内外で今、注目の北海道史ですが、約4万年前の北部九州から青森を北上した祖人の拡がりの3.5-3万年前が始まりです。

①最初のアメリカ人問題において、昨年9月ニュー・メキシコでの2.3万年前の足跡の発見は、北海道ルート新説を強め、その時代には縄文人は登場しておらず北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoの北上Aが対象であり基本ですので、学界は速やかに対応を。日本一の白滝・黒耀石が樺太や沿海州で発見されているのも祖人の樺太以北への進出を示しているとも考えられます。また、北上Aの痕跡は、坪井正五郎・鳥居龍蔵研究のαの子孫で石器人の暮らしぶりの第1アイヌ・ルートン・コロボックル②③と➃同様のオンキロン海岸族です。誤解の多い巷間の大陸ルートは、痕跡の無い事と人類移住史からマンモスハンターは来ておらず、せいぜい2万年前頃からの中小中小動物を主に狩猟する細石器文化の伝来 B ですが、礼文島縄文女性が沿岸A系とみられ、大陸狩猟族の流入は大量ではなかったでしょう。それは温暖化に向かう時代でもり、巷間言われている氷河期の寒さを逃れて大量に南下という説明も疑問です。

これらの事とは全く別の話の鎌倉時代に大陸要素を含む第2アイヌabが進入して来た当時に、先住民A系のコロボックル遺跡が札幌~北方領土・北千島にまで広く有りました(坪井・鳥居)ので、北海道に南下した第2アイヌは豪アボリジニや米国のNativeインディアンとは全く状況が違います。先住民族だとか縄文人直系だとかいうのは世界に誤解を与える誤りです。今、「最初のアメリカ人」問題が世界の注目であり、ロシアが言いがかりをする時代ですから、正しい北海道史を子供に教え世界に発信せねばなりません。

①明治黎明期の東京帝大を主とする用語を工夫した歴史・人類学上の大論争「コロボックル」問題、実は 残念な行き違いがあって、日本列島における石器人分布図まで作成に至っていた提唱者である坪井教授の死去などにより、論敵に敗れる形で学問的には立ち消えとなりました。

②その後大正時代に、一寸法師にも比すべき「小人」性の可愛いらしさから、おとぎ話として復活して一般に広まり、現在の清瀬市の「ころぽっくる」や世間に種々見られるものもこの流れのものです。その陰で、明治17年の北千島調査では、「現地でコロボックルは確認できなかった」(これが否定の論拠)とした東京帝大助教授のフィールドワーカー鳥居龍蔵は、①各地を調査した研究と、北千島調査の際に助手にした老千島人が色丹などでコロボックル話を聞いており「バカにするな」と言っていること(ころぼっくるは、アイヌによる小人を小ばかにした話なので、言われている当人たちが知らないのは当然と思い至ったのでしょうか)から、遂に大正6年には、コロボックルとは北海道先住で北千島の第1アイヌ(ルートン)との認識に至り、雑誌論文に記述していたのです。人類アフリカ発もDNAも現在の人類史認識も知らない明治・大正時代に、先達は無論誤りもありますが、世界に誇るべき素晴らしい研究成果です。

今、世界の歴史学会は、③昨年9月末の米国ニュー・メキシコにおける23,000年前の子供などの足跡の発見・発表で、世界人類史最後の謎「アメリカ新大陸進入問題」・「最初のアメリカ人」First Americansの到来は、数千年遡り騒ぎですが、既にある北太平洋沿岸進入説はこのことで定説化が強まり、それに伴って複数学者がすでに発表していた北海道ルート新説に光が当たります。そうなれば樺太から鎌倉時代に入って来た(北海道大学のDNA分析)第2アイヌに追われた形( ①図で引き込まれ泣いている女性が辱めを受けたので激怒して)で去った、先住の小人コロボックルは、北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoの子孫で痕跡はっきりの石器人であり、注目です。渋谷新市長は、この歴史を掘り起こして子供や大人にも教え、歴史の真実を清瀬市から世界に発信して欲しいものです。

現生人類は、30-20万年前にアフリカで誕生し、10万年前頃からの出アフリカが正にエポックメイキングで、東に北に西にと世界に拡がりました。そして今、最後の謎とも言うべきアメリカ新大陸に、「誰が、何処から、どのように、いつ頃」入って行ったのかが議論されています。

