図左上、①世界最初の現生人類の渡海とされる理論歴史考古学上の問題に、遺跡なども発見され定説となっている南ルートではなく、環境などの諸条件の比較分析から、北ルートが容易で可能性が高いと発表(nature2019)がなされています。西パプアでの政争などで、考古学的な研究は従来なされていませんが。
このルートは、世界的に有名な海民のいるスラウェシ島を通るモノで実に納得です。いずれにしても、オーストラリア行きは5万年以前、約90km越えの意図的なものであった(2-3日を竹筏で)と学界では認識されています。②日本祖史の始まりはスラウェシから北上して来たのでしょうか、対馬海峡西水道40km越えはあまり注目されていませんが、約4万年前に家族渡海の造舟・操舟の知力は原始人ではないです。③魚もさばける切れ味の黒耀石を求めた3.8万年前からの伊豆の海の「行き来」は、世界の金メダルです。分析すれば謎ではないです(既報)。そして、これらの事から、青森の竜飛岬と下北からの津軽海峡越えの渡道は問題ではなく、北方4島、道北から北上継続となります。➃千島列島は、3万年前頃の海水面低下でも北を除き今とほぼ同様ですが、砂浜はもっと拡がっていた事でしょう。最大の難所の北得撫・ウルップ水道越え難所が問題で、アイヌは越えていません。出発の知理保以島はラッコ猟、海岸のトドの群れで知られ鯨も来ていました。何よりも新知岳がよく見え、偵察すればヒナゲシ、雲馬草が咲き乱れる、海獣・鳥・卵・海藻などの「昆布ハイウェイ」の食が豊かで、役立つ流木も豊富な処女地。何よりも獲物たちは、人間を全く知りません。
島の広さ230km²は東京ドーム4,900個分で、長い海岸線です。北部湾にはロシア潜水艦隊の基地があったほどです。水道の80km幅(wikipediaでは65km)も既に祖先はオーストラリアへ越えていますし、筏でなく漕いで概ね日中行程。朝早く出て夕遅くに、男たちが整えた拠点に家族で入れたでしょう。この島に行かなかった理由はアリマセン。ともかく千島列島ルートは、次々に島が見えていた食の豊かな所でした。海流は北から南でしたが、島から島へはむしろ横流に考慮することが必要でした。得撫島が新知島へ出て行く基盤となったように、新知島が更に北上する基盤となり得たのです。次の島見えたことや適度に基盤となる大きな島のあったことは幸運でした。最北の北千島を調査した鳥居龍蔵が「アイヌよりよほど古い」と評した北千島のルートン(コロボックル石器人子孫的)・第1アイヌは、旧石器時代人のような「遊動暮らし」の海民で、カムチャッカ南部から南千島迄、縦横に移動して暮らしていて祖人子孫の痕跡をうかがわせ、旧石器遺跡も発見されています。明治期に良かれとなされた色丹島移住でしたが、彼らには霧と寒風吹雪の北千島での遊動暮らしの方が良く、島に返してくれと主張し続けました。ロシア人、欧米・日本学者が、「とんでもない所」(英国のHJスノー:寒い憂鬱で不毛な荒涼、ラッコがいなければ来ない)、と考える地域ですが、昔からの遊動海民の好む食が今よりはるかに充実して得られた「トンデモない所」ではないことは重要です。
露ワシーリー・ゴロウニンは島の人々を、「いろいろな物を食う・1種増殖に励まない怠け者、択捉、松前と全然違う。」、と評したことに表れているように、1種(天候気象悪化の不作で飢餓)に偏らず季節・場所で得られるものを食す縄文人的な優れた生き方に理解がなければ、単に困難とルート認識も間違えます。因みにルートンは、「色丹良くない、ウシシル島(千島の絶景キンバイ草の絨毯に湖のような入り江と中小島)が良い。トド・ラッコ・オットセイが沢山」と言っていました。さて、カムチャッカの後は「米臨海」西沿岸をベリンジア迄(他方、稚内から樺太~オホーツク北岸も)は陸続きで、ベーリング海峡の渡海(途中に島があり40km程度)も全く問題なしです。宿題結論は、「3.5-3万年前からの北海道祖人は北上を継続し、標題の『最初のアメリカ人』に関わったであろう」、です。世界に発信を、国際共同の学術研究を 。