図A南極から2千kmの南米南端へ来たマゼラン一行が毛布を使う寒さなのに、フェゴ島のヤーガン族が半裸・肩ショールなのにびっくり。どこから?誰?と今も謎の先住部族ですが、伝統の籠や銛・もり、マゼランたちが注目した焚火などは、縄文Jomonを思わせるモノです。

図B北千島人「ルートン」は、明治32年に現地調査した鳥居龍蔵が、本道第2アイヌより余程古い石器時代的な要素を留める遊動海民(流木で造られた舟で広域を行動)の暮らしだと紹介しました。調査直後の重要なコロボックル論争で否定的事象を報告しましたが、実は、よく検討すれば否定されたコロボックル(恩師である坪井東京帝大教授のコロボックル)説が正しいと発表(大正6年、認識訂正)していますが、今の学界は最初の否定報告を引きずったままのような無視で問題です。ルートンは、広域の北の海で行動し、かつてはカムチャッカ半島にも拡がっていて、カムチャダールの進出に伴い押されて後退したものとみられ、北海道祖人―縄文人の子孫である事と共に、北上していた痕跡と考えられますので重要です。図Cは、Harvard医科大のDNA調査で発見されたアマゾン古部族とアンダマン種族・豪アボリジニの不思議な類縁で、何故かは今もって説明されていません。実は北米と南米は、言語学的には先住の万年の大昔から共通性が指摘されていますので、ヤーガン族や高地アンデス、アマゾン奥地の研究などは痕跡探しに重要です。昨年の米ニューメキシコWhite Sandsにおける2.3万年前の足跡発見報告で、これまで多少の欠陥が指摘されたり謎だとして放置されている説や問題に光が当たって来ており、広い範囲の総合的な国際研究が求められている時代なのです。

日本人の祖先に関わる問題でもあり、始まりの理解なくしてその後の正しい歴史の認識には至り得ませんから、生徒・学生に教え、国際研究に学界が積極的に関わるべき課題なのです。

図左①花粉分析で万年前の気温変動に迫った模式図は、山の寒冷緩和期に緯度を北上して北部九州に渡海したことが納得でき、米国ニューメキシコWhite Sands(WS)における2.3万年前の足跡も#1氷床通過期にA、Bいずれにしろ南下して行ったとして新説を理解できます(但し、山・谷の時代も気温の変動はかなりありました)。

とすれば問題は、最寒期LGMに氷床通過ができない、#2通過期までの数千年間「鍵がかかった」状況であり、#1通過の人々は南北新大陸に拡がり君臨していたことになります。このことは重要で、半世紀以上前の南北アメリカの言語が類似というアメリンド大語族説に光を当て、言語学的に処々誤りがあるとして今では打ち捨てられていますが、ポイントを突いています。これもまた余り注目されていませんが、軌を一にする松本博士の環太平洋語族論にも光です。そして、DNAや考古学的な分析からの最初のアメリカ人の新南下説を、全く独立的にかつて研究した言語論が、新説を支持しているとも言えるのです。更に新説は、新大陸人のDNAの特色を説明しうるものかもしれません。②豊かな日本列島「祖人Sojin」Proto-Japaneseの北上史について、よく認識されていないのか、否定理由もなく北上の継続が採り挙げられません。約4万年前の渡海の民であり伊豆の海を行き来していた海民ですから、充実した基盤の北海道から次々に島が見えた食豊かな千島列島は、遺跡こそ見つかっていませんが北上できたでしょう。北千島の遊動海民のルートンは、現代までその痕跡を示しています。

このことは、③何故、アンダマン諸島人、パプアニューギニア人・豪アボリジニ(90km以上を渡海した民)とアマゾン古部族のDNAが類縁なのかを考える際に重要です。疑問がわくシベリアルート説が主流の欧米学者は、この問題も説明できず言及しません。近年の日本の研究(太田・覚張)で、アンダマン諸島人―ラオス人―北京近郊・田園洞人(河川食)―愛知・伊川津の縄文人のDNAに類縁性がみられ、この事は伊川津から地理的に近く繋がる静岡・浜北祖人、時代を遡って3.8万年前の伊豆祖人や長野祖人などへの繋がりを認識させ、北上した3.5万年前後の北海道祖人へと導くのです。新人の北米氷床通過の問題は、実は南米の状況をも説明できるものでなければなりません。今やアメリンド大語族、インド・アンダマンとブラジル・アマゾンなども視野に「最初のアメリカ人」問題を語られねばなりません(シベリア中部での発掘進展による拡がり史観もあるようですが)。生徒・学生に教え、世界にもっと日本の状況(1万件超え旧石器遺跡)を発信し、国際共同研究を推進すべきです。