それまでは、「シベリア狩猟族(マンモスハンター)が、ベーリング地峡からマンモスを追ってアラスカに入り、無氷回廊 (カナダ~北米)が開通した(1.4万年前)頃に米国本土に入って来たというモノでしたが、南米チリでそれより古いモンテ・ヴェルデ遺跡が、多くの学者を招いた現地調査で認められ、図右①先駆者アーランドソンの沿岸・昆布ハイウェイ進入説に光が当たるようになりました。更に米本土で1.6万年前級の遺跡の発見もあり、丁度氷河期が終わり温暖化した1.7万年前頃に入って来たというようになり、北海道ルート新説も複数の学者が動画で言い出しています。そこに、昨年9月のニューメキシコにおける2.3万年前頃の子供たちの足跡発見で、時期が数千年早まる衝撃が加わって、「誰が、何処から、どのように、いつ頃、」入って行ったのかを統一的に説明したものは未だ出ていない状況にあります。大勢は、なんとなくまだシベリア狩猟族をイメージしているのかもしれません。何しろ、海水面の数十m上昇で沿岸痕跡は海中ですし、2.3万年前に入って来るなら氷河期の最盛期の寒さの中の移住となりそうですから、学界の静けさも理解できます。残念ながら、新たな試みの海中探査や沿岸の調査から未だ突破口は開かれていません。

②そういう状況で温故知新、東京帝大助教授の鳥居龍蔵の現地調査と各国の千島・カムチャッカ・チュコトの研究資料研究は、当時として慧眼の深堀りがされており注目に値します。海民というべき北千島アイヌ・ルートン・チュプカ(人々の呼称は種々)は、明らかに北海道アイヌと違った「余程古い」石器人暮らしで、カムチャッカ半島南端部のクリル湖地域にまで進出していた事は、カムチャッカ人と争いのあったこと、特に③オホーツク正面の地名がルートン語であることからも分かります。そこに至ってたならば、アメリカ沿岸進入において直接的に注目される➃シベリア東端のチュコト人伝承の古い先住石器人であるオンキロン海岸族(図の青、赤、黒の考えられるルート)との関連が注目されますが、⑤北海道祖人の古さに比し、大陸~樺太の南下ルートからは、1万数千年前からの細石器文化の進入ですし、チュコトで確認されているのは海岸族から陸上内陸だが沿岸に近い狩猟族への転換変化という逆の流れから黒ではなく、青または赤となりますが、北極海赤ルートの氷河期移住は困難だったと考えられ(チュコト地域の遺跡は温暖化後の1.5万年前頃から)、青の沿岸北上ルートの可能性が高いでしょう。

いずれにしろ辿り得るこれらの残された痕跡からは、北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoが北上したカムチャッカ進出は考えられても、ニューメキシコに2.3万年前に到達する2.5万年前頃の時代に、カムチャッカ半島から海を越えての南下、樺太から狩猟族が北海道に進入したとは考えにくく、むしろ逆に出北海道の方が説として導かれます。 学界に、出北海道説が見られないのは学問的に誠に不思議な事です。理論上として、子供に教え世界に発信すべきです。

東京大の海部教授は、①4万年前からの遺跡の急増から渡海仮説を提唱、学界大勢に異論なし。仮に、5万年前が見つかれば修正も、10万年であれば、大ニュースになるとしても実は現生人類とは無縁の旧人です。

②歴史研究家の小名木氏は、神話の分析から北東亜平野、蛭湖(曙海)に着目です。実は最寒冷の2万年前と祖人始まりの4万年前では、北東ア平野の海岸線はかなり異なりますが。③古荘氏は、海部説に加えて38,000年前の静岡(恩馳島原産)の黒耀石採取に注目しており、これら3者は祖代研究会と軌を一にしています。重要なことは➃曙海を家族で北部九州に渡海して来た祖人Proto-Japaneseは、北東ア平野の沿岸を北上と考えられますが、仮に内陸を北上して来たとしても「モンゴロイド化」していなかったので、祖人例(石垣島祖人:2.7万年前)とあまり違わないと考えられるのです。また、黒耀石採取の38,000年前からの伊豆の海越えは、「謎」と報じた新聞もありますが、分析すれば20km渡海であり、始まりの30-40km越えの北部九州への家族渡海より容易でした。世界に例のない列島1万件を超える旧石器遺跡の分析により、沖縄~北海道までの拡がり、特に関東・東海、甲信越の充実などが分かります。

