米スミソニアン博物館Douglas W. Owsleyなどのチームは、1996年に北米ワシントン州とオレゴン州境のコロンビア川畔で発見され裁判沙汰の大騒ぎとなった「ケネウィックマン」について、制約された条件の中で、頭蓋骨などほぼ全身がそろったモノの分析を続け、結果がスミソニアン誌に掲載(2014年)されました。

170cm、72.6kg、40歳で、驚きは肋骨が6ケ所も損傷し、腰骨には若い時代に打ち込まれた槍先の石器を残しながら、アラスカの方から480kmも離れたコロンビア川の方に交易で来ていたとみられ、自元の人々に受け入れられて丁寧に埋葬されていたようです。食が アラスカの アザラシ、トド、魚で、飲み水は高山の氷床が融けた水であり、コロンビア川人でないことがはっきり分かりました。更に、右利きで銛を扱って魚などを取っていたことや水に入っていた「サーファー耳」であることも分かり、顔相・頭骸骨(南方系長頭)からポリネシア人がイメージされましたが、直接の太平洋横断の渡海は有り得ず、縄文人、アイヌ(鎌倉時代に樺太から来た種族で本件には無縁が知られていない誤解)の名を挙げています。

そして、現代の先住民Nativesインディアン(主に内陸の無氷回廊通過のシベリア狩猟族系)と似ていないということは沿岸系であり、右図約4万年前の北部九州から北海道~千島・カムチャッカ~ベリンジアルートで早い段階で日本列島から入って行った祖人系またはその後の縄文系の子孫であることをうかがわせ、いずれにしても日本系をうかがわせる大変重要なものですが、全く学校で教えられておらず、巷間本にも見当たらない酷さです。子供に教え、オリンピックの世界に発信です。

*遺跡は、メキシコ地元の大学に(英)ケンブリッジ大学が参加し、あの科学誌Natureが報じていますので、トンデモとは言えません。

しかし、①これまでの考古遺跡を①1.5万年(倍)も遡るので衝撃であり、確かに石器が3万年もあまり変化がないのが違和感、狩猟されたり食されたりした動物骨の人工傷など、他に人の関与をうかがわせる物がないなど否定的な学者の意見も出ています。実はそのほかに3万年前となると、②学者が一般に考えるシベリア・ハンターのこの時代の進出北限とシベリア人跡未踏問題があります。北極海に面したヤナ川河口に3.2万年前頃のヤナRHS遺跡がありますが、一時的な単発遺跡とみられ、その後東方に移住を続けてベーリング地峡に達した連続をうかがわせる痕跡は全く無いのですから、メキシコどころの話ではありません。

では、原点の出アフリカから考えれば、スンダランドから東進を続けて豪州へ、③A北上して北部九州へ約4万年前に渡海して来たことが分かっています。インド北部・ヒマラヤ南方から内陸のA‘ルートを遺跡痕跡から挙げる学者もいますが河口から遡行した痕跡を連ねた線とも考えられるほど、河川山地の厳しい地形と猛獣大蛇に昼夜の寒暖などで出アフリカ黒人には大変なルートなのです。この時代は、内陸東進のBルートが無かったことが重要で、バイカル湖地域遺跡の人骨も東アジアのモンゴロイドの北西進とみられています。従って、A曙海沿岸を台湾山地から北上し時計回りに北部九州に来たA・A’の似たような人々が、「日本祖人」Proto-Japaneseとして沖縄に南下し(1.台湾から同様の種族だが、台湾痕跡はその後消された)、北海道に北上した日本列島圏の始まり時代の状況を、1万件を超える旧石器遺跡(2.特に黒耀石の採取と交易)が示し、北海道の遺跡は3.5~3万年前という古さの拡がりです。

