米臨海周辺の種族①の海民性の入れ墨は要注目です。

②最も近く先住の海岸チュクチ・オンキロンは入れてますが、内陸の蒙古系の同名チュクチは入れていません。渡って行った先のアメリカ北西海岸部のトリンギットやハイダ族などが入れているだけでなく、胸の入れ墨は北九州の海民である宗像ムナカタ族と同様です。③そこに向かう日本側の北千島ルートンは、祖先の頃からの入れ墨だと鳥居の調査に答えていますが、アイヌと戦い追われて北海道から逃げて行ったという伝承のコロボックルからアイヌは学んだと、違いがはっきりです。東北の縄文土偶にも見られ、その後の埴輪には写真のように広範囲に、文様は若干異なりますが風習があり、かつては列島中にあったのです。南島のハジチも痕跡を窺わせてますので。また、④ベーリング海峡の島のイヌイット・エスキモー、米臨海の南のアレウト族もはっきりです。

このように日本列島から米国北西海岸に至るまで、海民性の入れ墨の風習が、その進入を裏付けていると思われます。因みに、人類が着色を施した痕跡は、⑤海産物を食して頭がよくなったと言われる海岸地域の石器に残っています。流石に万年の昔の入れ墨は普通には残りませんが、アルプスの氷のお陰で残ったアイスマンの入れ墨は、他に見せるモノでなく体のツボに施した治療用とみられ南方の海民とは違いを見せています。最初のアメリカ人は「誰が何処から」で、沿岸から進入したと言われる新定説の海民の痕跡は、今は数十mの海面下ですが、入れ墨風習は、内陸民との違いを見せる痕跡と考えられます。

②最初のアメリカ人に関し北海道発という仮説が出ている時代に、現日本学界は、明治人の鳥居龍蔵の研究(南シナからシベリア、アリューシャンを視野)を越えていないだけでなく、子供に教えず世界に有益な発信していません。

明治32年に北千島を現地研究した鳥居は研究を続け、図左下よほど古い石器時代的な「第1アイヌ」(アイヌと称するべきではないですが)、北(樺太)から入って来てコロボックルに入れ墨を学んだ新しい「第2アイヌ」と区分して命名し、南方発の入れ墨の違いとカムチャッカにも出て行っていることにも注目しています。その先の北、図上チュクチでは、これも古い先住の海岸チュクチの石器時代的な暮らしの痕跡と入れ墨に着目し、名称は同じでも蒙古族的な内陸民との違いをしっかり説明しています。また、図下遠く離れたアレウト族についてもその石器時代的な暮らしと入れ墨の他、ロシア教会員によるエスキモー・イヌイットの支派観、カムチャッカ・千島・日本人との類似性の話は、坪井博士存命ならコロボックルに比定されるものと紹介(同意・否を示さず)しています。

アレウト族は遺跡からはアラスカの方から西進したものと思われます。図の333kmは、祖人の時代に家族ではとっても越えられなかったでしょう。なお、前回報告の春日部陸軍通訳官は、混血でない原民アレウトを日本人に酷似と報告を記述しています。鳥居龍蔵にとって、アフリカから全ての現生人類が発し、日本へは約4万年前頃に北部九州に渡海して来て北海道に北上し、その後に縄文時代になった内容などを聞けば腰を抜かす時代に、今に役立つ有益な研究成果を残していますが、戦後の日本学界の方は、人類史の課題である「最初のアメリカ人」に関する論説が、全く見られない周回遅れの状況です。鳥居研究の存在を子供に教え世界に発信し、第2アイヌ子孫に使われている膨大な予算を、国際共同研究に振り向けましょう。

図右①②で最初のアメリカ人に関し、米学者が北海道発ルートを挙げ、また千島ルートは有り得ないとする要因は確かに なく、北上し得たことを前回伝えました。米ハルドリチカ博士(ニューヨーク医科大)は、野外調査を主とする人類学者としてチベットからアラスカに至る人々の各種の骨格を研究し、最初のアメリカ人について、アジアからベーリング海峡を経由してアメリカ大陸に移住したことを唱えました。