⑤コロボックルの語を使用して祖史の石器人を追求して分布図を描いた東京帝大の坪井教授、北千島のルートン (第1アイヌ・実はアイヌではない)がよほど古いことに着目し、シベリア最東部海岸族オンキロンに着目した鳥居助教授の仕事は、驚きの素晴らしい先行研究でした。今、米国では「最初のアメリカ人」研究において北海道ルート仮説が複数学舎から提唱されており、昨年9月末の23,000年前のニュー・メキシコにおける子供などの足跡の最新の発見は、ベリンジア陸路越えマンモスハンター進入の定説をはっきり覆し、沿岸・昆布ハイウェイ説を定説化していますので、遂に、曙海の北部九州への渡海から北海道祖人(PJH,Proto-Japanese Hokkaido)の渡米まで仮説が繋がりました。周回遅れの学校は、子供・学生に仮説の状況を教え、世界に発信せねばなりません。

開国明治の皇国史観の縛りの中、コロボックルの語の使用で日本始まり時代の祖人Proto-Japaneseの真実を追求し、列島祖史観に至った先達は驚きであり、注目されるべきです。

人類アフリカ発やDNAなど想いもよりませんでしたが、Edward・モースの大森貝塚の遺物から発展させ、列島中の古遺跡の概要を把握し、その違いからアイヌを先行第1、後入第2に区分認識し、北千島への関心はカムチャッカからベーリング(オンキロン海岸族)、アラスカまでを視野におさめていました。近年発見された石垣島祖人が南方系、1万件を超える旧石器遺跡が示す約4万年前北部九州からの始まり時代の列島北上史、3.8万年前からの伊豆の海における黒耀石を求めた20km以上の神津恩馳島への行き来は「原始人」ではなく、残された隼人語のわずかな痕跡から窺がわれる南方マレー・インドネシア~長崎・鹿児島・沖縄~関東~北千島ルートンに至る海民性の言語痕跡や十勝と北陸の旧石器の類似性などから見ても、先達の仕事は、最新の現代を先導したかの様な驚くべき素晴らしいものでした。これらと、「最初のアメリカ人First Americans」に、北海道ルート・昆布ハイウェイ仮説を提唱する複数の米国学者の登場などを考えれば、現代の学界・日本学術会議と全国の子供・学生は、完全に周回遅れです。また、用語コロボックルに秘められた先人ご苦労の学問的な工夫も顧みずに、「おとぎ話」扱いで笑い飛ばして無視しているのは、余りに傲慢です。子供・学生にこれらのことも教え、世界に発信すべきです。

図左、「最初のアメリカ人」の議論は活発で3波進入説も登場、米北西海岸コロンビア川で発見された有名な「ケネウィック・マン」が、最古級のAスンダドント歯型である事から日本列島を通過したルート説が。

問題は、日本のところにアイヌと書かれていますが、鎌倉時代12世紀頃に樺太から入って来た(北海道大学DNA分析)ので、人類史の万年前の話には全く無関係なのです。3波説のLepionka博士は、アイヌをアボリジニと紹介してますが、豪アボリジニとは歴史的な先住性や古さも、人権問題でも全く異なる大きな誤解です。図右で既に北海道ルートを述べている人たちにも誤解があるかもしれません。北海道が注目の時代、プーチンが「アイヌはロシア民族の祖先」などとトンデモない言いがかりをする時代です。アイヌに対する誤解を招く海外活動は中止し、日本人同様に人権の尊重と地域文化の尊重が平等になされ、誤解を生じないようにすべきです。誤った熱に浮かされた「アイヌ先住民族決議の求め」は却下し、国会決議は世界の誤解を正すべく廃止すべきです。

明治の新時代に大森貝塚で有名なモースが、列島先住者に関する口火を切り、東京帝大の坪井正五郎・鳥居龍蔵などが、人類アフリカ発の皆親戚やDNAなど何も分らなかった時代に、「石器人」(祖人、2代目縄文人)に着目して遺跡を分析し、はっきりアイヌと違い、よほど古く、図のように列島に拡がり、存在していたことを明らかに認識した努力は 、今から見れば 素晴らしいものです。