図左シベリアからか、アムールからか、道東からか、ベリンジアにおけるそれらの複数の混合か?(元日本言語学会長・松本克己・言語学的には、対象は環太平洋系のアムール、道東)。また、米新大陸の大氷床通過は、ユーコン川沿いAからか、アラスカ湾沿岸Bからか。2022年、DNA分析と遺跡・遺物の分析で未だ解明・合意のレベルには至っていません。

ニューメキシコの2.3万年前の足跡は誰で、どのように、はDNA分析・考古学で解明と合意に至っておりません。ルート論は、その移住時期区分が重要で、新旧を混在させると誤解を招きます。ここで道東は、3.8万年前の本州遺物等、北海道拡がりは3.5万年前後で3万年以前の帯広「若葉の森」遺跡などから、はっきり候補です。次に図中の模式図によれば、最終の氷河期でしたが、寒気が和らいだ時期―山、厳しかった時期―谷(最低は最寒期LGM)があり、その山と谷の時代でも気温が変動していたことが特色です。山の時代に北上してきて北部九州に家族で渡海し、祖人Sojinが拡がったのが列島史の始まりで、次代縄文人へと続きます。「最初のアメリカ人」は最寒期LGMをはさんで2回の通過が考えられ、これまでは#2通過が始まりとされていますが、2.3万年前のニューメキシコ足跡問題については最初の#1通過説となり 、(登場していない)“Jomon”ではなく祖人が、また、ユーコン川沿いが浮上し地域の古い遺跡に光が当たり、最寒期前の氷床融けの回廊開放説が登場しています。そして、この足跡人が現在のアメリカ先住民に繋がるのかどうかも課題です。

問題は現在まで、ベリンジア地域において1.5万年以前の遺跡・遺物が発見されていないブラック・ボックスとなっており、また、最寒期以前の人骨データも乏しいことで、これまでの#2通過説者も依然存在しています。そこで関連情報ですが、図右、1946年でも北極は大きく、周辺の氷の状況と厳しい寒気が分かりますが、環境適応の北極圏のエスキモーの移住はずっと後の図中の新石器時代の#3進入です。気温が変動していた最寒期以前の寒冷緩和期はどうだったのか、また、メキシコ暖流やエルニーニョの影響などでは海辺の方が緩和され、考察に関わりがある諸要因でしょう。そもそもの問題設定(2.3万年前の足跡)への合意を含め、年代較正を適切にして時期認識を一致し、諸説を踏まえた実証の探求へという時代であり、日本人の始まり祖先の解明に関わる重要な課題なのです。生徒・学生に紹介を。岡山国際シンポジウムに続く、更なる国際共同研究の推進を。


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世界で今話題のネアンデルタール・デニソワ旧人ではなく、10万年前頃の出アフリカの新人が祖先であり、”Jomon”ではなく祖人Proto-Japaneseです。

北部九州から始まった①列島の北上(南西諸島へ南下)史であり、②図左下DNAは南方類縁性(Oota,Gakuhari)があり、③家族が約35kmを渡海し、3.8万年前に伊豆の海を黒耀石採取の生業で行き来して広域で交易、また、長野高地で発見の石器群や1m級の陥し穴多数で社会性ある猟をしていたことなどは、原始人ではアリマセン。➃北海道へは青森から狭かった津軽海峡を越え、巷間の「マンモス・ハンターが北から来た」は誤解です。最古遺跡・3万年前が帯広で発見され、今回、国内最大の黒耀石原産地である遠軽町・白滝遺跡群(2.7万年前~)が国宝指定の答申です。

図右上のDNA分析から、印アンダマン諸島、ラオス、北京近郊の田園洞などと愛知・伊川津貝塚の縄文人の古さを示す遺伝子に親和性がある南方系で、約4万年前に図左曙海の畔から渡海して来ました。

