➀日本人は南方から北上し、曙海沿岸から北部九州へ渡海して始まりました。沖縄へ南下、北海道へ北上し更に継続です。アメリカでは新大陸の西沿岸南下説の高まりで、北海道祖人は渡米参加標準突破!で注目です。

②約4万年前、曙海沿岸渡来の5W1Hが推定できる事(当時の環境、1万件超え発掘実証、DNAの分析など)は世界の驚きで、そんな昔の始りが推定できる国はそうないでしょう。

③科博の用語「先史日本列島人」は、当時の北海道半島人を含まず日本史の用語として不適切であり、始まり「祖人Sojin」の語の導入を提唱します。また、遺跡層土の上下層に縄文人と祖人が発掘された「浜北人」骨の祖代と縄文時代の日本人の連接の実証は、史的に犬猫より重要であり紹介をすべきです。約4万年前の始り祖代から現代まで、日本人の繋がりを示していますので。3.8万年前の造舟・操舟の伊豆の生業航海や3万年前頃の「陥し穴猟」の社会性と作業力が示す原始人ではない祖人の「日本祖語」の存在推定と共に特筆されるべき内容です。

教室は周回遅れ、抜本改善を―日本祖代研究会(RGaPJ) 

左図 稲作・金属器など生活変化の始りの中、神武東征(近年の実証性研究)から政略結婚などで、奈良盆地における南部から地歩を拡大していきました。

右図 和風大王権の発展は、図下の朝鮮半島での南部拠点を基礎とする活動が北上戦闘に至る状況へ活発化して行きました。この時代の国際的な船交流状況から、船交易ネットによる貴重品が広まり、鏡・青銅祭祀具、鉄農具、馬などの普及は縄文「文明」の暮らしから大変化をもたらしました。

奈良盆地と河内・和泉の中央王権と地方の直結性の古墳ネットの物流等や先進の漢字・仏教伝来は大王権による建国の仕上げです。

教室に始まりの神武東征から建国の認識を―日本祖代研究会(RGaPJ) 

左図 祖・縄文時代の基盤の上に、稲作・金属器等の新たな生活の変化から争いの小国化を経て中央の王権形成と認識すべき画期となりました。神話の神武東征が文献と当時の河内潟の地形の合致から史実があったと考えられ、橿原での即位後の歴代の政略結婚による拡大等から内外に勢力を及ぼす大和中央王権の形成へ(東北には日高見国)と発展しました。

右図 各地域の在地首長・豪族が時代により強弱があった大和王権に、墓制や物流(実証面)等で繋がり、首長の自由度のある広域和風の国の骨格・神経を有する王政権が史上初めて形成されました。

教室の戦後を終わりに、新年表―日本祖代研究会(RGaPJ)

当時の地形が文献記述と合致する実証性ある正面突破失敗後の迂回戦闘について、
左図Aは、➀西部連合軍の共同戦力発揮が容易であり、②武器素材の石器取得及び戦力優位を獲得する兵站基盤(河川沿いの物流等)に優れ、③最後の奈良盆地南部への進出態勢においてはA、B大差なし。以上から総合的にAが、長距離の山地進攻Bよりも実質優位と考えられ、新説の提唱です。

右図Bは、書紀編纂で戦闘記述に影響を与えた天武天皇御意向の聖地である吉野をプレイアップする山地長駆進軍で、紀伊山地の大迂回であり連合戦力の発揮は先細りです。天佑神助の神武軍の大奮闘を描写し、また大迂回後の上陸地は、別に渡来伝説がある徐福の碑が建つ上陸地が全く同じという、話題脚色が豊富な点がむしろ「盛った伝説」であり、少なくとも連合軍共同の主攻撃ではないと祖代研は考えるのです。

教室に神武東征を―日本祖代研究会(RGaPJ) 

図左 戦後になって教室から消えた神武東征について、文献の戦闘記述と当時の地形の実証研究が進み、また、祖代研は和泉山脈を迂回する➀武器となる石器の良素材が入手でき、②兵站基盤があり海運を利用できる紀の川・吉野川沿いの攻撃説を提唱(文献の吉野大迂回は、書記編纂を命じた天武天皇の聖地であり脚色との見方が多い)しています。この重要な建国の戦いの態勢及び決着状況が、奇しくも明治維新と類似の社会体制新化の祖型であることに注目です。「神話から歴史が滑らかな日本」(仏・文化人類学者 レヴィ・ストロース)は、神武東征・即位を教室に復活させるべきです。