1903年に国立博物館(現スミソニアン)の初代学芸員になり、人類学専門誌を発刊して1942年まで続け、スミソニアン博物館の初代館長に就任しています。そして、昭和8~13年頃、アジアに戦雲が見えだしていた時代に日本側が北千島調査(馬場脩、岡正雄など)に当たっていたことから、「渡米の経路として千島群島(ルート)が最も可能」の旨、人類学第1人者の金関丈夫博士に伝え関心を表明していますが、日米の学者の交流はその時代でもあった訳です。残念ながら、環境的にシベリアルートは厳しいと思われたのか、人骨の面から想定されたのか、博士が何故、千島ルートが最も可能と判断していたのか、練達の士の直感なのかは分かりません。当然、容易ではない発掘による実証です。発見された人骨が特に下アゴ形状など明らかにアイヌではないとして騒ぎにはなりましたが今後の研究とされ、最初のアメリカ人を実証する資料発見にはとても至りませんでした。明治9年の開拓官吏長谷部辰連、時任為基、明治11年御雇教師地震学者ジョン・ミルン、明治32年有名な鳥居龍蔵の調査、よく33年北海道庁の調査があり、戦前昭和の調査となっていますが、ハルドリチカ博士は状況を承知されていたのでしょう。

因みに鳥居龍蔵は、昭和14年、①北千島アイヌは、コロボックルの伝承はないが、土器・石器・竪穴住居について話を聞かせると、「我らの風俗と同じである」と答えたと言っています。②北千島人は「昔の先祖から入れ墨をしていた」と言うが、アイヌはコロボックルに教えてもらったといたるところに書いていて注意(目)をすべきと言っています。幅広く伝わるアイヌ伝承コロボックルは、ある意味で悪口なため当人たちが知らなくて当然と考えるべきで、そんな話は無いと言うのをコロボックルは存在しないとしたのは誤りだったかと修正していることが窺がえます。北のカムチャダール、南の蝦夷アイヌと戦った剽悍さを有する島から島へ行動する民としていて、まあ結論的に、南方北海道から北上した、熊祭りをせずユーカラ伝承も無い、昔の祖先から入れ墨(海民風習)していたよほど古い時代からのコロボックル的な北千島人(自称ルートン)を第1アイヌ、そして一方、アムール河人、ギリヤークの風習である熊祭りをし、北海道に北(樺太)の方からやって来た(現)第2アイヌと命名しています。

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また、先の大戦でアリユーシャン列島に通訳として赴き、撤収後にアレウト族に関し書き記した日系2世で日本の高校に通い、名古屋で飛行機工場に勤務経験があり、英語、露語の通訳資格を有する春日部薫一級通訳官は、アレウト人が黒い双眸に黒髪で皮膚は黄褐色、日本人に酷似しており、目付き鋭く自尊心の強い精悍な民として、鳥居龍蔵の北千島人と共通しているのが大変、興味深いです。混血でない原民が日本人と似ているではなく「酷似」と表現した「日本人」を、春日部2世がどう認識していたのかですが、新鮮な目で見た所見は興味深いモノです。これらの成果を子供に教え世界に伝え、更に共同研究により理解を深めていくことが必要です。

プーチンもいないのに、充実の旧石器遺跡(701所)の北海道から、北海道祖人 Proto-Japanese Hokkaidoは北上を継続したと言う学者がいない学界の現状は異常で、世界の北海道、千島列島に関する問いに応えていません。