多様多島の沿岸で海・川辺の動植物を食す暮らしを経て、祖人Proto-Japaneseは、家族で約35kmを渡海したフネの造・操舟力の認知性を有し、右下伊豆の海で3.8万年前から黒耀石を求めて舟で行き来し広域で交易、鉄器の無い時代に1m級・169基の陥し穴を構築した社会性などを示し、最新発掘の長野香坂山遺跡では既に多様な石器群を有しており、原始人ではありませんでした。太平洋側と大雪の降らなかった日本海側の両方から北上して狭かった津軽海峡を越え、3.5万年前後には北海道に適応しました。道内発見最古の帯広を越えて北上した 遠軽町白滝の遺跡群(2.7万年前~、 黒耀石の大原産地)が、この度国宝指定となります。        

速報 祝 北海道・白滝遺跡群の国宝指定(図右)

始まりの約4万年前、北部九州への家族の渡海(約35km)を可能にしたフネ造り、外洋の気象・潮流などを理解しフネを操作した祖人Proto-Japaneseが、原始人ではなかった認知力を示した生業の痕跡を国宝に! 図中、世界考古学の金メダル、伊豆の海25km以上を良質の黒耀石採取に舟で行き来(3.8万年前~)した恩馳黒耀石の遺跡、図左、最古の鹿児島・立切の陥し穴猟の遺跡(3.5万年前)では、直径1mほどで上部がラッパ状に開く形をし、深さも1mほどで底が丸い形をした穴を鉄器の無い時代に集団作業の社会性を示して12基作っています。同様に図中の三島・初音ケ原では169基もの規模で、2.7万年前に作っており作業の社会性に感心します。 

日本列島人のDNAも、1万件を超える旧石器遺跡の石器も、始まりの祖人Proto-Japaneseは南方系であることを示しており、それは「出アフリカ」から南方を経た北上です。

図左DNAは、愛知伊川津の縄文人が、ラオスやアンダマン諸島人と類縁であり、4万年前に川の産物を食していた北京近郊の田園洞人ともであって、北ルートではありません。そして、北の混血を含めてアメリカ先住民に繋がっています。昨年、米国New Mexicoで2.3万年前の足跡発見の発表で、それは誰かが問題となり、内陸の無氷回廊が開かれる前ですので、北太平洋沿岸からフネで入って来たという事が、米大陸の遺跡やDNA分析から新定説化しています。それは誰だったのかということで、日本列島ルートも補強された新仮説です。中図の石器の分析から北上(沖縄への南下)が年代の経過を伴って明らかであり、沿岸から中央部長野の高地に至るまで、1万年以上の熟成を示し、伊豆の海における行き来、環状キャンプや陥とし穴猟の痕跡などと共に暮らしの「原層」と認識(次代の縄文時代を合わせ基層)すべきものです。右図、誤解のあるマンモスハンターは来ず、青森から北上し3.5万年前には北海道に拡がり、北海道に留まる理由もなく食の豊かな処女地である北へ、更に北上を継続したことでしょう。特に道東(先頃、帯広で1.5万年前の大量の黒耀石の生活痕跡発見)は、先のアメリカ先住民との関わりのゲートウェイとして注目されます。

なお、世界に誤解のある鎌倉時代からのアイヌは、始まり人類移住史には登場しません。これらの事を生徒・学生に教え、世界に発信、日本が祖代解明のためにも国際共同研究を主導し、先ずは諸状況から理論的に、「最初のアメリカ人」関わり問題の解明を図るべきです。

北海道史は、①青森から、当時は海水面の数十m低下で狭くなっていた津軽海峡を越えて3.5万年前後に適応し、祖人が拡がりました。巷間みられる北からのマンモスハンター進入話は考古学痕跡のない誤解です。礼文島縄文女性も北海道の犬も、そして文化の重要一面である住居も南方系であることの認識が重要です。

②約4万年前に北上した新人が北部九州に家族で約35kmを渡海し、祖人Proto-Japaneseは、太平洋正面と大雪の無かった日本海の両正面から北上、また、海を越え沖縄に南下しました。この造舟・外洋操舟等の認知力は、もはや原始人ではアリマセン。③3.8年前には、実は陸地が増えていてフネを浜辺で曳行できた伊豆の海25kmの行き来は謎(朝日新聞)ではなく、神津・恩馳島の良質の黒耀石の採取に活躍(縄文時代には河津に工房も)しました。広い地域に(長野にまで)いきわたった交易の社会性も注目されます。近年、3.7万年前には長野の高地に多様な石器群を残していたことが発見され、祖人の水平・垂直の拡がりが注目されます。➃先日帯広で、1.5万年前の大量の黒耀石の生活痕跡を発見のニュースです。始まりの祖人から長い歴史を有する北海道を「白抜き」にするのは、世界に大誤解を与えるもので、早急に訂正が必要です。