「コロボックル」の名を使い苦労の論議を重ねて真実を探求した当時の事情も認識せずに「おとぎ話」として採り上げず、また、世界人類史の重要な命題である「最初のアメリカ人」問題も学校で教えず、既に北海道ルート説が登場し、 また、2.3万年前のニューメキシコでの足跡発見で、 北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoが注目されてきているのに、関連の紹介本ですら1冊も出版されていない現状は周回遅れというよりも異状です。祖代の最古級人骨・石垣人から復元像も作られ、考古学史上の金メダルである3.8万年前からの伊豆の海の行き来なども明らかになってきています。ロシアなどの言いがかりが強まる前に、祖代・縄文の日本始まり時代についての諸説や論議の現況を、しっかり子供教えねばなりません。

Footprints, found in New Mexico last September has changed paradigm of human migration theory and it was probably on “Kelp Highway” coastal migration.

Especially, spreading to South America from North wasn’t “Express”, but slow local or normal pace. So, it can be said that human started from A-Hokkaido, Japan and /or B-Jakutsk, northeast Siberia in around 30,000 BP by the same migration speed in American coast. Tens of paleolithic sites has found in northeast Siberia, on the other hand 701 ones in Hokkaido, northern island of Japan. http://www.sunda-wind.net/news/10401

米ニューメキシコ・ホワイトサンドにおける23,000年前の少年足跡などの痕跡は、土層の明らかな上下と足跡の関係、そこに含まれる植物種子の年代分析等から信頼性が高い分析報告と受け止められています。問題は、アメリカ学者は、大人と子供の生活における仕事の役割分担の違いといった社会性に着目し重要性を指摘していますが、重要な点の指摘がありません。

それは、1図、最初のアメリカ人は、「A、B、誰が、いつ」小フネで北太平洋沿岸を入って来たのか(最新の定説化)という言わば人類史始まりの最終段階であるアメリカ新大陸への移住、「最初のアメリカ人」問題への関りの指摘の無いことです。実は今回の発見は、それまでの米大陸史を 数千年間 遡らせた点にあり、その重要な意味は、これまで定説だった北米から南米への移住拡がりが「急行」の千年ではなく、通常ペースの白紙的には8,500年間になることで、白紙的だからという事だけでなく喧伝してきたことが崩れて恥ずかしいという事もあるのでは邪推(失礼)します。しかしこのことは重要で、このペースを逆算すれば、例えばAルートの北海道やBルートのヤクーツクを3万年前頃に出発することになり、これも近年DNA研究家が唱えられてきた、ベリンジア(地峡)に早く到着して数千年間もそこに滞留してDNA変化を生じ、温暖化してから入って来たという説も崩れるのです。

しかし、出発3万年前は、Aは青森から狭くなっていた津軽海峡を越えて北海道に進出し、35-30,000年前頃には道東に暮らしてますので、そのまま滞留もなく北上を続けて行ったという実に素直に納得できるものです。Bの方は、バイカル湖地域のしっかり遺跡年代とヤナ遺跡が一時的とも言われていることから考えると、3万年前の集団の暮らしはどうだったかなとなりますが。Aは、図説明の始まりの北部九州への渡海、38,000年前からの伊豆の海の行き来、北海道旧石器遺跡数701など歴史的な基盤はしっかりです。千島列島は次々に島が見えましたし、最大離隔77kmも見えていたので海民は移住できた(既報のルートン族、オンキロン族の石器時代的な暮らしの痕跡もあり)でしょう。Aは海水面上昇数十mで痕跡は海底ですし、Bは現在も過疎で居住少なく開発発掘も限られ遺物の発見は困難ですので、学説化は難しいですが、このくらいのことは学校で教え、日本の状況を世界に発信すべきです。アメリカの議論では、「北海道」は登場してますので。

図左、明治人の東京帝大・鳥居助教授が、人類史最後の大きな謎「最初のアメリカ新大陸人」は“誰が何処から”に関する米国の専門家たちの最新の議論に、長い間の広域のフィールドワーク経験に基づく北千島の遊動海民「ルートン」(第1アイヌ)や東部シベリア・ベリンジア西端の海岸族「オンキロン」などに関する有益な研究成果を携えて参加できるレベルであることが驚きです。更に驚きは、議論を聞いていてそれほどビックリすることもなく、フムフムとうなずくだろうと想像できることです(源の人類が20万年前にアフリカで誕生して世界に散らばり、日本列島へは約4万年前頃にフネで北部九州に来た、DNAというものがある、などには驚きますが)。

