Nature、Scienceeが報ずる最新の南米南西アマゾンのマウンド(小山)の分析から、それまでの認識を覆す驚くべき古さのタピオカ、カボチャなどが発見され、一躍、世界農耕金メダル(11,000年前)候補に躍り出ています。

南米チリのモンテ・ヴェルデ遺跡が、定説のシベリア人がマンモスを追ってベーリング地峡を越え、「無氷回廊が融け」て通路が出来てから入って来て本土・南米アメリカ人になったと言うのを覆し、歴史学界に衝撃を与えました。地域は、山々の沿岸側にはマチュピチュやクスコがあり、この農耕発見は素晴らしく 再びの南米からの歴史界への衝撃です。さて、問題は、北太平洋沿岸を17,000年前以前に「昆布ハイウェイ」沿いから舟で入って来た「最初のアメリカ人」について、多くの欧米学者は依然として何となくシベリア狩猟族のイメージでいます。ホントに舟で入って行ったのは彼らでしょうか、日本学界は、人類移住のルートAの日本列島発地人である「日本祖人」北海道の少なくとも寄与貢献の可能性を、世界に発信すべきです。


コロナ自宅学習は、真実を勉強する好機です。米ハーバード医科大が、アマゾン古部族のDNAがSundaland地域にしか発見できないものであると発表していますが、難問です。この結果が正しいとして、一応の説はA、B、C、Dがありますが、日本の博物館が示し学校で教える日本の始まり3方向渡来図は議論に参加しない論外という、世界に出て行けないことが問題です。

そもそも1万件を超える日本の旧石器遺跡は、始まりのこの3方向図を否定しています。さて、図で明瞭なようにベーリング地峡越えのAが17,000年前以前なのに、Cの太平洋のイースター島へ人類が達したのは紀元後の話なのです。Bのシベリア狩猟族とこのアマゾン族はどうにも結びつきませんし、Dの欧州族もとても考えられません。世界にとって重要な日本の始まりについて、時代の違うものを混在させた3方向渡来図が、世界に誤解を与え問題解決のブレーキとなっているのです。環太平洋移住説(Migration along Pacific Ocean Rim)に光を当て、「最初のアメリカ人」議論にも参加しましょう。


コロナ自習で、真の歴史を学ぼう。約4万年前からの我が国の歴史は、始りの長い時の共通性と渡来した人たちの融け込み吸収が特徴です。いつの世も争いごとはありますが、和をもって貴しと為すで現在に至っています。多くの家族が海を越えて入って来て、文化を育んで花開いているもので、古~い我が国に「先住民族」などという語の無いことが特徴なのです。今や九州にだってなかなか見つかりません。全ての人の人権を尊重し、歴史は真実を語りましょう。「欧米化」を真似する必要は全くないのです。一部に引きずられた誤解の「国会アイヌ先住決議」を正して、歴史の真実でアイヌに幸せを。(資料:的場光昭)

武漢コロナで自宅学習が多いピンチは、チャンスです。先生が教えてくれない日本史を学ぼう。日本始まりの私たちの祖先・「日本祖人」は、2.9万年前頃の姶良大噴火と2万年前頃のLast Glacial Maximum 最終氷期最寒期を乗り越えて、バトンを次の縄文人に繋ぎました。南方から渡って来て、島国でこの長い期間に育まれ熟成された私たちの信仰・習俗、文化の基層が、私たちの特徴の元です。月にロケットが飛んでも、人がそんなに大昔と変わらないのは、武漢コロナの騒ぎを見てるとよく分かりますよね。


武漢ウィルスは、いろいろな事情で地域によって発症を異にしています。我が国の始まり「日本祖代」の痕跡を探る一つに、母から子に遺伝する南方型のHB抗原が知られていますが、第1図、2図を比べてみると不思議な類似がみられます。何なんでしょうね。