さて、①今、世界人類史界は、「最初のアメリカ人First Americans」が、北太平洋沿岸からフネで入って来たというのが新定説化しており、候補である日本列島ルート、昆布ハイウェイの北千島の失われた海民・留頓ルートン族(アイヌではない)が注目なのです。子供・学生に教え、世界に発信、国際共同研究を主導すべきです。

帯広尖頭器①は、キャンプの炉の周りで加工作業の痕跡とみられます。但し、巷間の誤解であるマンモスハントではなく、また、そもそも北海道に北からマンモスを追ってハンターが来てハントしたという痕跡はアリマセン。

約4万年前に南方から対馬海峡を家族がフネで越えて北部九州に至り、北上南下し、②伊豆の海で舟を造り操作して25kmくらいの海を越えて行き来(世界考古学上の金メダル)し、東海・関東・長野にまで神津・恩馳島産の良質な黒耀石が拡がっている交易活動などは、認知力から原始人ではアリマセン。従って、③長野高地に多様な石器群を残しているのも不思議ではないです。祖人Proto-Japaneseは、当時は狭かった津軽海峡を越えて食豊かな昆布ハイウェイを3.5万年前後には北海道に適応(石器痕跡等から)していたと考えられます。祖代から次の縄文時代に移り変わっていく頃、青森・長者久保遺跡に暮らしに合わせた充実の石器群を残しています。他方、➃アメリカでは、アイダホ州の遺跡で米国最古の石器群と言われるものが、日本と似ているとの声があり、人類移住史において日本から南米まで、太平洋沿岸の昆布ハイウェイを拡がって行った、石器にも類似性があると新説が提唱されていました。これに対し最近のDNA分析により、⑤内陸の無氷回廊が開通するずっと前に最初の米先住民が既に拡がっているとされ、更に、北海道礼文島の縄文女性とミトコンドリアD系で繋がり、しかも米D系は沿岸拡がりの痕跡なのです。驚きは無氷回廊の出口のモンタナ州で発掘された子供人骨(12,500年前)が古い沿岸系であり、新しい回廊通過・拡散系ではなかったのです。

今、これらのDNA分析も太平洋沿岸拡散説を後押ししているのです。その意味で、候補であるゲートウェイ道東における今回の発見は、日米の関りで注目されるのです。教室で教え、世界に発信、国際共同研究を主導して、更なる解明を図るべきです。

左図「最初のアメリカ本土人」問題は、カンサス大Raff博士のDNA分析による「ベリンジア混血人2.5万年前が、北太平洋沿岸から舟で」となり、いよいよそれは「どんな誰か」が焦点になっています。

右図、出発地はベリンジア南部沿岸(一部学者はアラスカ内陸ユーコン川沿いからアラスカ湾の沿岸進出も想定)で、①かつての定説は、無氷回廊の開通が13,800年前以降であるのに、ニューメキシコにおける2.3万年前の足跡の発見で崩れて先第1波、後第2波の区分となり、「coastal route沿岸ルート・昆布ハイウェイKelp Highway・鮭を求めて」の北太平洋岸ルートが、これまでより更に補強されて新定説化しています。そして、②言語学的にも、この第1波が約1万年間で南北新大陸の広範囲に拡がった(アメリンド語、Greenberg博士)事となり、かつこれは環太平洋語族(松本克己博士)・生活文化であった事になりますので、ユーラシア内陸語族Cは後続となります。さて問題は世界の人類移住史図における日本列島祖史の欠如空白であり、③折角の日本列島ルートが、入ってすぐに矢印が止まっていることで、北海道祖史の基盤となった重要な日本列島祖史が空白ですから、当然ルートも描かれていません。いわば、定説が崩れてきている重要な世界歴史オリンピックに参加していないのです。かつては北からの北海道への進入という時代の違うものを考慮した事の誤解のため列島に入って来るばかりで出て行かない図が巷間に流布されていましたからでしょう。