更に、3.北太平洋圏は、食の豊かな昆布ハイウェイKelp Highwayに沿って、千島・オホーツク、ベーリング地峡南岸の「一時的な飛び飛び小島の列島状態」、今に残る北米・北西海岸の痕跡など、東南アジアのSundalandから太平洋沿岸を北上して日本列島~千島・カムチャッカ・ベリンジア・北西海岸と、重要な北海道が3.5~3万年前であり、一応3万年前メキシコも荒唐無稽ではない状況なのです。無論、海水面の上昇で痕跡は海面下、DNAは今の先住民に痕跡を伝えずという解釈ですが。つまり、700件の旧石器遺跡を有する人跡未踏でない北海道が、世界の日本の史界でしっかり認識されていないのです。この環太平洋の繋がりは、元日本言語学会長の松本克己博士の言語系統論により支持されているのにも拘らずです。子供に教え、オリンピックで世界に発信です。

アフリカで30-20万年前に誕生した現生人類は、認知力を着実に向上進化させていき、出アフリカ後の5万年前頃からの遺物に特に目立ち出して学界では注目されています。 各地に拡がった その一因は、1図鳥の渡りで、これを現生人類・新人が認知したであろうことは重要でしょう(当時の渡りの鳥種、ルート、態様に違いがあったにしても同様)。

原郷の東南アジアSundaland地域から北上しての北部九州への渡海と列島拡がりも、人類の北太平洋沿岸からのアメリカ新大陸への進出(食豊かな「昆布ハイウェイ」のお陰だけでなく)も、鳥の導きがあったお陰も重要と考えられ各地の伝承がこれを示しています。2図何故か日本では、世界現生人類史における北海道の重要性が等閑に付されています。700ケ所にのぼる旧石器遺跡が示す北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoの「最初のアメリカ人・先住民」との関りの可能性が今、世界の学界では注目なのです。子供に教え、オリンピックの世界に発信を。

1図人骨頭蓋を分析し人の近縁性を調べると、世界遺産の青森・北海道の縄文人は、①インドネシア・スラウェシ(旧名セレベス)島人が最も近く、②ミヤンマー・チベット・ネパールが次ぎ、何と③現代日本人よりそれらが近いという驚きの結果に先生方の解説は何も有りません。

しかし、既に本欄報告の右図のように、セレベスは出アフリカ後に東進した現生人類のインマレイドが北上に通過した原郷で何の驚きでもなく、ミヤンマー・チベット・ネパールなどもインマレイドが北上したか、一旦セレベス方向から大陸に入って行きその後南下したモンゴロイドに山岳地に追い詰められて古い痕跡を残していると考えれば不思議でなく理解できます。大陸北のモンゴロイド南下の混血影響を受けた③現代日本人よりそれら①②に近い理由も分かります。2図は、ブラジルの万年前の古人骨女性ルチアが、何と豪アボリジニやアフリカ系であり、また、アマゾン3古部族のDNAが、南・北アメリカ、シベリアなどの途中に全く見当たらず、やはり豪アボリジニ・ニューギニア・アンダマン諸島人などに近いという驚きの結果に、ハーヴァードの先生もやって来たんじゃないのと苦笑いの冗談コメントですが、太平洋のハワイ・イースター島などへの人類移住は紀元後の話ですから、アリエマセン。

しかし、これもセレベス系の北海道祖人Proto-Japanese Hokkaido・北部千島ルートン地域人とその子孫が、昆布ハイウェイ沿いに太平洋沿岸を南下して行ったと考えれば理解でき、同じ言語圏である(松本克己博士)ことも支持します。問題はこれらの事が子供に全く教えられず世界に発信されていないことで、人類史に貢献していないと言うより、もはや自由な論議の阻害になっています。オリンピックで抜本改善し世界に発信を、ウポポイ予算をこちらに。

図左約20万年前にアフリカで誕生した人類が出アフリカを果たし東進、インド・東南アジアの①沿岸・雨林生活で身体変化を生じ「インマレイド」(X)となったとみられますが、これを「古モンゴロイド」と学界が呼称しているは誤解の元です。