図中 約4万年前からの長い祖代・縄文(日本史の92%)の先史基盤の上に、わが国独特の混合神話、独創の古墳の造営及び山稜の祭祀、政戦略による域拡大の建国の歩みです。

その後の天孫降臨神話、大嘗祭・行幸などのあり方の確立が、隣国と異なる独自性を有しています(朝鮮半島の新羅は隣国制度を採用・影響)。今に繋がる重要な、世界が驚く皇室のあり方を育くんだ事に注目すべきであり、教室でしっかりと、隣国の諸制度を受け入れなかったことも含め教育し、民族の知財として大切に継承していくべきです。

―日本祖代研究会(RGaPJ) 

Go looking for “The First American” Heroes in 250 added two zero years ago in American Beringia Alaska, then in CONUS for it, too.

Asian ancient seafarer should be paid more attention to, as paradigm has been shifting in these years.

―RGaPJ

図左 神武天皇の東征戦闘(実証)における迂回攻撃により奈良盆地の南部進入を果たして即位し、8代にわたる政略結婚などで基盤を築いて拡大を図り、3世紀後半には盆地東南部に大和王権を確立しました。
図中 その内外広域の交易ネットワークにおける中央政権基盤の墓域を、京都方面にも通ずる奈良盆地の北部である佐紀古墳群に移行した時代(4世紀末、大古墳群である世界遺産の百舌鳥・古市の前)の未知の大型古墳が平城京跡地傍で発見され話題になっています。

神武天皇からの大和王権の拡大を教室に―日本祖代研究会(RGaPJ) 

図左 近年の実証研究が進む神武天皇の東征戦闘と即位は、遥かに時を経た図右 明治維新の攻防の祖型のようです。

そして祖代・2代目縄文の基盤の上に花開いた建国における図中 神武天皇の詔が、危うい現下の状況に実に生々しく響きます。

日本民族の知財を大切に―日本祖代研究会(RGaPJ)

戦後80年、始まりの新日本史年表

約4万年前から、そして「神話から歴史が滑らかな日本」、祖代hop、縄文Step、建国時代Jumpの新史観の用語

図左➀神武東征の実証研究が進み、実に図右の明治維新の祖型であることが判明してきています。

②世界を目指すスポーツ選手が拠り所を、また国民的な行事なども歴史知財に題材を求めています。

教室に民族の知財を―日本祖代研究会(RGaPJ)

「神話から歴史が滑らかな日本」(文化人類学者レヴィ・ストロース)の祖代(原始ではない)hop、縄文(今や文明)Step、建国時代(質的大転換)Jumpの新史観です。

➀書紀記述と当時の戦闘行動地形が合致実証、吉野大迂回ではなく「紀の川」迂回説(祖代研)の神武即位・創業、②唐古・鍵、吉備からの発展であり、突然ではない広域関わりの纏向立権・前方後円墳の大和初王権、③王権統治の列島における政戦略的拡大、➃任那基礎の海外、大古墳が示す国内の発展・隆盛、⑤国のかたちの重要な特質の男系継承、そして日高見国など同系語・独自進化の文化の重層性に注目すべきです。

戦後80年、埋められた民族の知財を取り戻し、マンモス・ハンター、騎馬民族、大量渡来人など誤解の多い始まり日本史を正そう。

教室は周回遅れ―日本祖代研究会(RGaPJ)

1. 建国時代

縄文から変化の稲作・金属による生活変化から小国争乱へ。最新研究による実証の2雄合戦・迂回攻撃により国譲りの神武天皇即位状況から8代にわたる欧州ハプスブルグ家のような政略結婚による大和王権の拡大、前方後円墳が示す隆盛、近隣との対外関係が始まり、重要な男系皇統の確立という民族の大切にすべき建国の時代なのです。

2.原始ではない祖代・縄文の日本史基盤

島国であることから、アフリカ発の現生人類の拡散の一つのルートである北部九州への渡海始まりからの日本列島史。約4万年前、渡海からの始まりの様子5W1Hが推定できることは、世界の驚きです。1万件超えの発掘に支えられた生業航海・陥し穴猟・環状キャンプ・磨製石器・釣り針などは先史考古学五輪のメダル級であり、原始人ではアリマセン。今や縄文は文明と言われ、日本人の祖語やその後の渡来文化の取捨・変形の元となる基盤の時代なのです。
教室は戦後を引きずる周回遅れ―日本祖代研究会(RGaPJ 