今では、a.1万件を超える列島の旧石器遺跡・遺物の分析、b.特に列島中部で最古の伊豆の海の行き来・交易や高地(長野)にまで行動していたしっかりした列島中央部の賑わい痕跡が確認され、c.北海道には702の旧石器遺跡の痕跡から、青森から当時は海面低下で狭くなっていた海峡を越えて、昆布ハイウェイが通り宝物の黒耀石が豊富だった北海道の暮らしに3.5万年前後には適応したと考えられている北上史なのです。因みに、北からマンモスハンターが来た話は痕跡も妥当性もなく誤解であり、細石器文化の流入なども万年~数千年後の事です。むしろ祖代には樺太への北上が考えられます。他方、千島列島は次々に島が見え渡海可能でしたし、冬には流氷を歩いて行ける所も多かったでしょう。興味深いのは、北千島の旧石器時代的な遊動海民である留頓(ルートン、祖代研究会の命名)(第1アイヌ、鳥居龍蔵の命名)が、カムチャッカ半島南部にまで進出していた痕跡(北海道大院・高橋克範)で、更に北方にまで進出して居たものが、後に進出して来たシベリア勢力に押されて南へ後退して来たとすれば、太古には祖先がベリンジアに達していた可能性も否定できない事です。いずれにしても、昆布ハイウェイに係る日本列島ルートは既に米学界では登場していましたが、最近の米国科学アカデミーの議論で更に補強されています。従って、右図 共に環太平洋語族のA日本列島~北海道からの北上を継続した海民系を主に、その沿岸行動・舟の痕跡はないB北東ユーラシア民が関わった混血が考えられます。

日本学界は、「はっきりしないので教えない」が基本ですが、「はっきり」していると考えて教えた「無氷回廊ルート、シベリア狩猟族進入」が、今は崩れ揺らいでいますので、北海道が関わっているこれらの事は、我が国の歴史の始まりである日本祖史・北海道史と関連し、その解明にも重要です。いろいろ紹介して若い力の将来に期待すべきです。最新の議論、北海道ルートを生徒・学生に教え、世界に発信し、国際共同研究を主導すべきです。

昨年9月のニューメキシコ・White Sandsにおける衝撃の足跡発表から1周年で、議論は続いていますが、沿岸をフネで入って来た種族が急速に南北アメリカ新大陸に拡がった(約1万年間で)という事が新定説化、やはり日本列島先住の「北海道祖人」 Proto-Japanese Hokkaido は注目です。

①数千年遡った最初のアメリカ人問題ですが、ニューメキシコWhite Sands 考古学者のOdess博士は、足跡の発見が古いだけでなく、確実な土の重なりの層位で23,000~21,000年代判定の2千年間、足跡の少年たち家族が生活した痕跡の重要性を強調します。一所一物一過性のコトの発見ではない厚みがあります。②Clark博士は、内陸の無氷回廊がいつ頃開通したのかについて、カナダの南アルバータからブリティッシュコロンビアに至る6ケ所のサイトからの64個の大岩をベリリウム―10による年代測定法(氷床が消え宇宙線が大岩に照射され始めてからのベリリウムを生成した年月)により分析し、無氷回廊は15,400年前から融け始め、13,800年前に開通したことを明らかにしました。このことは、これまで最初のアメリカ人の定説だったクロービス石器文化や回廊の出口地域で発見された子供遺骨の年代に符合します。何よりも、ニューメキシコの足跡からでも約1万年間、第1フェーズの最初のアメリカ人は、十分な期間に沿岸から内陸へと南北の新大陸に拡がったと考えられます。更に、大岩分析からは、非常に長い期間(万年)多少の温暖期があったとしても氷床は消えなかったと考えられます。それでは誰Whoがですが、③Raff博士はDNA分析から、北東部ユーラシア・ベリンジアにおいて2.5万年前頃に北東アジアの混血した人々が、1.8万年前頃(ニューメキシコの足跡とは符合しません、1.8万年前に第1フェーズの2次Bが進入か?)から非常に早く新大陸中に拡散しており、ゆっくりした陸上移住ではなく舟で行動して拡がったのだろうと考えています。