そもそも北部九州に家族が渡海して始まり、 上①図 伊豆の海20km以上を行き来していた先進の海の民です。3.5-3万年前に青森から、狭くなっていた津軽海峡を北上して北海道の暮らしに適応した祖人が最古であることは旧石器遺跡が示しています。道内に拡がりながら、それまで同様に処女地を北上していったと考えるべきで、3万年前当時に北上できなかった要因は有りません。なんとなく北からマンモス・ハンターなどが北海道に入って来て北海道史が始まったと道史、巷間本などが書く、入って来るだけの日本史の誤解が誤解が原因でしょう。上③図、今話題の最初のアメリカ人問題で、北海道発、北太平洋沿岸から進入という仮説が出ていますから、議論に参加しないのは周回遅れです。さて焦点の千島列島の海峡や島々が問題です。千島①上段、・幸いに数百、千数百m級の山が多く、次々に島が見えていました。・更に、越えねばならない海峡付近の状況は、幸いにも渡海準備や居住が可能でした。・そして、当時は海水面が数十mは低下していたこととから、海水で削られてなく砂浜がもっとあってフネで行動し易かったでしょう。言うまでもなく、氷期でしたがハワイに繋がる海で、食豊かな昆布ハイウェイ沿いでした。

下段、最長の択捉海峡を越えれば、最北の占守島は、遊動海民ルートンの生活拠点の島であり、千島のみならずカムチャッカにまで行動していたもので、カムチャッカ沿岸を北上して行けば、やがてベリンジアに至ります。因みに③のアリューシャン列島へはカムチャッカ側のコマンドル諸島から333kmもありますのでムリ(赤X)でしたでしょうが、この北上して最初のアメリカ人問題に北海道祖人が関わっている可能性については、子供に教え世界に発信、国際共同研究を。

右図米ニューメキシコの2.3万年前(最寒期)の子供足跡などで、北太平洋から進入して行ったとされる「最初のアメリカ先住民」への北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoの関り仮説(オレゴン大Loren Davis、ネバダ大David Madsen)が、注目されています。

何しろ北海道の旧石器遺跡は701ケ所で、地域では断トツの実証基盤を誇ります。北上継続の問題は、次々に見えた千島列島の島々を越えて行った(最長77km)祖人の行動(オホーツク海北岸廻りルートもありうる)となりますが、それを支えているのが左図下伊豆の海での黒耀石採取の行き来で、上図が恩馳島付近の状況です。①3.8万年前の行き来(少なくとも十数km以上漕舟)は世界考古学史上の最古の行動( おそらく 造・操舟の専門集団あり)である金メダル、② 採取した 神津・恩馳島産の 黒耀石が 、静岡東部、関東南部、長野にまで拡がって発見されている広域での交易活動も「原始人ではない」として注目です。従って、その後の狭くなっていた津軽海峡越えなどは問題ありませんでした。今、
神津島を オイルフェンスで守ろうとしているようですが、島の暮らしと貴重な遺跡地域が保護されることを期待します。これらのことを子供に、世界に。

米ラウス先生は、 歴史における日本の特色として、 その始まりから現代まで歴史的な繋がりのあることが、 英米と異なる と指摘されています。島国故に大きな民族の移動や侵入に伴う乱れが少なく(騎馬民族は来なかった)、また、破壊を免れ保存された、1万件を超える列島の旧石器遺跡の発掘分析に裏付けられているのです。

人気の縄文もある時(案①土器出現16,500年前、案②定住弓矢など生活に変化15,000年前)から、祖人Proto-Japaneseが縄文人Jomon peopleと呼ばれる、言わば江戸人が明治人に名が変わるようなものであることを子供に世界にも理解してもらうことが必要です。ザン切り頭の人も鹿鳴館で踊るハイカラな人も、一皮めくれば中味は江戸人と余り変わらず。しかし、日本語はもうローマ字にしようと言いだす人も出た激動期ではありました。で、学界は縄文人・明治人に光を当てていますが、祖代は大昔にしては十分に分かって来ているのに、「よく分からない原始」扱いで軽視され、中味が薄い周回遅れです。日本史は、外から入って来るモノの取捨選択の側面がありますが、その決定に当たっては、日本史60%の期間の祖代に形成された人の特性の基盤は影響大でしょう。更に、ラウス先生の図左上の学問分類の教えと図右の祖代状況を併せ考えると図左下祖代の「古活動」が注目すべき重要な特色(米英・隣国に比し)であり、先史学の内容にも反映されるべきモノです。