4万年前に家族が「曙海」を渡って北部九州に来ました。3万年前には、北海道から沖縄まで「日本祖人」が拡がり、約2万数千年で2代目の縄文人と呼ばれるようになりました。そんな古い祖先のDNA、生き方を色濃く残していることが、HB抗原からうかがえるのです。

スペイン・バルセロナ大のZilhao教授が、ポルトガルの大西洋岸洞窟でネアンデルタール旧人が食した大量の魚介類の痕跡(8~6.5万年前)を発見しました。これまでは少し食べ散らかした痕跡は見つかっていましたが、此処では、魚、カニ、貝をむしゃむしゃと食べていたという事だそうです。

他所では氷床の下で壊れたり海水面の上昇で水没したりで保存されていませんが、此処では土地の隆起があり保存されたもので、他でも見られた事だろうと語っています。海岸から2km足らずの所ですが、痕跡は豊富な石器、炒めた植物、馬や鹿にウナギ、鮫、アザラシ、かに、水鳥など実に多様な食文化なのです。注目は、370kg/m3の量なので袋か籠を持っていたであろうこと、時節によっては貝が有毒な事を知っていたであろうことです。そして、何よりもこれまでは現生人類・新人と旧人の違いとして組織的な海産物の利用による脂肪酸の摂取が、脳の認知力の違いを生み出したと考えられてきましたが、旧人はそのテストをパスしていたという驚きです。確かに岩絵も描きました(6.5万年前)し、仲間の埋葬に花を添えてもいます。

翻ってアジアでの初期新人の拡がりと暮らしは、Sundaland/インドネシア、第2図フィリピン、台湾、第3図伊豆の海辺などに示されているように沿岸地域と河川の遡行からです。今回の発見は、実は洋の東西を問わず遥かに大昔から普通に沿岸地域が使われていて、漁労採集と狩猟を共に生業とする暮らしが行われていたことを窺わせるものです。そしてその後は、漁労採集と農耕が共に沿岸地域で生業になる訳です。沿岸は痕跡の発見が困難ですが、欧米学者の目が沿岸にも向くことは大変よいことで、狩猟族に偏っていたものが正しい人類像に近づいたと評価しています。

世界史上の金メダルである「38,000年前の伊豆の海の行き来」を今もって学校ではしっかり教えていません。「日本祖人」が、東京都神津・恩馳島の黒耀石を求めて伊豆の海を行き来した事は、関東・東海で発見された石の原産地特定と年代測定により驚きをもって確認されました。その余りの古さと距離(石廊崎~恩馳島、約55km)から、かつて朝日新聞が「謎」として発見の事実を報じたこともあってか、この偉業はしっかり教えられていません。

第1図、当時は海岸線が100m近くも下がっていて島がかなり拡大(大島を除く)しており、流れは今と逆に北から親潮分岐流があったと考えられ、最適の行き来は図のように、河津~恩馳島から徒歩えい航~大島~河津の三角形進路が考えられる(最短直路は10数km)のです。行きは太陽、帰りは伊豆の山並みで方向も維持しやすく、伊豆の山は造舟の木材で有名な地ですし、何しろ九州へ家族で海峡を渡って来たことがはっきりしてきた海の民の子孫ですから、昨年の「3万年の航海」の苦労に比べればず~~と容易でした。問題は、更に1万年も古い大昔ということに、九州渡来も伊豆の行き来も大きな声で言うことをためらわせたのかもしれません。
ところが、第2図、英ケンブリッジ大などのチームが、フィリッピン・ルソン島Callao洞窟の発掘で67,000年前と出た石器群を発見しました。

