下1図ベリンジアで繋がっていた時代、確かにシベリア~アラスカのルートは、マンモス・ハンターがマンモスを追って入って行ったという理解しやすいものでしたが、最近はアメリカ側の「沿岸ルート進入」新説で、北海道ルート仮説を複数の学者がtestableとして提唱していました。
昨年9月のニューメキシコの2.3万年前足跡の衝撃的な発見の発表により、マンモス狩猟族(最近、これも実験考古学でマンモス・ハンターは居なかったと否定)でなく沿岸・舟乗り説が確定的となって太平洋沿岸の支持が強まる状況です。2図実は、北米での足跡発見により狩猟族でなく「北の舟乗り」であった事と共に、北米から南米への南下移住が、急行千年ではなく通常の8千5百年レベルだったと考えられることも重要です。即ち、人類史おいて急行移住などなく、シベリアにおける移住においても一時的な進出は別にして、寒さが緩和したある時代に急行で移住したのではなく、行きつ戻りつして牛歩で極寒の地に暮らしながら少しづつ東進した事になります。2図のように、東部シベリアの山脈、北極海沿岸をそのように東進するのは容易でなく、無論、痕跡もありません。ここで検討の出発点として北海道と比較すべきは、実は前回説明の年代確かな遺跡で知られる1図Bバイカル湖地域ではなく2図のヤクーツク地域ですが、ヤナRHS遺跡などバイカル湖より東方にあって古い年代が言われているのがちょっと不思議です。地域は河川沿いの遺跡であり前面のヴェ・スン山脈に阻まれたように赤破線、レナ川沿いに北極海沿岸に進出し、一方で南東のマガダン遺跡へ出られたかもしれません。いずれにしても、バイカル湖地域から東部シベリア中央山中をベーリング迄簡単に東進線を引いている巷間資料が多いですがムリで誤解の元です。東進は、あってもオホーツク海北岸地域であり、環日本海諸語族の北上が主体だったでしょう。北極海沿岸は、温暖化した新石器時代以降の新しい東進移住だったでしょう。
これらに比べれば①北海道遺跡は古さと桁違いの遺跡数の多さで充実しており、②次々に千島列島の島が見えた食豊かな昆布ハイウェイの北上と痕跡であるウシュキ遺跡は墓の副葬品が2万年前の函館・知内町遺跡と似ているといわれており、③ベリンジア南岸は、小島が連なる「一時的な列島」(temporary archipelago)と研究発表されているルートを進入した北の舟乗りとの直接的な繋がりの海民性は、北千島からカムチャッカにも進出していた、石器時代的な暮らしの「遊動海民」ルートンの痕跡が支持します。そして➃アメリカ新大陸が環太平洋言語圏で共通なことの意義も注目すべきことで、仮にヤクーツク種族が東進して来たとしても影響されて内陸言語から変化している訳で、先住・「最初の」ではアリエナイ事は重要です。また、⑤シベリア東端のチュクチ族が、石器時代的な遺跡が残る海岸族オンキロンとトナカイ狩猟族の2種に分かれていますが、図のようにオホーツク海南北地域を移住して行った結果と考えれば納得です。やっぱり北海道は重要です、子供・学生に、世界に、そして国際共同研究で深化を。