今、2.3万年前の米ニューメキシコの子供足跡の祖先問題で、北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoは注目です。

着実で尊重すべきものですが、古物専念・研究無謬性の殻を破り、世界史界も期待する仮説―論議―検証のダイナミックさを特に古活動分野に加味し、学ぶ楽しみを子供に、そして成果を世界に発信、国際共同研究の主導を。

先史巷間本の隆盛は素晴らしい。さあ、学界は始まり「祖代」をよく分からないと軽視しないで、もっと学校で教えましょう。こんな大昔の充実年表ができるなんて他所の国では考えられないし、「どこから」(出アフリカ後、東進した南方から 「北東ア平野」沿岸を北上し、曙海を越えて北部九州に )、「いつ」(約4万年前)も大体のところは分かっています。

そしてこの始まりの渡海は重要であり、ハーバード大ハンチントン教授が、「日本文明」と認識した祖代の基盤が、縄文まで含めた基層が、重要なのです。舟を造り操り伊豆の海を行き来して運んだ黒耀石を交易し、鉄器のない時代に1m超えの深さ・大きさの穴を多数作る陥し穴猟を企画・指示・制作(やがて北海道から九州まで)したり、磨製石器、環状キャンプ、釣り針など原始時代ではないです。ある時から縄文時代と呼ばれることになる直接繋がる、縄文時代を準備した助走(日本史の60%の期間)として教えましょう。何しろ、今、特に米ニューメキシコ2.3万年前の子供たちの足跡発見で、3.5~3万年前からの北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoは、北上を継続して「最初のアメリカ先住民」に関わった祖先候補としての可能性が注目されていますので。当時は狭くなっていた津軽海峡を越えて北海道の暮らしに適応し、北上継続のゲートウエイである道東・十勝の若葉の森にはしっかりと生活の痕跡が残されています。

1万件を超える遺跡発掘について、日本の旧石器等研究者の成果は素晴らしいのです。子供に世界に。

Nature先生、それはトンデモ無茶、約4万年前に北部九州に多くの家族が渡海し、3万年前には沖縄から北海道の列島中に拡がっていた日本祖史から縄文史の基層をよく知らない誤解です! 当然に祖語を話し 事物に命名し、言葉を交わす作業・交易・交歓の諸活動が有りました。 言葉の事なら、先ず、元日本言語学会長松本克己博士の環太平洋言語圏を理解してからの事です。


図左、巷間本・博物館の3方向渡来図は誤解を招く誤りで、北部九州からの沖縄南下、北海道への北上史が基本です。その後の流入による入れ替わる(先住者が全滅する)大変化は確認されていません。

元日本言語学会長 松本克己博士の環太平洋言語圏がお仲間で移住痕跡。

図左、出アフリカから東進し、変化した東南アジア・インマレイドが北上して寒気等に適応し顔・身体変化したモンゴロイドとなり、逆に拡散南下しアメリカへも。右図、北上南下しムリなく最初のアメリカ人に関わり得る状況でした。

世界でこれほど万年の古さで年表を描ける国は無いです。考古学史上の金メダルもたくさんありますので。何より縄文からしか語れない人は、周回遅れです。よく分からないと凄さを説明しない学者・先生はおかしいです。

アメリカ学者には、最初のアメリカ人は、北海道からという仮説を言い出している人がいますが、それをサポートする東南アジア~日本列島の海民性の史実があるのに、日本学者は発信しない教えないという問題です。

世界によく知られていませんが、日本には旧石器遺跡が1万件超え、北海道に701件で、図のシベリアやアラスカとはけた違いの充実した基盤に裏付けられているのです。

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「アジアから来た」は学界で認識が一致、そして前回の顔と無氷回廊の開閉からの考察で、一般に何となく今も思われている大陸の内陸モンゴロイドのマンモス・ハンターが「最初の」ではないことが導かれ、環太平洋の沿岸民(語族:元日本言語学会長 松本博士))に光が当たりました。