そして、その古さの石器群は、これまでの認識を改めねばならないだろうという祖先の製作の知力が窺えるのだそうです。他方、私たちが注目すべきは、①Sundalandからルソン島へは2~3度の渡海を要すること、②そうであるなら、ルソン~台湾間250kmには3個群の島々が見えて有り、③東側は黒潮流が押してくれますので、渡って来れたことです。即ち、「日本祖人」の知力と経験が、今や実証的に得る分かるのです。九州渡来や伊豆の行き来は、「謎」や不思議ではなく十分考えられるのです。そして、狭くなっていた津軽海峡を鼻歌で越え、暮らしに適応しつつ択捉島まで北上して行ったら、その後の千島は食豊かな処女地が次々に見えていました。先生、不思議ではない可能性を教えましょう、フィリピンからアメリカまで。


人類史最後となるアメリカ新大陸への進出です。ハーバード医科・コペンハーゲン・アラスカ・カンサス各大学が参加した2個のチームが、それぞれ米大陸で幅広くDNAを分析し、1万年前と現在の先住民に繋がりがあること、新大陸で独特のDNAや文化の多様性が生まれたこと、2.5万年前頃のベーリング地峡における滞留(Standstill説)などを明らかにしました。また、1.3万年以前に北米から南米に急速に、そしてその後に大きな移動を伴って拡がっていた事も明らかにしています(Science2018から)。実は今や大きな謎は、②何故、ブラジル・アマゾン地域に豪州地域と同じ古い(10,400年以前)オーストララシア人のDNAがあるのか?というものなのです。

南極に氷が無かったのは遥かな1500万年以上昔の事ですし、人類が太平洋に漕ぎ出したのは高々3,000年前に過ぎず、最も米大陸に近いイースター島に達したのが数百年前ですから話になりません。無論、こんな時代の大西洋横断説なんて、まともな学者は相手にしていません。最初はハーバード医科大が、古アマゾン族のDNAを分析してこの結果を得て、ともかく米新大陸にはシベリアからと思っていましたので調べましたが、シベリアに全くこんなDNAを発見できなかったのみならず、アジアいや北米にすら発見できずに驚かされました。で、「太平洋を渡って来たんじゃないの」と冗談で記者をかわしましたが、結果を受けた歴史考古学界は訳の分からないアタマを抱えることになりました。①無氷回廊が開く頃に遠い南米チリのモンテ・ヴェルデに登場していたのは「沿岸の道」からという事で既に理解されています。すると、豪州・ニューギニア、黒潮・日本列島、日本祖人は伊豆の海を行き来し津軽海峡を渡って32,000年前に北海道、食豊かな昆布ハイウェイ処女地が千島、カムチャッカ、・・・と続き、そして「沿岸の道」と考えて行けば、ムリなく出発地として北海道が浮かび上がります。

つまり、北海道は昔、シベリアのハンターがマンモスを追って樺太から南下して来て始まったいうこの国での説明の誤りが、北上を続けてベーリング地峡や南米にまで拡がったかもしれない可能性に目をふさぎ、世界に北海道の意義を認識させていない大きな理由なのです。しかも鎌倉時代からのアイヌという論外の誤解が拡がったままなのです。米新大陸はその後、基本的にはシベリアの狩猟族が、無氷回廊が開いてからの米モンタナ州Anzikの子供人骨と同系のDNAを持って、スピード良く南米にまでも拡がったものですが、南米における①②の発見などから沿岸の道が注目され、それは北海道が鍵である可能性も示しているのです。日本学界の世界に対する発信が求められています。


第1図、Sundaland/インドネシア・スマトラ島のLida Ajer遺跡で発見された人の歯の分析から年代が推定され、またスリランカでの発見よりずっと古い熱帯雨林への適応も確認されました。現生人類の出アフリカから、東進して印~Sundaland~豪州、北上して台湾山地沿岸~北東ア平野沿岸~渡海して九州(約4万年前)~北海道・沖縄(3.2万年前)です。