これに関し、既にErlandson博士は舟で行動する海民が昆布ハイウェイ・北太平洋沿岸を南下してきた説を唱えていますが、海水面数十m上昇の為、沿岸痕跡の実証が無いことから断定は避けています。Lesnek博士は、アラスカ南部の洞窟調査で、西部沿岸の氷床が融けたのは2万年前頃、動物が入った痕跡は1.7万年前からでありニューメキシコの足跡とは符合しませんが、人は舟で行動は出来たかもしれないがとしています。実は、大変興味深いのは、この米国科学アカデミーPNASの議論が欠いている言語学の見解と今回紹介の考古・地質・DNA分析の見解が、符合するのです。最初のアメリカ人第1フェーズ・ステージは、進入後は早い速度で、それでも約1万年間かけて南北アメリカに拡がったと言う見方は、言語学が既に独自に分析した、⑤松本博士➃Greenberg博士の「環太平洋言語圏」(内陸シベリアと異なる)に属する類縁語の人々が、南北アメリカ大陸という広域で類縁の「アメリンド大語族」説などとよく符合するのです。のちにやって来たヨーロッパ人とは、はっきり異なる米先住民のアジア性、しかも生活文化に見られる類縁性はこれらの事からよく理解できます。アリゾナ州ツーソンの考古学者Watkins博士は、第1フェーズの人々は、現代の先住民に繋がらないと述べてますが、生活文化の基礎となる言語の南北新大陸での類縁拡がりは、DNA新旧以上に極めて重要な事です。なお、アラスカ大のBen Potter博士は、遺跡年代も確定とはまだ言えず、皆がイメージするシベリア民には、沿岸をフネで行った痕跡は無いと未解決の問題を投げかけます。

さて、なかなか「最初のアメリカ人」問題は確定しませんが、①北太平洋沿岸から舟で海民が、②南北新大陸に早い速度で舟により、それでも1万年かけて拡がった、③最新の諸科学分析は、言語学の「環太平洋語族」・新大陸「アメリンド大語族」論と符合、➃シベリア民に海民性が見られない、などから、やはり北海道先住の「北海道祖人」は注目です。生徒・学生に教え、世界に日本史始まり「祖代」からの北海道史を発信、国際共同研究を主導すべきです。

図左北海道新聞記事は、誤解の報道です。北海道史に重要な先住コロボックルは、東京大助教・鳥居が北海道第2アイヌよりよほど古い北千島の遊動海民・第1アイヌ(ルートン・留頓―祖代研究会)と認識(鳥居は第1、第2とアイヌを区分)、明治32年の調査で本人及び世間を誤らせた認識をその後訂正する記述を大正6年にしています。 図の坪井教授のコロボックル遺跡図は当時としては驚きの大成果です。 (鳥居龍蔵全集第7巻から)

今も残る巷間の誤解は正されるべきで、因みに小人コロボックルとアイヌ伝承にありますが、図右下北海道の蕗は大きいです。実は、鳥居が否定したのは「アイヌを先住民族とすることを求める決議案」を承認した169回国会と解すべきであり、世界史学会に誤解を与えているこの案承認は、速やかに誤りを認め却下決定と世界発信がなされるべきです。

歩き始めた明治時代の日本人類学、大森貝塚のモースが、この貝塚人はアイヌと違いアイヌより古いという認識を示し、東京大・坪井正五郎は北海道における遺跡調査を踏まえてモース認識を確認継承し、アイヌに広く伝えられている「コロボックル」伝承は信頼しうるとし、その遺跡が日本全土にあると総括把握して「祖人・縄文人」のイメージに至っていたことは、驚くべき慧眼で種々の制約の中で研究推進の原動力であった「日本人類学の祖」です。鳥居龍蔵は、明治23年に北千島の現地調査を行い、現地の者はコロボックルなど知らないし聞いたこともないと否定、遺跡遺物も自分たちは祖先から伝えられてきているとの答えもあり、議論になっているコロボックルではないとしました。世間はそれを受け止め、活発だった議論は終わりました。その後、コロボックルは時代を経て「子供の神様」などと、おとぎ話で復活して今に至っています。鳥居は、北千島の遺物分析やその後の広範な各地のフィールドワークを進めて、「第1・第2アイヌ論」に至り、よほど古いと認識した第1北千島アイヌは恩師坪井の言ったコロボックルであるとの認識を大正6年記述しています(なぜかコレが巷間に知られてません)。

そもそも、コロボックルはアイヌが小人などとややバカにした悪口話でもあり、言われている当の北千島海民が聞いて無くて当然とも言えます。現に、鳥居が使った北千島人の調査補助者は、いろいろ分っていてバカにするなと述べてもいることを、後になって鳥居も認識したのでしょう。明治中期に、コロボックルはアイヌに追われた 北千島人(Routon・ルートン・留頓と祖代研究会は命名)であるとの坪井説が確立していれば、北海道史いや日本史は、はっきり大きな進歩を遂げていたことでしょうし、今も続く誤解もなかった事でしょう、大変残念なことです。歴史学者が、一人も正論を言わなかった第169回国会決議は、旧石器遺跡捏造より重い大きな問題です。