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そもそも①私たちの原郷と言うべきスンダランド(今は過半が海面下)地域は、洞窟絵に舟を描き、世界初の約90kmは海を越えてからオーストラリアに入って行き、その帆掛け舟(ラピタ人)は縦横無尽に広大な太平洋に乗り出して行った海の民で、近現代のスラウェシ海民は特に有名です。沿岸を北上し②約4万年前に北部九州に「渡海」し、何よりも3.8万年前と言う昔に伊豆の海を東京諸島(神津恩馳島)に黒耀石採取に行き来していた事が圧巻です。その始まりと島国である事から、③中世には倭寇と悪口を言われる東シナ海の覇者であり、その後、北前船が列島で活躍し、沖縄糸満の厳しい鍛錬の海の男たちがサバニを操る漁撈のスペシャリストとして知られている海民性(太平洋側も)を示しています。そして、④アジア人が、アメリカ北西岸をフネで入って来たとなれば関りが注目される北海道は、旧石器遺跡が701件とゲートウエイ発地に相応しい基盤で、東部シベリアやアラスカとは全く桁違いの充実です。

北千島・カムチャッカ南部に居たルートンは、石器・骨器を使っていた、縄文人的な竪穴住居を使用する、一家で移動して島々で暮らす、千kmを「遊動」した旧石器時代的 な海民であり、昭和12年の調査人骨からアイヌではない・以前であることを窺わせる注目の種族(現在は消滅)で、海民の伝統を受け継ぐ北海道祖人の関りの可能性を支持しています。関りが指摘されるアレウト族は、ロシア人もびっくりの北の海の海獣猟のスペシャリストです。問題はこれらのことが十分に世界に発信されず、子供に教育されていない事であり、北海道祖史・ルートンの研究解明が世界に期待されていることの認識が無いことです。抜本的な改善と国際共同研究が必要です。

前回の顔話の続編です。1図出アフリカの現生人類が東進して、海辺・熱帯雨林等の暮らしから、東南アジアSundaland地域でA「インマレイド」に変化し、その後、高緯度へと北上(環太平洋系)し B 大陸系を混じえて寒気・降雪・強風で顔・身体が大きく変化し C モンゴロイドに。そして、一般的にこの大陸系モンゴロイドが、ベーリング地峡からマンモスを追って入って来たと長く考えられてきました。

これらA、B、Cが「最初のアメリカ人」First Americansに関わり、現在ではベリンジア南岸の一時的列島(Temporary archipelago:英ケンブリッジ大等チームが命名))から進入し、北太平洋沿岸を南下しました(基本①)。図2当時の北米大陸は、厚い氷床(最大時2-3km)に覆われていましたので、無氷回廊は開かれておらず、今に至る大陸モンゴロイドの大きな影響に惑わされますが、沿岸・昆布ハイウェイのルートよりも後の進入だっただろうというのが新説(基本②)なのです。これらを踏まえて、アメリカ新大陸の発掘復元の顔を考えると、万年前のロス・テキサス女性やまあケネウィック・マンも大陸系・モンゴロイド(BC、朝青龍の祖先)の影響をあまり受けていない環太平洋系(祖人・縄文人含まれる)の顔であり、その後の米先住民インディアンの例えばシッティング・ブルの大陸系・モンゴロイドの影響を受けたキツめの顔とは異なっている(基本③)ことが分かります。これらの事から、ロス・テキサス女性よりも古い、オレゴン州で糞石を残した人(1.6-1.4万年前)、ニューメキシコの足跡子供(2.3万年前)はインマレイド環太平洋A系となり、沿岸北上A-1の祖人(次代が縄文人)は有力候補なのです。無氷回廊が開いた後に入って来た大陸系、モンゴロイドの今に至る影響力が大きく、また、何でもモンゴロイド(新・旧)としてしまっている欧米学者には、これらのことがよく分からないようですが。