モンゴロイドよりもはっきりネグロイドに近かったでしょう。このインマレイドの北上が始まり時代の東部アジアであり、「A」と「移住困難ルートのA‘」があったにしてもいずれも南方系人が、②約4万年前に「曙海」時計回りで北部九州に渡海(多く旧石器遺跡と38,000年前の伊豆地域の痕跡から)して来て、沖縄へ南下、北海道へ北上です。そして③このA,A’の言葉が、環太平洋言語圏(元日本語言語学会長、松本博士)で、南北アメリカと共通性のあることが重要です。つまり始まり時代のA、A’系が、ベーリング地峡を越えた「最初のアメリカ人・先住民」関りを示しています。これらの事と同時に、④出アフリカ後に北上し、シベリア南部を東進した種族がアジア東部にまで至った継続的な痕跡が無く、北部九州への渡海に関っていない事を示しています。このように初期の東アジアに人類が拡がった後、図上Y:降雪寒冷に適応し、身体変化したモンゴロイドが生まれていきました。

そして始まり時代が終わると⑤ 日本の北と西から大陸の細石器文化が流入し 、「モンゴロイド南下」は やがては東南アジア地域にまでの長期・広域の大影響です。但し、日本史で は人の大きな入れ換えはその後も無かったと考えられています。この始まり時代約2万年間強の「祖代」と縄文時代は、列島文化の基層と言えるもので、習俗・信仰等を形成し、その後流入してくるモノの取捨選択に影響を与えたと考えられます。これら人類史、日本先史を踏まえて図右Martin線で、a.マンモスとb.狩猟族ハンターとc.北海道の歴史の関係が明らかとなり、旧石器遺跡の状況からも青森祖人の北上と拡がりが北海道の始まりであることが明らかです。そして、北海道祖人の北上継続でd.北部千島ルートン地域人、e.「最初のアメリカ人」関りなどが、今、注目なのです。この北海道の始まり史、特に北海道祖人・ルートン地域人のアメリカ先住民Nativesへの関り可能性と辛苦の北海道開拓史が重要なのです。子供に教え、世界に発信を。


1図P.Martinの研究は興味深く、「最初のアメリカ人」に関わる時代のシベリアにおける動きを明らかにしています。

2図に拡大していますが、マンモス・ハンター(狩猟族)の活動の北限とマンモスそのものの南限が線で示され、極北は出アフリカの新人が進出し得ておらず、ハンター無し地域になっています。実は東部シベリアの北極海に面した地域には、ヤナRHS遺跡(32,000年前)がありますが、一時的なモノとみられていますので、Martin の認識でよいでしょう。他方、シベリア居住の有名なマリタ遺跡(23,000年前)では、 Mattewsによれば 実は発掘の殆どがトナカイの骨であり、マンモスは数%ですのでマンモス・ハンターと言うのはミスリードです。常に実証慎重を強調する学者先生が、何故か北海道史の始まりを北からマンモス・ハンターが入って来て歴史が始まった ように印象付け記述しているのは問題です。 マンモスは、数少なくずっと古い物と認識すべきで、「マンモス・ハンターは来なかった、青森祖人が狭くなっていた海峡を越えて北上して来て拡がった」とはっきり訂正すべきです。