下 図スタートのカムチャッカ南端・北千島は、明治時代に鳥居龍蔵(東京大助教授)が調査し、北海道のアイヌ(第2)よりよほど古い石器人海民ルートン(第1アイヌ)の遊動暮らしや北方チュクチの同じく石器人暮らしの沿岸海民オンキロンは重要と関心を向けるなど、学者として当時とても実証を求め得なかった「最初のアメリカ人」問題には明確な言及が無いですが、鳥居は南米にも調査の足を向けており、アメリカ新大陸の先住民問題には、関心があったものと思います。

今や米国の研究論議が明治人鳥居の仕事に光を当てています。いずれにしても、日本では鳥居のこのような仕事も、最初のアメリカ先住民の論議も教わりませんが、先頃ゲートウェイ道東では、十勝帯広で1.5万年前頃の黒耀石がザクザク見つかり注目されています。祖先の北海道祖人Proto-Japaneseに係る重要な問題です。生徒に教え、世界に北海道・千島の状況を発信し、特に北海道の祖先に関わるこの重要な国際共同研究を主導すべきです。

米サンジェゴ大サットン博士は、①図下カリフォルニア州チャネル諸島の考古学的状況等から、新説化している「昆布ハイウェイ」沿岸進入は更に鮭が重要だったという川拡がり移住新説を発表しており、アラスカのユーコン川遡行も含めています。

当時、博士の居るカリフォルニア沖のチャネル北諸島は、島々が一体で陸から約8kmの距離は筏でも行けそうで、何よりも海を行動する民なら見える南諸島に時を経ずに拡がって行きそうなのに、遺跡的には3千年を要していることから、むしろ陸地の川の鮭の方が当時の主体であったと考え発表しています。②始まり祖代の鮭の分布は、北陸・千葉からロサンゼルスまで広範囲で、のちの北方領土では川の向こう岸まで遡上する鮭がびっしり埋まる凄い量でしたから、「米臨海」の方では海獣・海鳥・魚介が主で鮭も含まれ。1万年前くらいの遺跡では鮭の痕跡が見つかっています。昨年衝撃の最寒期LGMの2.3万年前ニューメキシコの足跡発見で、氷床が沿岸に迫っていたら鮭の遡上はどうかという問題や海水面の上昇もあり痕跡実証の面で不十分ですが、ともかく研究新説です。何よりも①の通り、図スタートのカムチャッカ南端・北千島は、明治時代に鳥居龍蔵(東京大助教授)が調査し、北海道のアイヌ(第2)よりよほど古い石器人海民ルートン(第1アイヌ)の遊動暮らしや北方チュクチの同じく石器人暮らしの沿岸海民オンキロンは重要と関心を向けるなど、学者として当時とても実証を求め得なかった「最初のアメリカ人」問題には明確な言及が無いですが、鳥居は南米にも調査の足を向けており、アメリカ新大陸の先住民問題には、関心があったものと思います。

今や米国の研究論議が明治人鳥居の仕事に光を当てています。いずれにしても、日本では鳥居のこのような仕事も、最初のアメリカ先住民の論議も教わりませんが、先頃ゲートウェイ道東では、十勝帯広で1.5万年前頃の黒耀石がザクザク見つかり注目されています。祖先の北海道祖人Proto-Japaneseに係る重要な問題です。生徒に教え、世界に北海道・千島の状況を発信し、特に北海道の祖先に関わるこの重要な国際共同研究を主導すべきです。

今、世界が注目の①北海道・ゲイトウェイの道東・十勝帯広で、宝物の黒耀石がザクザク出土して騒ぎです。勿論、熊や北キツネやアイヌ(鎌倉時代から)や大陸のマンモスハンター(このような石器では毛と厚い皮膚のマンモスはハントできないことが米国の実験考古学で結論、何より温暖化した北海道の1万数千年前にはマンモス時代は終わってます)が使ったものではアリマセン(北海道701所の旧石器遺跡の分析から)。青森から北上した北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoか、その子孫である2代目の縄文人の使ったものです。