西太平洋沿岸の人々の渡来による、列島における一方向性の北上拡がりと時代の長期さ(約2万年)から基層の文化・習俗と言ってよいでしょう。そして第2図、注目の「最初のアメリカ人」に関しては、先住NativeインディアンのDNA分析から、2.5-2万年前からベーリング地峡で滞留暮らし(Standstill)の後、温暖化した18,000年以前に舟で昆布ハイウェイ沿岸から南下して入って来たと考えられています。従ってシベリアからだけでなく、舟は得意の北海道「日本祖人」が食豊かな処女地に北上を続けなかった理由もなく、ベーリング地峡に参加した候補です。さて第2図下、現生人類のアフリカにおける誕生(30~20万年前)から南米南端に到達するまで、「いつ、どこ、どのように」が一応描かれることと成りました。なおこの中で、Sundalandからの時計回り環太平洋の移住を「MPOR仮説」として提唱して来ていますが、痕跡が増えており有力と考えています。


インドで8万年前からの石器群が発見され、現生人類の移住史の抜けていた重要な中間ピースが埋まりました(Nature communications)。

第1図、発掘は豪・印・米英加の15名の研究者が、印中央部のDhaba河岸の斜面地域で3ケ所同時期に、川面の22m上から地面を掘り下げて、4万年前に至る豊富な石器群を得ました。豪シドニー近くの大学における赤外線年代測定IRSLにより、状況が明らかにされました。注目すべきは、①東部アフリカ、インド、豪州北部の石器の類似性です。これにより現生人類の出アフリカ(10~8万)、東部アラビア、東進してインド(8万)、インドネシア・スマトラ(7.3万)、豪州北部(6.5万)という早い東進が確認されたこと、②第3図、橙色線の沿岸・河川沿いの移住ルートが確認されたこと、③7.4万年前のインドネシア・スマトラにおける史上最大のトバ大噴火でも、インドではそれまで考えられていた“噴火の冬“などはなく、人々の人口は着実に増えていることが確認されました。

実は、大きな成果を手に出来たのは日本かもしれません。出アフリカからSundalandまでの「東進」が時期も含めて確認され、フィリピン(6.7万)・ラオス(6万)、台湾5万、九州4万、北海道・沖縄3.2万の沿岸ルートでの拡がりが繋がります。明治以来の学者が感じていたルーツが南方沿岸であることもはっきりしました。そして、第2図、北海道「日本祖人」が「最初のアメリカ人」候補であることも、出アフリカからの東進・北上の流れの中で位置づけられることになりました。巷間の書籍、博物館等の日本人のルーツは、第1図の誤解を与える①②③などではなく、はっきり”北上“に訂正が必要です。そもそも祖先の事、私たちのルーツに直結するアジアのこのような有意義な発掘に、日本が参加し得ていないことが問題です。そして、子供たちにこれらのことを教えなければなりません。


(豪国立大の若手Shimona Kealy博士は、自国の祖先(先住民アボリジニの先祖)史を探り、海を渡った最初の豪州人は当時の環境を分析すれば第1図、定説と違って北ルート(赤)の可能性が高いと発表しました。そしてその時期については、地域の該当時代の状況から海面が最も低く(7~4.5万年前の間で)陸地が拡がっていた65,000年前(既発表の豪北部遺跡の最古年代やフィリッピン最古遺跡の可能性ある年代)と考えられるとしています(The Guardianに掲載)。

人類が、はっきり数十kmの海を越えた例として世界史上の金メダルです。他方、第2図、3.8万年前に黒耀石を求めて伊豆の海を越え、東京都・神津村恩馳島に渡っていた伊豆「日本祖人」は、はっきり「行き来」していたことで世界史上の金メダルなのです。関東から静岡で発見された黒耀石の原産地分析で恩馳島と分かったときは驚きを与え、新聞はそんな大昔の行き来は「謎」と報じました。しかし、南方発の「日本祖人」であること、Kealy博士と同様の分析によって当時の親潮分岐流も考慮すれば、桜名所の河津(縄文の黒耀石工房・見高段間遺跡)~恩馳島~伊豆大島(縄文・下髙洞遺跡)~河津のルートはムリが無く謎でないことが分かります(日本祖代研究会)。