すると2図では、「一時的列島」(Temporary Archipelago:米伊3大学研究と命名)から1.7万年以前に、フネで入って来たと考えられているために、「誰が」青点線の沿岸をベリンジアに北上して行ったのかとなります。図右のA.次々に食豊かな島々が見えた千島を北上したルートン遊動海民(北部九州への渡海、伊豆の海を行き来した祖人の子孫)、B.シベリアからカムチャッカ南部に進出していた可能性あるハンターが沿岸暮らしに切り替えて北上、C.海民とハンターの混合が考えられますが、いずれにしてもルートン海民の造舟・操舟のノウハウは重要だったでしょう。ルートン地域人の研究が重要な所以です。3図は、「最初のアメリカ人」の検討で、シベリア、アラスカの関連遺跡が各々十数ケ所というレベルに対し、700ケ所の北海道が軽視されている現状は日本学者の問題です。そして、ベリンジアによって北極海の冷水がSTOPしていたので、「米臨海」は正にハワイに繋がる海であった事も、シベリア寒気の厳しい氷河期のこの時代の検討に当たり重要な事です。子供に教え世界に発信し、国際共同研究で解明すべきです。


世界(新)人類移住史の最後の謎「最初のアメリカ人・先住民」First Americansは、大きな話題で研究も新たな内容が続々と出ています。

①1図では、これまでの議論の内容、どういうルートが論じられて来たのか、現在はどれが有力かと丁寧に説明され、沿岸説を支持しています。②生徒もアメリカ先住民の歴史という事で学んでおり、サイトでは近年の新たな発掘遺跡が紹介されています。特に、学界に衝撃を与えたのが赤丸南米モンテ・ヴェルデの14,500年前の遺跡です。と言うのは、③シベリアからベーリング地峡を南下して氷床が融けた「無氷回廊」から米国に拡がったという定説よりも古い遺跡だからで、北米でもいろいろ発掘されています。融けても草木が生え動物が動き人がそれらを食しながら移住できるようになるのは、早くて13,500年前くらいだろうとみられるからです。そうするといろいろなルートを検討しますが、やはり④北太平洋沿岸ルートが浮上します。⑤最新の研究でもベーリング地峡南岸には、当時の海水面低下で小島の連なり(temporary islands)が出来ており、その小島伝いに、昆布ハイウェイ沿いに東進したと考えられています。そして有力な理由が、⑥食豊かな「昆布ハイウェイKelp Highway」であり、魚介類のほかに海獣、鳥・卵などが豊富なしかも獲ることが簡単な処女地があった事です。

こうなると、⑤それまでのシベリアのみならず、沿海のアリューシャン列島と千島列島が注目され、それまでと違って図を見てもちゃんと来れそうなモノになっています。アリューシャン列島の遺跡は東から西への移住を示しており、カムチャッカの方から渡海するなら約400kmですので当時はムリだったろうと思われ、米国の学者には「北海道」を指摘する者もあらわれて来ています。ルートを更に検討すると、⑦図の青森~北海道から北上の祖人系「遊動海民」である「ルートン(占守島)地域人」(アイヌではなく、オホーツク系でもない)が注目されます。祖代(旧石器時代)・縄文時代のような暮らしぶりで、明治30年代に調査に行った鳥居龍蔵を驚かせた人々で、今、考えればアイヌ伝承の北へ逃げた小人「コロボックル」を思わせます。最初のアメリカ人問題は、実は始まり時代の日本問題であることがよく理解されていない周回遅れです。子供に教え世界に発信し、関係国の共同研究をという事です。

右上1図米国学界では、「最初のアメリカ人」に、既に北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoの関りが出ています。

更に深堀りで注目すべきは、その下図のルートン地域人で、千島湖地域のカムチャッカ半島南部から北千島地域に住んでいました。明治8年(1875年)の樺太千島交換条約で、半島側と北千島側に分けられ、ロシアの半島側の人々は結局、半島の南西部で、日本側は色丹島に居を移しましたが現在は日ロ地域の人波の中に消えて行ったようで、辿れないとみられていますが。そして北のカムチャッカ中央部のウシュキUshki遺跡(13,000年前)が、石器などでアラスカと繋がっているのみならず、道南函館地区の知内町遺跡(約2万年前)の墓の副葬品との類似性が注目されており、北海道祖人、ルートン地域人が進出していたことをうかがわせ、カムチャッカ半島中部迄もとなれば、もうベーリング地峡へは指呼の間ですから重要で、「最初のアメリカ人」に関わっていたと考えられます。

