最初のアメリカ人・先住民問題が、ベーリング地峡南岸そして太平洋沿岸から入って来たという新説で、注目される千島列島の北部千島人(アイヌでなくルートン人)は、その視点で光を当てれば実に興味深い内容があります。
活字になったものとしては1.英人がアイヌとは異なる背の低い人間が千島に居ると記述し、2.イエズス会宣教師は更に、色黒で、アイヌと異なる言葉、未開と報告し、明治時代の知識人が、3.アイヌから北に逃げた、北千島除くアイヌに広く伝承のある先住・小人コロボックルを指摘して言及し、4.調査に当たった研究者が。それぞれアイヌと異なる土俗の存在として認識しており、旧石器時代のような「遊動」の海民の暮らしぶりに驚かされ、特に、北の民オホーツク人と頭蓋形質を遠く異にすることが、アイヌや本州人よりも古い、南方祖人の北上を示すものと考えられるのです。
そして、5.今は北部千島ルートン人については、色丹から引き揚げた最後の人も亡くなって探れなくなったと認識されていますが、1877年にカムチャッカ半島沖のコマンドル諸島への移住の話があり、また半島のカムチャダールとの争いの後、同半島南部のクリル湖から北部千島の幌筵島に引き上げた事もあって、カムチャッカ半島に進出していたことが明らかなのです。クリル湖の北方で、類似の同半島中部湖地域のUshki遺跡は、13,000年前で、北海道南の知内町遺跡(2万年前)の墓の副葬品に類似性が指摘されており、青森~知内~道東~千島~カムチャッカの繋がりを示しています。無論、Ushki遺跡の石器と同時代の新大陸アラスカの石器の類似性が確認されてますので、これらのことは、北部千島ルートン人を通じて北海道祖人とアメリカ新大陸の関連を示唆するものでもあり大変重要です。
そして、カムチャッカ半島などから北部千島ルートン人を探る可能性はない訳ではありません。南方から北上の祖人に近いルートン人、政府は祖先探求の努力をすべきです。子供に教え、オリンピックの世界に発信を。