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そして、北上を続け降雪寒冷に適応しつつ津軽海峡を鼻歌で越えた北海道「日本祖人」が、「舟で食豊かな昆布ハイウェイ沿岸から入って行った最初のアメリカ人」(最新説)の候補であることは、謎でも何でもありません。日本人のルーツを大陸だと言ったり、北海道へは沿海州・樺太の方からマンモスを追って狩猟族が南下して来たなどという始まりでないずっと後の時代の説明では、理解できません。Sundalandからの豪アボリジニ、日本祖人は同系の西太平洋沿岸の民であり、最初のアメリカ人(Nativeインディアンの祖先)の候補なのです。


当時は氷河期で①ベーリング地峡Beringiaのほか➄まで、「米臨海」に北極海の冷水が流れこまない、氷床と昆布ハイウェイが重要な今との主要な違いが幾つかありました。最も寒かった時代Last Glacial Maximumも含まれます。考古学やDNAの分析から、北太平洋沿岸を舟で入って来た、北米氷床のために暫くは南下して入れず、ベーリング地峡で数千年間の足踏みの「滞留」をしていたと考えられています。

さて関係候補は図左のA,B,Cとなります。不思議にも全く的外れのアイヌの名が出たりしましたが、Hokkaidoとはっきり書かれたのをまず見ないのです。これは、一に日本学界の問題でしょう。それは多くの歴史本、北海道紹介本が、その始まりを沿海州・樺太からマンモスを追ってシベリアの狩猟族が南下し入って来たという時期の違う誤りを書いており、論外である鎌倉時代からのアイヌが世界の論議で出ても訂正努力をして来なかった事にもあるのです。3万~1.7万年前の焦点時代に、「どのような事がBeringiaであったのか?」は重要なカギと世界の学界では考えられています。単独であるいは混じり合いで種々の事が考えられますが、北海道「日本祖人」が除外される理由など有りません。十勝・千歳・遠軽白滝など遺跡遺物は、A、B、Cでは群を抜いて充実です。

伊豆の海を行き来していた日本祖人は、「舟で来た」新説にもピッタリで、食の豊かな昆布ハイウェイも応援しています。

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他方、東シベリア・ルートは、近年でも―60℃で2名が亡くなった厳しい環境です。シベリア狩猟族が、海の民系の日本祖人を駆逐した可能性は有りますが、A北海道が、この問題に関わらないとは考えにくく、除外される明確な理由は見出せず、単に日本側の発信が無いためとしか思えません。参加の無いところに何の学問成果もあり得ませんので、学界の本件に対する積極参加を切望します。ところでアフリカを出た古い現生人類の一例写真を付けましたが、皆さんは、A,B,Cから最初のアメリカ人をどう考えられますか?


明治~戦後の歴史関係者は、現代に残る諸痕跡から日本人のルーツは南方だとしていました考えていました。その後のDNA分析からアフリカ単一説、1万件を超える旧石器遺跡の発見状況、環太平洋語族説などはこれを益々実証しています。「昆布ハイウェイ説により、今やアフリカ~Sundaland~日本列島~米新大陸南端まで、①千島列島は次々に見えて行けた、②ベーリング地峡沿岸は、北海道とあまり気温に差が無かったことなど、一応のHuman Great Journey が描けるに至っているのです。

しかし、何故か近年の日本の教室ではこのことがボカされ、むしろ「大陸」を強調する誤った教育も見られます。従って、今世界が注目する「最初のアメリカ人」問題に日本から声が挙がっていません。無論、数万年前からのことであり、よく分からないという学者主張も分からないではありませんが、子供たちが日本祖代・祖人について全く教育を受けず、祖先が“原始人”イメージの繋がりの無い人たちであるかのように扱われているのは不適切・歪曲と言うより異常です。縄文時代・人の研究なども進んでいて、基本的な知力素質は私たちとあまり違わないと判断され、ただ自然と共生する“素朴な”暮らし振りであっただけという認識になって来ています。まずは、北海道「日本祖人」を世界の「最初のアメリカ人オリンピック」に参加させましょう、世界に声を挙げましょう。因みに、次代縄文人は記録突破に至らず、鎌倉時代からのアイヌは論外です。


