右図沿岸をフネで17,000年以前アメリカ新大陸に入ったという新説です。北の海ではフネが水漏れして、あるいは操舟ミスで転覆して30分も冷海水に浸かれば死の厳しさで、シベリア狩猟族が造舟・操舟するのは容易な事ではありませんので、やはり太平洋岸種族が注目です。
右図まずは数十m以上の海水面の低下で、南方のスンダランドが出現し、日本に影響が大きい「北東ア平野」と「曙海」という状況、そして、北にベーリング地峡が出現して北極海の冷水がStopされて入り込まない「米臨海」は、正にハワイに繋がる海となり、親潮などに影響が。当時は氷河期だったので、シベリアには更に厳しく、太平洋正面は冷水stopで相殺であったか。沿岸の移住では、左図飛び石小島の千島列島Kuril Islandsが一番の問題でしょう。祖代には、①最大島間約77km、次いで60kmの海峡をフネで越えて北上し得たかですが、人類としては、オーストラリア行きに約90kmを越えていますし、そもそも祖人は、北部九州へ30~40kmを渡海して来ており、伊豆の海を行き来し、狭かったとはいえ津軽海峡を越えている海の民性がありました。何よりも次々に島が見えていたことは重要です。
さて、②北部千島を見ると、明治時代に調査に行った鳥居龍蔵が驚いた祖代・旧石器時代のような遊動する海人の暮らしぶりです。食料の得られる時期・場所にフネを操って島々を移動して暮らす人々は、北海道から北上した人々と考えられています。③遺跡としては、国後及び択捉島までの祖代・旧石器痕跡ですが、日本人研究者は不明ながら北部千島・占守島の2ケ所の遺跡について話があると報告していますので重要です。千島列島の考古遺跡の研究で調査に当たったロシア学者を驚かせたのは、④左図左上アイヌ(鎌倉時代頃、樺太から北海道へ進入)は千島列島に定住することはなく、交易品を獲りに来ただけであることから、アイヌではない千島列島人がいるという、別の種族の存在という問題です(別途報告)。
いずれにしても沿岸で暮らした人々の生活痕跡は、その後の海水面上昇で今は海面下ですが、右図米臨海の東・南のアリューシャン列島の⑤アレウト族の家は当時を窺わせますし、衣服や生業ももっと素朴でしたでしょうが、似たようなものでしたでしょう。そこの考古遺跡としては、1万年を越えず、また、東から西へ新しくなっており、何より西のカムチャッカの方からは420kmの海峡越えはムリでしたでしょうから、ベーリング地峡南部の東進ルートでしたでしょう。時代を経てロシア人が、アッツ島西の「コ」マンドル諸島に侵入し占領しましたが、アレウト族の暮らし振りに適応できず、全滅していることは注目です。大昔の人の方が、むしろ適応力があったのです。
寒さが吹雪が霧が激流が噴火が津波がと現代人は厳しい環境を指摘しますが、占守島から色丹に移住させられた北部千島人は、占守の暮らしの方が(遊動で)簡単に獲れる食料は豊富で、(病気もなく)よっぽど暮らしは楽だ、返してくれと言っています。今でも結構なロシア人が島暮らしを止めて大陸へ行っており、大昔の方が、むしろ北上し進入して暮らした可能性があったとすら言えるかもしれないことに留意すべきです。これらのことから左図右下、⑥4万年前から日本祖人が列島を北上し、北海道祖人がベリンジアに向かい、縄文人にバトンが受け渡された主たる流れ(青)に、鎌倉時代頃にアイヌが樺太の方の脇から入って来て(赤)アイヌ伝承のように先住の”コロボックル”が千島の方に逃げて行ったのが北の歴史なのでしょう。子供に教え、世界に発信です。