明治23年に北千島の現地調査を行い、現地民の自称ルートン(第1アイヌ)の暮らしぶりが石器・骨器を使用し、北部千島、カムチャッカ南部を”遊動”して竪穴住居に住んでいることから、南から北上した「よほど古い」人たちだと認識するに至り第1・第2アイヌ(本道)と命名した慧眼です。北千島調査の直後は、現地民が(アイヌ伝承の)コロボックルは千島で聞いたことがないとの答えから居なかったとしたことが喧伝され、現在も学界ではおとぎ話扱いですが、大正6年には逆に存在の確信に変わり活字で発表しています。特に注目すべきは、シベリア東端(ベリンジア西端)に、やはり石器や竪穴住居の痕跡を残した先住海岸族オンキロンに強い関心を示し、解明の重要性を指摘しています。このことは、どこにも記述は見あたりませんが、「最初のアメリカ人」問題に意識があったのではと思わせられるほどです。図右、昨年9月のニューメキシコにおける古い足跡が、層位・種子等の分析から23,000年前と発表され、崩れていた定説「無氷回廊ルート」ではなく、益々沿岸ルートに関心が強まっていますが、アイダホ州立大Speer博士のNet動画説明でもそれらが語られ、質疑ではHokkaido、日本が登場しています。

研究視野がベリンジアに達していた明治人鳥居龍蔵助教授は、大正・昭和初期に既に現在(2021年9月)の最新の論議に参加できるレベルであった驚きなのです。令和の今、日本では何の説も発表がないどころか、論議さえなく、学校では未だ全く何も教えられていないのにです。現在、なぜこのような状況になっているのか、学界の大きな問題です。

フィールドワーカー鳥居龍蔵・東京東京帝大助教授・鳥居人類学研究所長(自宅)・「総合人類学者」の足跡は、当時、北千島・カムチャッカ半島、長野黒耀石原産地、沖縄、台湾・朝鮮・シベリア・蒙古・満州・シナ西南部・樺太等の各地に及び、後に南米(インカ)にも足跡を残されました。

現生人類は、DNA分析等から30-20万年前にアフリカで誕生、その後、数万年前に「出アフリカ」で全世界に拡散したことなど全く想像もできない時代に、当時大きなテーマだった「日本人とは」の問題意識を堅持され、「第1先住アイヌ・ルートン・コロボックル、そして、樺太から進入の新第2アイヌ」の区別論を唱えられ、ベーリング地峡・ベリンジア西端・アジア側東端のチュクチ族、特に海岸先住オンキロンに強い関心を示され、チュクチ族からの聞き取り内容を単に昔話でない注意すべき重要なことと書き記されました。チュクチ族の内陸狩猟族ですら、元々海外族という意見も貴重な重要さで、そのオンキロン竪穴住居と遺物の研究から、1.竪穴遺物はオンキロン(チュクチ前)の物だと答えた事は、吾人の大いに注意すべきものなり。2.先人をアイヌがコロボックル(樺太アイヌが、トンチ)(北海道祖人系)と言うに似る。3.海豹アザラシを追い漂泊(遊動)・猟漁。竪穴住居(アレウト、ルートン、エスキモー等)、石器・骨器、土鍋・ランプ、ごみ溜め動物骨、4.入れ墨(縄文土偶的)舟は皮製(カムチャ・ルートンは木製)、小舟仲間・シャーマン信頼社会、5.犬で狩り(アイヌ犬は南方系)、無言交易などの特徴把握は、現代視点で重要です。

学者としての慎重さからか、オンキロン貫頭衣の南方性や「最初のアメリカ人」には言及されていませんが、オンキロンに大いに注目すべしとされたやや尋常でない関心を示された記述は、記し得なかった問題意識をうかがわせ、驚きの先進性なのです。現在、2.3万年前の米国南部ニューメキシコの足跡発見で定説が崩れて模索中の世界祖史学界にとっては正に温故知新で、勿論当時の限界から全てが正しい訳ではないですが、今こそ鳥居研究成果に光を当て学ぶべきです。