つい去年の一流新聞の記事ですが、「日本祖人」はもとより、縄文人も含めた日本先史理解が支離滅裂です。日本祖代研究会の「最初のアメリカ人」研究報告のせいなのか、縄文時代を古く遡らせて来ていて「16,000年前から」(最初の土器出現)となっています。この時期は、“縄文”土器は出現しておらず「日本祖代」との違いである列島における定住・土器・弓矢の一般化などの変化も未だ無いのにです。

さて、記事の支離滅裂は、「日本祖代・祖人」の概念がしっかりしていないためでもあり、まず見出しと本文が不整合です。そして焦点である日本人は「どこから・いつ」について、「大陸」は誤解を招く誤りで図のように「沿岸」であり、始りの起源に幅などはなく「約4万年前」なのです。そして、驚きは弥生人が外人扱いです。近年、稲作や鉄と弥生土器の時代について、渡来・難民又は交易する海民縄文人がもたらしたモノで採用されて逐次に拡がっていきますが、縄文人と渡来・難民の時代であって、縄文人が“弥生”土器を使っていた側面もあり、そもそも「弥生人」などという者は居たのかという論も出て来ています。日本人がスタバコーヒーを飲みマクドを食しジーンズをはいてコンクリートアパートに住んでいるという訳です。

いずれにしても記事が、「縄文人の祖先」としか 言えておらず「私たちの祖先」の「祖人」概念の無い事 は大きな問題なので す。オリンピックのお客様はもとより、子供たちに我が国始まりの日本祖代の祖人について、”原始人”などではない造舟操舟、陥し穴猟、釣り、広域の交換(易)などや渡来・難民を吸収し姶良大噴火を乗り越え、切れ目なく次の熟成の縄文時代にバトンを継いだ事、まあ、江戸人が明治人になったような(縄文末期は遥かにずっと国際結婚が多かったですが)ことを教えねばなりません。そして、記事は縄文人を「まで暮らしていた」と終わったように書いてますが、とんでもないことでバトンを継なぎ名が変わっただけの事です。オリンピックの機会に、しっかり 右上枠内の 日本先史を伝えましょう。

第1図、ルソン島北部のCallao洞窟遺跡(比の最大最長洞窟)で7~6万年前の地層(2.7地下)から人による切り傷のある動物の骨と人の中(足)骨が発見されました。人々は、熱帯雨林とは違うサバンナ環境で大型動物を狩猟しており、東南アジアの多様な環境への適応例として、また、そこに至るにはスンダランドから2~3度の渡海を要したことも注目されています。

新人とみられ、この時期が、現生人類のスンダランド進出7万年以前や豪州への6~5万年前進出、更には出アフリカの時期認識にも影響が及びます。我々にとって重要な事は、このことにより第1図パンカル海東側からバシー海峡の島々を経て台湾山地沿岸に達することは難しくない事から、2つのルートで「曙海」南端に入って来れます。即ち第2図、比6.7万・ラオス6万―台湾5万―北部九州(対馬~五島)約4万―謎ではない伊豆の海の行き来3.8万―狭かった津軽海峡越え―北海道3.2万―千島列島越え(見えていた最大70数km)―「米臨海」沿岸・昆布ハイウェイ移動―アメリカ新大陸進入 1.7万年前以前 、という世界人類史がムリ無く理解できることです。日本人のルーツは、西太平洋「沿岸ルート史観」を強く支持するものなのです。

そして 我が国の歴史の理解のためには、 「沿岸ルート史観」と共に、やまたい国、大和王権から中世・近世の歴史における「海の民」性に、もっと光を当てるべきなのです。まずは子供たちに、「我は海の子」をしっかり歌わせなければなりません。


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