なお、1図北上Aのみならず東進Bの影響もあるとみられる複雑なモンゴロイドC化及び東西進・南下は、最寒期LGM以降で比較的新しいとみられています。ともかく「最初のアメリカ人」は、1.北太平洋沿岸からの、2.モンゴロイド影響のないインマレイドA北上の環太平洋系で、3.時代的に北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoは有力候補であり、4.米の足跡子供は日本祖人と、オレゴン「糞石人」は時代的にまあ縄文人と同系である、ことなどが導かれるのです。何でも「よく分からない」として無視し教えないのは、今や周回遅れの大きな問題なのです。北海道・日本の状況を世界に発信、子供に教え、国際共同研究の推進を。

前回の日本列島ルートから1歩進めた米専門学者の北海道発進図です。原図では空欄になっている祖代前期(4~3万年前頃)の遺跡を下図で付しました。

関連の地域遺跡とは、桁違いの充実な事がよく世界に認識されていないのではと懸念します。また本件論議のあちこちで、鎌倉時代登場のアイヌの名がしばしば出てくる誤解も正す必要があります。「よく分かっていない、はっきりしない」と言う態度でなく、積極的に日本が見解やデータを発信して参加することが求められています。新たな発見があれば修正が学問です。熊や北キツネが石器を扱うことは有り得ませんから、来なかった北のマンモス・ハンターではなく、狭くなっていた津軽海峡を越えて北海道に適応した青森人の生活痕跡なのです(北海道祖人Proto-Japanese Hokkaido)。できれば本件の国際共同研究の主導を、北海道いや日本の祖代史を知ることですから。まずは子供にこの事を。

米国の歴史サイト動画が、初めてはっきり人類移住史における日本列島通過の環太平洋沿岸ルート(赤細線)を描き、図中の沿岸と内陸の2ルートに関しても説明して多くの視聴を集めています(日本祖代研究会のMPOR説に同じ)。

さて、当時の北米が厚い氷床に覆われて無氷回廊は未だ開通していないので沿岸が注目され、英ケンブリッジ大等が当時のベリンジア南岸の地形は、小島が連なる一時的な列島Temporary archipelagoと命名しているルートが新定説です。すると「誰が」については、A沿岸ルートは北海道が注目され、北上の2ルートが。問題は内陸で、南方北上のA-2(おそらく先)と西から東進のBが1.を、これに2.a-2も絡むことが考えられます。そしてベリンジアでこのXは、地峡を東進してカナダの方へと、沿岸へ南下して海民化が一応考えられる複雑な様相となります。実はその古さから無視されてきたブルーフィッシュ遺跡(2.4万年前)もニューメキシコの子供足跡2.3万年前で光が射すと、A日本列島経由の海民系がユーコン川を遡上した可能性(赤点線)が出てきます。

このように興味深い複雑性を帯びますが、分析はベリンジア周辺を注目するだけでなく、シベリア・バイカル湖や日本本州、南米モンテ・ヴェルデ遺跡などのように、遠隔地の解明が大きな影響を与える可能性もありますので、水中考古学分析などと共に広い視野から追究されねばなりません。実証されてないからと全く扱わない教えないは学問ではなく、こういう状況だと紹介し論議すべきです。いずれにしても、日本の祖代史、特にゲートウェイである北海道祖史を子供に教育し、世界に発信、鎌倉時代に樺太から登場(北海道大学のDNA分析)のアイヌは関わらないので誤解も正しましょう。日本が主導して国際共同研究の推進を。

英ケンブリッジ大 Professor Eske Willerslev ・ Lundbeck Foundation GeoGenetics Centre 等は、シッティング・ブル(1831~90年、本名タタンカ・イヨタケTatanka Iyotake:大酋長・統率者は白人の誤解、戦士であるが部族の調停者・偉大な呪術者、ララミー砦条約時代の有名なNativeインディアン)の 5-6cm piece of Sitting Bull’s hair のDNA分析(This research was funded by the Danish National Research Foundation)により、Ernie Lapointeさんを現存直系で最も近いと「ひ孫であることを認定」したと Science Advances が報じました。

Autosomal DNA from Lakota Sioux leader Sitting Bull’s scalp lock was compared to DNA samples from Ernie Lapointe and other Lakota Sioux.