図左鳥居龍蔵が「よほど古い」と認識し第1アイヌと命名した北千島ルートン(北海道祖人・海民系)が、北上してカムチャッカ半島沿岸からにベリンジアに入って行ったのか?数十m以上の海水面の上昇と万年の年月経過で海岸痕跡は見つかりません。

図右、現生人類の認知性については、一説には海産物を食するようになったので脳力が向上し、南アフリカの海岸洞窟で7.5万年前の穴開きビーズ装身具や線刻( 赤色オーカー彩色を施した物もあり) などが発見されていて、現生人類は、アフリカを出る段階で既にそのレベルの認知力を有して東に西に北に移住して行ったと考えられます。図中のように、装身具は各地で形態に違いがありますが、この地域のどこが最初かは、出アフリカ認知力でその後作り出した物であり、何とも言えません。北海道函館知内町の有名な湯の里4の遺跡と北海道~ベリンジアルート上のカムチャッカ半島の遺跡が、①埋葬にあたり同じように副葬品・装身具を墓に入れていること、②その装身具が極めて形態がよく似ており、東部ユーラシアを見ても他にこれ程の類縁は見られず、また、③湯の里4遺跡の台形石器(赤丸)は、祖代前半(3.5万年前頃)から列島各地でみられたものですが、➃道北、樺太、沿海州など大陸の東部には見られないことなどから、特にその装身具の形態類似から、祖人が伝えた知内~ウシュキの伝搬とみられます。即ち、青森地区は最古土器や芸術的土偶でもよく知られていますが、日本海側、太平洋側、北側の3者が交差する豊かな特質がありました。青森から、知内町~道東~カムチャッカへの北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoの北上のつながりが考えられるルートの痕跡と言えるでしょう。図左下、カムチャッカの中部にまで至れば、後はもう、ベリンジア行きに問題ない「指呼の間」と言ってもよいでしょう。

アジアからアメリカ新大陸への最初の人類の移住ルートは、図左Aオホーツク海沿岸から米臨海北岸のルート、BヤナRHS遺跡が発見されている北極海沿岸を東進するという2ルートであり、巷間本に無造作に線が引かれているバイカル湖~ベリンジアという山間極寒の生活移住 ルート は困難です。

そしてBは、ヤナからの東進は環境と痕跡などから時代は新しく、やはり花綵(はなづな)海(オホーツク海沿岸から米臨海北岸)が有力で、更に言えば進入直前地の痕跡としてチュクチ・海岸族オンキロンが注目です。さて右図、米オハイオ・Kent州立大のマーチン・エレン実験考古学者等は、マンモスの個体特性を踏まえ、有名な狩猟族のクローヴィス石器により種々の実験を行い、石器はスイス・アーミーナイフのような諸作業用であり、マンモスは密集した毛と厚い皮膚・脂肪で守られていて、とても槍投げで致命傷を与えるようなものではないという実験結果を発表しましたが、納得です(依然、マンモスハント説の主張反論ありですが)。エレン等は、せいぜい負傷していたり孤立したマンモスを稀に狩り、多くは死亡した肉の解体であってマンモス・ハンターとは言えないと、欧州・中央シベリアに対しても考えています。以前から、マンモス狩りなんて、「父親が息子に生涯の自慢話として(脚色加えて)するような稀なもの」という学者はいましたが、正に実証されたと言えます。

このことはマンモスの絶滅期まで数千年以上も人類と共存しており、絶滅は温暖化の環境要因が主という最近の研究も傍証です。そうなると東部シベリアにもハンターはいなかった訳で、先に述べたA、B2ルート観と符合する重要なイメージ変更事です。巷間本の①マンモスハンターが北から北海道へ、②マンモスハンターがベリンジアからアメリカ新大陸へは否定され、トナカイと暮らす内陸族と海岸族ということになります。これらのことから、最初のアメリカ人は、①昆布ハイウェイA系‐1・2ルート、②北海道は有力な出発地として注目であり、③2.5万年前頃以前にベリンジアに達していて、➃一時的列島Temporary Archipelagoからアラスカ湾沿岸をフネを使用して進入して行った、と考えられます。問題は、はっきりしないからと学界は教科書に書かず、教育もしていませんが、一方で北からハンターが来たとか、ベリンジアを渡って行ったとか、誤りを教えていたわけですから、論理的に導かれる最新の①~④を先ずは教え世界に発信し、国際共同研究を主導すべきです。

