秋田・青森県人が、列島史始まりのHB抗原ウィルス南方型(第2図)ということは、第1図、海水面が約100m低下していた約4万年前の「曙海」・「北東ア平野」の時代に、出アフリカの現生人類がスンダランドから北上(ラオス、ベトナム、台湾痕跡)して大陸から対馬~五島に舟(筏)で渡って来て北海道にまで拡がりましたので納得できます。
さて、人種が近かった曙海のほとりの人々も、2万年前頃には更に近づいたものの、その後の海岸線の後退で離れて行きましたが、はるかに時を経た日本史の大きな画期である水稲の耕作を見ますと、人類史の痕跡ははっきり残っています。戦後の始まりに安藤広太郎・農業博士が、インド、タイ、中国広州などに広く稲の原生が見られ、日本の稲作は(呉越地域の)ジャポニカが過半の苗族・オーストロアジア系民族の稲作に(起源として)注目されたのは、正に卓見です。
現代学者は、稲作がいつ、どのルートから(第1図①②で、南西諸島ルートは稲種が該当せず)に関心を持っていますが、安藤博士はそれもさることながら、苗族・オーストロアジア系民族(現代中国の少数民族など)や南船北馬の違いに注目され、ユーラシア大陸内陸種族と西太平洋沿海地域の種族の違いという現代の東アジア理解を、インドにまで及ぶ稲作研究からも認識されていて、その後の学界のタイ・越関係研究にも繋がっています。更に、水稲耕作の伝わり方も戦乱など該地の人々が身の危険に迫られ逃げ出したもの(難民)との見方をはっきり示されました。この点は、むしろ交易の倭人の船乗りが、曙海のほとりの地から持ち帰ったものという見方もあります。安藤博士説を後進の樋口博士が斜線で示した中国南部~我が国の東北にまで繋がる水稲耕作論の図化は、共通性ある古く長い歴史を示すものとなっており、また、最近の研究で図の日本陸稲線で(品種改良のため)稲作北上の足踏み”休止”があったと言われていますが、これがウィルス南方型の東西線ともなっていることが、誠に興味深いことです。
稲作の時代にあっても、曙海ほとり認識の重要性は変わらず、実は各種の古来各種の中国史書は、「倭」を広い範囲の曙海ほとりの人々として様々な地の人々を「倭」と表現して書いていますので、学者さんに混乱を与えています(倭寇以外にも多く)が、読み解きには「曙海」認識が必須なのです。因みに、元寇の襲来においてさえ、長崎の人々は内陸種族と曙海ほとりの沿海種族を分けて(捕らえた侵攻の沿海種族は殺害せず)扱いました。このように、始まり時代から歴史時代にまで長く地域空間と歴史時間の流れがムリなく繋がり、西太平洋沿海地域と河川遡行の諸族(現在は内陸高地にも)の祖先(沿海原族)が、人類移住史と水稲耕作史からも「日本祖人」との共通性が大きい(曙海史観)と考えられます。このように大きく2区分に認識しうる東アジアの諸族の特色から、大陸、中国、朝鮮半島・韓国といったおおまかな語で東アジアの歴史を語ることは、とてもできないのです。