Sundalandから、やまとの女王国を考える

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ミリタリーの世界では、夜間にあるモノを見たいとき、そのモノを見ずに周りを見よ、さすれば見えて来るという「周辺視」の教えがあります。

4万年の始まりである日本祖代の追っかけって、その浮世離れは何なんだと言う家族の声があります。

ということから倭人伝を周辺視であるSundaland, 環太平洋人類史観の視点で、あの歴史学上の大問題、やまとの女王国に迫って見ました。

対馬まで千余里、唐津―福岡五百里、女王国から海を渡って千余里また倭種、倭の地は絶在1周五千里、侏儒国四千里、身の丈三、四尺、船行1年、など距離感と方向は一応納得できるものです。

(倭人伝は、全く信用できないという意見もありますが)

 

特に、あまり注目されない侏儒国、裸国・黒歯国を周辺視しますと、日本列島人類史の特色である北と南端の類似性やコロボックル話などがよく附合しています。

裸国は、ネグリト族のフィリッピンにしろこの地域では有ったでしょう。

そして黒歯国についても、マレーやインドネシアの檳榔樹から取れるビンローが噛みタバコのような物としてよく見られ、歯が赤黒くなり珍しいものとして魏の人などには認識されていたでしょう。

マレーのペナン島の名の由来にもなっていますし、台湾では今でも見られ、我が国でも女性が歯を黒く染めていたことはよく知られている環太平洋この地域の風習です。

文選によれば、漁師が、南の東の極みの黒歯の所へ行ってますので正にぴったりでしょう。

「至るべし」とありますので、単なる物語や噂話ではなく行き来があったものと思います。

因みに紀元前にフェニキア人が、金などの貴重品を得るため船行3年と言う遠洋航海行動(1年以上現地滞在?)が歴史的にありましたので、紀元後の1年は驚きに当たりませんし、何よりも祖先の地、Sundaland地域から北上して来た人たちですから。

船行1年ということで、この裸国や黒歯国を南米に比定する意見もありますが、文選にある極みはマレー・インドネシア、黒潮の果てでしょうし、流石に当時の漁師が南米まで行き来するのはムリでしたでしょう。

この「極み」は意味深長でして、倭人がニューギニアから比東側の正に黒潮沿いを行き来していたのではと思わせます。

結局、女王国はどこなのか?

倭人伝等からの周辺視では、ぼんやりと九州か四国あたりに見えます。

どうして、やまとの女王国、皆と違う表現にしてる?

はい、当時の列島に住む人たちが自分たちを蔑称で呼んでいたとするのは史的間違いだからです。

語をもってまだ自分たちを呼んでいなかったにしろ、呼んでいたが今は分からないにしろ、学者さん達がこうしようというのを待っているためです。

いつまで他国が付けた蔑称を間違いなのに使っているのでしょう?

(了)

 

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