図左、明治時代に北千島の調査に当たった鳥居龍蔵の「アイヌより古いかも」は、①人類がアフリカ発で日本列島にやって来たなんて想像もできなかった、②縄文時代ですら分からなかった時代に、慧眼の調査所見です。石・木・骨・土器の道具を使い、縄文的な竪穴住居に住み、当時の外国人が「未開」と報告した旧石器時代的な「遊動」海民の暮らしぶりから、ムリなく導かれた直感は妥当です。アイヌ伝承のアイヌに追われて北に逃げて行った小人「コロボックルであろう」と報告していれば完璧だったのです。更に、東京大学名誉教授自然人類学者の埴原和郎らの図左下、頭蓋形質分析によるルートン地域人は、「北のオホーツク人と最も遠く、北の影響を受けているアイヌ、本州人とも離れている」という事は、約4万年前に北九州に渡海して拡がった日本祖人の北上系であることを示す極めて重要なものなのです。

1.南方から北上した祖人系の人々、2.カムチャッカ半島中部にまで関わっていたとみられる人々、「遊動」海民ルートン地域人は、ベリンジアに行っていておかしくない、アメリカ先住民祖先に関わっていておかしくない、今、注目の痕跡なのです。子供に教え、世界に発信、ウポポイ予算から充当して更なる国際共同研究による解明を。

世界人類史「最初のアメリカ人」については、1図(赤い線で日本列島を通過)、今では関係の米国学者の7割方が「最初のアメリカ人沿岸進入説」に様変わりで、北太平洋North Pacific、日本列島Japanese Archipelago、北海道Hokkaidoが普通に出て来ています。

12年前からオレゴン大のErlandson博士は指摘していますが、孤立的だったようです。そして、沿岸移住説と同じである食豊かな「昆布ハイウェイkelp highway説」で、何とか話が広まって行ったと自嘲気味に話しています。博士の思い出話を聞いていると、「ケンジ、(北米で発掘された石器は)どうかね?」、「ええ、(北海道のと)よく似ていますね、そっくりです」というのがありますが、留学か調査研究で渡米していたケンジさんが、日本でしっかり沿岸説を紹介した様子は、残念ながらないようです。日本では、学校はもとより、書店・図書館、youtubeでも始まり時代のこの沿岸進入説、北海道・千島列島の重要性を見ることがない、周回遅れの状況です。

2図2013年出版本の中にこの問題も入っていますが、図下シベリア、カムチャッカ、アラスカの遺跡状況が俎上にのぼりながら、図上の充実遺跡の北海道が全く考慮されておらずに参加が無く、興味深い遊動海民の「北部千島ルートン人」(アイヌではない)が居た千島列島ルートも載っていない酷さですから、「参加」を訴えてきましたが、日本はまだこの状態で眠っているような周回遅れです。こういう説があると学校で教えなければ何の世界寄与も今後の発展も期待できないままです。最初のアメリカ人問題は、実は最初の日本人問題であることがしっかり理解されていないために、予算の充当もないまま放置されている残念な状況です。日本祖代研究会では、東南アジアのかつての大陸地スンダランドから北上して日本列島、ベリンジア、米大陸西岸を南米南端まで拡がった「環太平洋沿岸移住MPOR説」を提唱しています。子供に教え、世界に発信し、日米加露の共同研究を。

いよいよ7月、オリンピックです。ところで、下右1図 世界人類移住史の最後の謎、「最初のアメリカ人・先住民Natives」は、シベリア狩猟族が、マンモスを追ってベーリング地峡から入って行ったと思っていませんか、日本は関係ないと思っていませんか? 