➀南方から緯度を北上、②約4万年前に、対馬海峡を家族が筏で渡って、北部九州から列島中に拡がり、③伊豆では海を越え神津島の黒耀石を採取(生業航海)し、種子島や三島などでは「陥し穴猟」をしており、東京の鈴木遺跡は広域の交易で当時としては新宿のような状況でした。
先史考古学オリンピックがあればいくつものメダル獲得の状況です。そして、➃今や北海道の始まりの「祖人Sojin」(3.5万年前後~)は、氷床で覆われた北米新大陸の西岸を南下した説が高まっている「最初のアメリカ人」問題の参加標準突破の候補、などの最新の研究状況の説明に明治・大正時代の先達は「うん」と言って特に驚きません。確かに坪井教授は、コロボックルとイヌイット(エスキモー)の関わりを主張(当時、皆は相手にせず)していましたし、鳥居龍蔵は北千島コロボックル(Routon・留頓るとん)の現地調査(明治32年)から時を経て巷間の誤解を正す実在確認を学会で発表し専門誌に記述もして公に(大正6年、学界は今も正当に扱わず)し、シベリア東端のチュコト(ベリンジア西部の)のオンキロン海民に注目すべしと言っていましたので、南米アンデスも調査していますので渡米問題も「うん」と言って納得です。有名な沿岸論者(Dr. Jon Erlandson) の「氷河期の米大陸西岸南下の行動は、イヌイットのknow-howが参考になる」と言う最新説にも驚かず。流石に、神武東征の戦闘行動の日本書紀の記述と地域の大阪・河内潟の当時の地形状況が合致しているという分析の研究成果(長浜浩明、東工大建築博士の気鋭の先史研究家)にも「ほう」と感心する程度です。

「えっ、約4万年前?何故、それが分かる?」、驚かれたのは年代と年代測定法の説明だけでした。

夢見―日本祖代研究会(RGaPJ) 

Footprints in White Sands, possibly different DNA from already known ones, has shifted the Paradigm. Mal’ta boy doesn’t fit the new situation which sheds the light on Hokkaido Sojin (Proto-Japanese)in ”New”coastal route of west Pacific region.

-RGaPJ https://www.sunda-wind.net/?p=13057

左図 ➀現生人類は、南方から緯度を北上し、約4万年前に対馬海峡を渡海して北部九州から列島中に拡がり、北上継続(留まる理由なし)したと考えられます。②北の礼文島、稚内・名寄、北千島では、坪井教授が命名した石器人(竪穴や貝塚などの遺跡を残したに対する用語であり、鳥居龍蔵が伝承の実在を確認した「コロボックル(Corobocle)」(Routon留頓)に、南方系の痕跡あり注目です。

右図、来日客が驚く寒冷地の恰好や歴史的な渡道者(東北人等)の悲劇も、実は基本が南方系のためなのです。

―日本祖代研究会(RGaPJ) 

➀世界の驚きです。約4万年前、南方系家族が、筏で、約35kmを、対馬に、良好な処女地を求めて渡海、という日本史の始まりを推定できるのですから。(このレベルは、まあ他に無いでしょう)

太平洋側、日本海側(当時は大雪降らず)からの北上が、東西合一した青森・陸奥平野(当時浮上)から「昆布ハイウェイ」を、襟裳を越えた道東祖人は北上継続の渡米も?

②縄文時代の北は近年のDNA研究等も交え、礼文島、稚内(札幌医科大 山口 敏)・名寄、北千島などが「坪井コロボックル」で類縁であることが分かって来て、北の大陸・オホーツク人南下説は巷間の誤解であり、日本列島北上の南方系が主体の歴史だったのです。マンモス・ハンターは来なかったし、考古学界の大陸・細石刃狩猟族(2.5-2万年前)の北海道への南下も北海道祖人が技法を採用したのであって、喧伝されているほどの人の流入はなかったのかもしれません(今後の研究)。北の痕跡は、そもそもの東のユーラシア・アジア人の新旧の二重構造説とも合致しています。

③日本史の92%、長かった祖代・縄文時代の基盤の上に建国され、近年、「大阪おいたち」の河内潟の当時の状況と神武東征の臨場的な行動の記述(日本書紀は全く違う地形の時代に、言い伝え通りに記述)が符合する実証研究に注目 です。

教室は神話の導入を、研究最前線の紹介を―日本祖代研究会(RGaPJ)

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