴猟を可能にする地形などが、中央の千メートルを超える高地も賑わいの黒耀石原産地の存在があった事や当時は植生が少なく行動し易かった事が、日本海側は対馬暖流の流れ込みが当時は無く大雪が降らなかったことが、列島北部では北極の冷水がベリンジア大陸地で流れ込まなかったので親潮寒流が無く、弱い寒冷化したカリフォルニア暖流の穏やかなものだったと考えられます。3万年前の鹿児島・姶良大噴火の西日本大被害は有りましたが。つまり発掘されるべき質・量の充実があったのです。そして、曙海の畔から来て列島中に祖人Sojinが拡がったように、同じく稲rice plantが伝わって拡がった事は日本先史に大きな意味を持っていますが、朝鮮半島では見られない大陸の固有種が伝わっているのにB直接横断とし、A海民による拡大曙海の畔ルートを認識していないのは驚きで、曙海沿岸勢力はその後も長く歴史に重要な影響を及ぼしています。

この始まりの曙海と温和に「平和」も含まれる好環境、2.3万年前の北米足跡で定説が揺らぐ人類のアメリカ新大陸進出問題における列島中央部の充実の意義を教室はしっかり教え世界に発信すべきです。

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