Sitting Bull’s bones currently lie at a site in Mobridge, South Dakota, in a place that has no significant connection to Sitting Bull and the culture he represented. He also has concerns about the care of the gravesite. There are two official burial sites for Sitting Bull – at Fort Yates, North Dakota and Mobridge – and both receive visitors.

With DNA evidence to back up his claim of a bloodline, Lapointe now hopes to rebury the great Native American leader’s bones in a more appropriate location.

問題は、左図の人たちの顔とブル・イヨタケの顔の関連をどう理解しますかというモノです。次回に説明します。

現生人類は、出アフリカから東南アジアに東進し変化した「インマレイド系」が北上し、寒気・雪・強風に適応して右下「モンゴロイド」に大きく顔も身体も変化。写真からは、日米の古い人々は「インマレイド系」、また、日本列島人はまあゆっくり変化で今に。

米Harvard・ハンチントン教授、田中英道教授等の慧眼が理解されない一端は、 祖史の無理解にあります。 残念ながら学問的に強い実証を強いられる、関連する国内名著の関心記述にあります。

図右上段、確かに静岡県河津(桜の名所)の縄文・見高段間遺跡は黒耀石の工房があった素晴らしい遺跡ですが、世界の関心は38,000年前からの大昔にフネを造り(伊豆の木材は船材として有名)操って、①(おそらく専門集団が)伊豆の海を行き来し、②静岡東部から関東・長野でも黒耀石が発見される広域の交易の痕跡が金メダルですが、「よく実証できない」と広く世界に伝えられていません。始まり祖代は、黒潮が四国沖で太平洋に東進し伊豆には来ていませんでした。従って、むしろ親潮の分岐流があったか、流れのない状況で、重要な伊豆半島東部~大島の最短距離を漕いで行っても、今のように相模灘から房総沖へ流され、太平洋にもっていかれて漂流する危険はなかったのです。大きく見える大島に漕ぎ出せば、ともかく諸島に達し、神津・恩馳島で黒耀石を採取した帰りは宝物を積んだフネをかなりの部分で海岸沿いに引き、所によっては漕いで大島に至り、そこから漕ぎ出れば流されても伊豆(分岐流が有れば河津)に戻れたので、不思議でも、朝日新聞が報じた「謎」などでもなかったのです。更に、この地域(静岡~神奈川)では少なくとも3万年前と言う古さで企画・穴作り大作業を要する「陥し穴猟」があちこちで行われている高い認知レベルにあり、「原始」などではなかったことが重要です。

そのことは、 3万年前の航海として、台湾から黒潮を渡って沖縄・与那国島に渡海する貴重な実験航海がなされ記述出版されていますが、 そもそも図右下始まりの約4万年前に北部九州に多くの家族が30-40kmの海を越えて来た祖先の事が、世界的には注目すべき事柄なのです。問題は、①日本始まり祖代は約4万年前で海水面低下で生じていた「曙海」沿岸と「北東ア平野」と出アフリカの現生人類の北上の認識、②対馬と壱岐から五島までの当時の海岸線までの30-40km(陸地で繋がっていたは誤解)を越えた、③多くの家族がフネ(筏)で渡海して来て、その北部九州を起点に沖縄から北海道にまで拡がり、④今、2.3万年前のニューメキシコ子供足跡発見で改めて注目されていることなどが、国内で祖史がしっかり教えられていません。

子供に教育し、世界に発信し、国際共同研究で特に北海道の祖史の研究充実を。

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