実は問題は、1図の世界人類史オリンピックに、シベリア、カムチャッカ、アラスカの遺跡(黒丸、黄下線)はありますが、北海道は半分しかも真っ白で遺跡(数701か所)が全く参加させられていない上に、千島列島が書かれていませんから移住のルートもないという酷いモノです。世界の学者の世界でさえまだまだこの歪んだ認識があり、子供に学校で教えられることもありません。実際は第2図、約4万年前に北部九州に渡海して拡がり、青森から当時は海水面低下で狭くなっていた津軽海峡を越えて3.5~3万年前ごろには北海道の雪と寒気に適応して拡がり、1図の地域で見渡しても発掘遺跡は桁違いの生活痕跡であり、食豊かな昆布ハイウェイ沿いの次々に見えた処女地を北上して行った(http://www.sunda-wind.net/news/9577)可能性があります。その最初のアメリカ人については、1図青線のように、最新説は、厚い北米の氷床で進めなかった時代(1.7万年以前)に、ベリンジア南岸・米大陸太平洋岸から図の青線のようにフネで入って行っただろう、です。

となれば、冬の北の海では30分も海水に浸かれば死の厳しさですから、シベリア狩猟族がそう簡単に水が入らぬフネを造り、操作して猟をできたのか、容易でないですから、当然に北部千島ルートン人・北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoと千島列島(オホーツク沿岸も)ルートに注目で、関りがあっただろうと考えられます。既に、米学者Dr.Erlandsonなど北海道ルートを挙げている学者が出ています。北海道正史を正しくシッカリ子供に教え、世界の誤解を解いて至当に認識されるように発信です。

マンモスハンターがベーリング地峡から追って入って来たという長い間の定説が崩れ、北米大陸の北太平洋沿岸から入って来たという新説で、地域の遺跡に新たな光が当てられています。

①は北部千島人で、明治時代に調査に行った東京帝大助手の鳥居龍蔵を驚かせた石器・骨器も使い竪穴住居に住んでいる「遊動」海民の暮らしぶりです。無論、鳥居には、現生人類がアフリカで誕生し北上してきたことや縄文時代すら想像もできない事でしたが、その島の暮らしの状況を明らかにした功績は大きいです。彼は、ユーカラもなくアイヌではないそこの人が答えた「ルートン」人を使うべきでしたし、北千島開拓の郡司成忠元大尉・海軍大学卒が直感で坪井正五郎教授に調査を依頼した事のとおり、「コロボックルらしい」と言うべきでした。この北部千島ルートン(カムチャッカ南端部も)の起居の住まいがアイヌと異なり、造形はアリューシャン列島のアレウト族、極北のエスキモー・イヌイット、そして北米内陸のナバホ族に類似であり、鹿児島・上野原の縄文遺跡とも似ているのです。

②はカムチャッカ人で、冬の家と夏の家を有し、前者は北部千島ルートン人の物と類似ですが、あの北のカムチャッカ半島での夏の家は、正に南方系高床式で6本脚柱という青森・三内丸山縄文遺跡、富山・北代縄文遺跡に通ずる興味深いものであり、3万年前の北陸~道東の石器の類似性や出雲大社とも関わりあるものと言えるでしょう。そして、③日本列島~カムチャッカ~北米を通じ、共通性を感じるものとして、出雲大社の千木のように、長く残して切らずに張りだしている造形の共通性が興味深く、これは東南アジアなどでも見られる南方系のものです。こんな事からもBeringiaの「一時的列島」 (米伊3ケ大学 チームの最新研究)の小島伝いに北太平洋沿岸から入って来た「最初のアメリカ人・先住民」には、やはり 北海道祖人Proto-Japanese Hokkaido・北部千島ルートンが関わっていると考えます。子供に教え、世界に発信を。

「最初のアメリカ人・先住民」が、ベーリング地峡(ベリンジア)南岸の一時的な列島(temporary archipelago)から、太平洋沿岸の昆布ハイウェイ沿いに(3.2)~1.7万年前に入って来たという新説で千島列島に光が当たり、特に占守島、幌筵島の北部千島の先住民で旧石器時代的な‟遊動”海民(青森から北上した南方祖人系)ルートン人(アイヌではない)に注目です。