それが、②十勝三俣か(置戸か、白滝か、仮に赤井川の物ならびっくり!)もさることながら、祖人の物か、縄文人の物かが問題なのです。つまり学界は、縄文時代がいつからかのA(土器出現の16,500年前~),B(土器出現で暮らしぶりがはっきり変わった1.5万年前~),C(定着し土器、弓矢が列島に拡がりはっきりと変わった1.3万年前~)説を決着させていないために、そして、祖代の人骨が酸性土壌の北海道ではまず見つからないことから、はっきりしていないからと子供に教えていないことが大問題なのです。③今、2.3万年前の足跡が米ニューメキシコで発見されて米大陸先住民史は数千年さかのぼり、北太平洋沿岸から舟で入って来て拡がった第1フェーズの人々が誰かが問題であり、出発地ゲイトウェイ候補の道東は注目なのです。よく分からっていないからと発信されず教えられていないことが問題です。縄文時代の始まりにはA,B,Cの諸説があること、北海道・道東の祖人は世界注目の候補であることを子供に教えましょう。3.5万年前後から百年記念塔まで、注目の北海道の正しい歴史を子供に、世界に、です。

昨年9月末、米ニューメキシコでの2.3万年前の少年・子供などの足跡発見の衝撃は、米国史を数千年さかのぼらせて図左②定説を覆し、新大陸への移住について甲:①~③の「3フェーズ史観」を明らかにしたと言えるでしょう。

図左下第1フェーズは、①「米臨海」沿岸から舟で、足跡から考えて約2.5万年以前に北太平洋岸を進入して南下、約1万年以上の間にあの「足跡」を残し、拡がりました。そして、②氷河期が終わって温暖化し、氷床に通路が融けて開かれた「無氷回廊」が出現して、新たに東ユーラシアからやって来た強い狩猟族が南下して拡がって行きました。最後のフェーズは、③イヌイット(エスキモー)・アレウト族が主に北部に進入し、なんと出戻り種族もいたと考えられています。さて、人間にとってDNAより重要なモノは言葉・精神性・暮らしぶりです。もし、日系4世の人が、英語しか話せず、ハンバーガーやステーキの方が生魚の刺身より好きなら、どんなに姿形が私たちに似ていても彼・彼女は「アメリカ人」です。巷間の科学の装いをまとうDNA万能・決定論的なモノ言いは、是正されねばなりません。さて、半世紀以上も前に乙:Greenberg博士は、アフリカなどでの言語研究成果を踏まえ、南北アメリカ大陸に拡がる先住民の多様な500以上もある言葉を、新しいCイヌイット(エスキモー)・アレウト、B(内容に種々の異論もあり)ナデネを除けば、み~んな大半はAアメリンド大語族だと提唱して人々の度肝を抜きました。アパッチ、コマンチのNativeインディアンと南米のインディオの言葉が同類だと言うのですから。その後、言語学的には一部に異論が出され、誤りも指摘され、今ではある意味で打ち捨てられています。

しかし、2.3万年前の足跡発見の衝撃から、新大陸移住「3フェーズ史観」が考えられるようになると、G博士の説は驚くほどそれと符合して理解を容易にします。A最古第1フェーズ・アメリンドは、正に始まりの拡がり状況から納得です。ここで、日本の言語学泰斗の松本博士が、日本を含む西太平洋沿岸地域の言語と南北アメリカ大陸の北ロッキー山脈、南アンデス山脈東麓以西の言語は同祖・類縁の「環太平洋言語圏」を成す(東ユーラシアから渡米したもの)として、基本8、10を超える基本的な言語学ファクターで分析して「内陸ユーラシア言語圏」との違いを対比させ、2大区分しています。なお、かつて日本語について言われた、内陸のウラル・アルタイ語が日本祖語ではないことも実証的に違いを示しています。Greenberg博士の米先住民の言語に関するアメリンド論は、最新言語学の松本博士の環太平洋言語圏論よりは荒いですが通底し、かつ、昨年の「足跡」発見でむしろ松本博士の論と共に、半世紀の埃を払ってその輝きを放つ注目すべきものなのです。そして、そのことは新定説化の「3フェーズ史観」と相まって、改めて出発地候補の北海道に目を向けさせるものでもあります。膨大かつ容易でない言語分析ですから異論もあるでしょうが、両学者の研究成果は重要です。

子供に教え、世界に発信し、「日本人はどこから、何処へ」の解明のためにも、更なる国際共同研究の推進を、です。日本の学界の現状は、周回遅れです。

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