北米における衝撃の2.3万年前の足跡発見で、「最初のアメリカ人」は、それまでの定説を数千年遡らせ、かつ、北太平洋岸の食豊かな昆布ハイウェイをフネで入って行ったと考えられ、複数の米国学者からは北海道ルート仮説も出ています(シベリアのマンモス・ハンター初渡米説は崩れ)。

この人類史のパラダイム変化で、先達の大森貝塚のエドワード・モースと坪井東京帝大人類学教授が北海道の竪穴遺跡と遺物から唱えた前プレ・アイヌ説は、その後、広範なフィールド調査の鳥居助教授も 4要件に合致する事からも 存在を確信し、北千島の第1アイヌ(遊動海民ルートン)だと思うと発表した北海道先住説話のコロボックルは注目です。図下曙海へと北上してきた現生人類は、多くの家族がフネで渡海して約4万年前に北部九州に至り(考古学界の共通認識)、3万年前頃には沖縄から北海道に拡がっていました。つまり列島実証最古級2.7万年前の沖縄・石垣島祖人とあまり違わない祖先の拡がりであったと考えられ(寒冷地適応のモンゴロイド化は未だしていなかった)、後の沖縄・港川人(1.8万年前)は当時の東南アジア・大半島陸地スンダランド・ジャワのワジャック人に類似と言われています。そして、西のスマトラにはコロボックル(蕗の下の小人)かと言いたい種族がともかく現実にいます。

いずれにしても原郷の南方から、特に祖語の共通性で注目される環太平洋の人類史を新たな視点で研究を深化させる事が求められています。子供・学生に紹介し、国際共同研究を日本学界がリードすべきです。「最初のアメリカ人」問題は、私たち日本人についての歴史理解を深めることにもなるのです。

先達の鳥居助教授は、明治32年の北千島調査によって、大森貝塚のモース博士(Edward Morse, 1838-1925)と師である人類学会長・坪井博士(東京帝大教授坪井 正五郎、文久3年(1863年) – 大正2年(1913年))によるプレ・アイヌ(アイヌ以前の北海道先住民)説を、現地調査に基づき否定したと受け止められました。坪井博士が亡くなられ、コロボックル(蕗の下の小人)話は、その後は漫画も出ておとぎ話のように扱われて全く学界の議論の対象になっていません。

しかし実は、図右、鳥居助教授は現地調査の整理等も行い4年後には各地のアイヌ伝承に共通するコロボックル4要件に、北千島第1アイヌ(遊動海民「ルートン」)が符合し、これは軽々に看過できない、つまり明言こそできないものの存在認識に至っていたのです。調査後に言われた「北千島アイヌは、コロボックルなど全く知らなかった」は、落ち着いて考えれば、彼の北千島アイヌ調査助手が話を聞いて怒ったように、小人だとか悪口を言われている当人たちが全く知らないのはありうる、むしろ当然で、逆に彼らこそと考えられるのです。いずれにしてもその後の広域のフィールドワーク研究も踏まえ、大正6年にはコロボックルを学問の対象として捉え、調査後の当初の同調者であった小金井博士とたもとを分かち、師の坪井博士によるエスキモー説も否定し、(コロボックルは存在)、北千島第1アイヌ(遊動海民「ルートン」)であると思うと日本学会で講演し、人類学雑誌に投稿して活字にしているのです。

鳥居助教授の掘り下げた研究は、図左上、当時先進の第1、第2、アイヌ論ともなっていたのです。コロボックルが土器製作の土を求めて本道にやって来たという話も特徴的な具体性ある意義深いものです。さて、現代における諸研究から、コロボックルは第1アイヌと言うよりも、遊動海民「ルートン」(北千島からカムチャッカ半島南端)の祖先と言うべきです。何よりも3.5-3万年前には北海道に拡がり、また昨年9月の米ニューメキシコにおける足跡発見で遡った2.3万年前以前の渡米関わり可能性の北海道祖人Proto-Japanese Hokkaido(伊豆の海を行き来した伊豆祖人子孫)の系統子孫だったであろうと考えられる事が、現下の最新の論点です。ともかく教育に採り挙げて子供・学生に理解させ、世界に発信、研究の深化を。

次のページ

前のページ

↑トップへ