ルートン人が、①最後にはカムチャッカ半島南端のロパートカ岬にも居たこと、②かつて同半島南部のクリル湖地域にも居たがカムチャダールとの争いで幌筵に逃げ帰った事、③同半島中部太平洋側のUshki遺跡は、道南知内町遺跡(2万年前)の墓の副葬品に類似性がある事から進出していたとみられること、そして、④アラスカからアリューシャン列島を西方に拡がって行ったアレウト族(痕跡は約9千年前)が、舟での行動が容易でない北の厳しい海で、ロシア人も驚く優れた造・操舟力を示す習俗を有する事が傍証とも考えられることなどから、ベリンジアに達していたと考えられます(進出仮説)。

という事から、シベリア狩猟族もこの地域に進出していたものの、青森から北上した北海道祖人系ルートンは、最初のアメリカ人・先住民の祖先に関っていた可能性があります。日本では、ルートン人の色丹移住後の時代を経た今では痕跡は消えたと考えられていますが、 半島 西南部 Zaporozhyein Ust-Bolsheretsky District地区などに、あるいは引き上げた大陸に痕跡が残されている可能性もあり、日本提唱で日米加露の共同研究で世界人類史の謎と我々の祖先の解明に当たるべきです。状況を子供に教え、オリンピックの世界に発信用を。

最初のアメリカ人・先住民問題が、ベーリング地峡南岸そして太平洋沿岸から入って来たという新説で、注目される千島列島の北部千島人(アイヌでなくルートン人)は、その視点で光を当てれば実に興味深い内容があります。

活字になったものとしては1.英人がアイヌとは異なる背の低い人間が千島に居ると記述し、2.イエズス会宣教師は更に、色黒で、アイヌと異なる言葉、未開と報告し、明治時代の知識人が、3.アイヌから北に逃げた、北千島除くアイヌに広く伝承のある先住・小人コロボックルを指摘して言及し、4.調査に当たった研究者が。それぞれアイヌと異なる土俗の存在として認識しており、旧石器時代のような「遊動」の海民の暮らしぶりに驚かされ、特に、北の民オホーツク人と頭蓋形質を遠く異にすることが、アイヌや本州人よりも古い、南方祖人の北上を示すものと考えられるのです。

そして、5.今は北部千島ルートン人については、色丹から引き揚げた最後の人も亡くなって探れなくなったと認識されていますが、1877年にカムチャッカ半島沖のコマンドル諸島への移住の話があり、また半島のカムチャダールとの争いの後、同半島南部のクリル湖から北部千島の幌筵島に引き上げた事もあって、カムチャッカ半島に進出していたことが明らかなのです。クリル湖の北方で、類似の同半島中部湖地域のUshki遺跡は、13,000年前で、北海道南の知内町遺跡(2万年前)の墓の副葬品に類似性が指摘されており、青森~知内~道東~千島~カムチャッカの繋がりを示しています。無論、Ushki遺跡の石器と同時代の新大陸アラスカの石器の類似性が確認されてますので、これらのことは、北部千島ルートン人を通じて北海道祖人とアメリカ新大陸の関連を示唆するものでもあり大変重要です。

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そして、カムチャッカ半島などから北部千島ルートン人を探る可能性はない訳ではありません。南方から北上の祖人に近いルートン人、政府は祖先探求の努力をすべきです。子供に教え、オリンピックの世界に発信を。

図左下の出アフリカから世界に拡がった人類移住史の最後のテーマ「最初のアメリカ人・先住民」First Americansは、それまでの定説であったシベリア狩猟族がマンモスなどを追ってベーリング地峡(Beringiaベリンジア)を通って入り、急速に南下したというモノでした。

が、図右北米氷床に通路が開かれる前の旧い遺跡があちこちで発掘され(最新は論議を呼んでいるメキシコ北部3万年前)て崩れ、最新主流は太平洋沿岸からフネを使い入って来て(Coastal Migration Theory,沿岸ルート説)、コロンビア・ジャンクションJktで内陸に入って行って拡がったとなっています。そうなると誰が、いつ、如何にベリンジアを越えたかが新たな謎・問題となります。最新研究でベリンジア南岸は小島が連なる一時的ながら列島の様相を呈しそこから入って来たとなっています。図右上、A.沿岸で浮かび上がるのが日本列島ルートで、日本祖人Proto-Japaneseは、北海道から千島列島の海峡(最大離隔77km、目視は可能)を超えて北上できたのか(それとも樺太からオホーツク海沿岸を廻ったのか)、B.シベリア狩猟族は、ベリンジアに出て来てアラスカで氷床に行く手を阻まれ、冬の30分海水に浸かれば死という北の海でフネを造り操り舟人に成れたのか、C.前2者が出会い、混合しベリンジア滞留で変化し入って来たのか、論議が、発掘努力が、DNAや当時の環境分析などが続けられています。

そして、沿岸ルートという事で、図中央上、明治時代の北千島調査で驚かされた、石器を骨・木・土器を使い旧石器時代のような遊動の暮らし振りの北部千島人(アイヌでない)、ロシア人が全くかなわない造・操舟力のアレウト族などが歴史の底から浮上しています。また、これらの関連で、北海道祖人の北上継続問題、伊豆祖人の東京諸島の行き来、そもそも賑やかだった日本列島中央部や曙海からの北部九州への渡海などに世界人類史の光も当たります。因みにこれらのことから、東南アジアの今は過半が沈んでいるスンダランドから太平洋沿岸をベリンジアを経て南米南端まフネを使い移住したとする 日本祖代研究会の 環太平洋移住MPOR(Migration along Pacific Ocean Rim)説が妥当です。子供に教え、オリンピックの世界の人々に発信を。

図左上、青森から津軽海峡を越えて3.5~3万年前に雪と寒気の暮らしに適応した北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoが今注目です。

図右、昨年メキシコ北部高地で3万年以上前から万年にわたる季節的な居住を示すとみられる遺物を発掘したと、地元・英国・デンマークなどの3大学チームが一流科学誌Natureで発表しました。当時の大陸氷床の状況から内陸移住は出来ず、太平洋沿岸から入って来た(Coastal Migration Theory)のだろうと言われています。熊やコウモリ、ネズミなどの動物の骨や燃えた跡、何より外から持ち込んだとみられる石灰石の石器(2000個)などから判断されたものですが、石器に関する疑念やDNA分析などで得られているこれまでの定説を1.5万年も遡る驚きの古さで異論も出て論議中です。DNAについては、現代人に繋がることなく途中で消えたのだろうと発言されていますが。

問題は、この関連で、北部九州への渡海で始まり、図左下、38,000年前から伊豆の海を東京諸島南部の黒耀石を求めてフネで行き来していた「伊豆祖人」(おそらく専業で広域交易もしていた、原始人ではない)、その子孫の北海道祖人が、北上を継続してベーリング地峡に至り「最初のアメリカ人・先住民」Natives ―First Americansに関わっていた可能性について、世界はもとより日本の大学生ですらよく知らない事です。①北海道へは北からマンモス・ハンターなどが入って来たという北上の見方の無い北海道史の誤解、②更に北上の可能性は、遺跡・遺物で、はっきり確認できず語らないという日本的な非科学的態度に問題があります。北海道の熊や北キツネは石器を作りません、たとえ酸性土壌のために融けて人骨の発見が無くとも、遺物が示す北上した「祖人」Proto-Japaneseが作ったのです。子供に教え、オリンピックの世界に発信し、学術論議に「北海道祖人」の積極的な参加を。

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