結論的に、明治時代の日本人類学創設の頃に存否論争があった日本の「先住民コロボックル」はエスキモー・アレウトに想定されましたが、現代の視点からすれば日本祖人-縄文人の南方海人型の子孫であり、北のベーリング海域に渡って行きアラスカ、アリューシャン列島にも至ったものと考えます。(当サイト新説)
いずれにしても、今と比べ全く不十分な資料から3千年前か、数千年前か、万年前かと想いをめぐらした明治の先達でしたが、アイヌと異なる、アイヌより前の先住民コロボックルが北のカムチャッカ、アリーシャンに行ったのだろうと現代の当サイトと同じようなことを考えていたことは誠に驚くべきことです。
現代において北海道から同じルートで渡米を果たした、往時を模した小舟で千島の海峡・水道を越えて苦労の多い冒険航海を試みた記録がありますが、同様の移動を果たした「海の民」日本祖人(子孫)は相当なものだったと感じます。(勿論、多くの失敗の悲劇もあったでしょうが)
さて前述の結論に至る話に戻ります。
前回、4万年前頃からの日本の始まりにおける「海の民」に注目し、日本祖人の渡米に関して今に残る痕跡をかすかに窺がわせるベーリング海南部に暮らすアレウト(アリューシャン人)を紹介しました。
(写真は上下とも、アリュート民族 ウィリアム・ラフリンから)
そして当サイトが注目しますのは、明治17年、初めてコロボックルについて学会報告を行った渡瀬東大教授が、札幌近傍遺跡で暮らした人たちがそれであり、アリウト人(コロボックル)はアイヌに追われ、と移住の可能性を示唆したことです。(下線部は、長野県の三上徹也先生の著書 「人猿同祖なり・坪井正五郎の真実」、以下下線は、三上本)
当時の外人教師の英人ジョン・ミルンは、北海道を比類無く広範囲に調査し、「カムチャッカ、樺太サハリン、千島から北海道・エゾの西部の札幌に至るまで、エスキモーとの関係が推定される竪穴に住む人たちが居たとし、コロポクグルに充て、アイヌと異なる別の種族」として論文に書きました。日本人類学の祖、坪井正五郎東大教授が実在説を唱え、石器時代人民と言い換えて日本人類史にはっきり位置づけました。そして、エスキモーに似たものと思っていると述べています。(三上本から)
長く続いた論争は、当時の第1級のフィールドワーカーで大陸から千島などまで実地に踏査研究した、坪井教授の弟子と言うべき鳥居龍蔵(東大職員)が、北千島を調査したが居たのは北千島アイヌであり、「コロボックルなど聞いたことも無く祖先の頃から此処に居たと答えた。」としてコロボックルはアイヌだという否定論が優勢となり、坪井教授が亡くなられて自然に消え忘れられています。(三上本)
―今考えても、調査時の北千島のアイヌが北海道本島のコロボックルの語の使用を知らないこともあり得ますし、何よりも昔から此処に居たと言いますが、それ以前に居たコロボックルを祖先が更に北に追いやった可能性は残ります。
さて、その後かなり経ってから、師の説に反する主張をなした当の鳥居龍蔵が、「近ごろになって北極文化に考えが傾き坪井説を見直してみたい、バルケット—スミツ博士の著書に接し、その感が甚だしくなって来た」とエスキモーに頭が向いたものの既にアイヌだという学界の流れを戻すことは時期を失していたということです。(三上本から)
当時、コロボックルをエスキモー・アリウトと関連付けた論の先達は、先ず、エスキモー・アリウトが北・カムチャッカから南下し、その後、内地でアイヌが日本人(大和人:筆者注)に追われ、そのアイヌが北海道の(エスキモー・アリウト)コロボックルを北に追いやったというものでした。(三上本)
仮に当時の先達が、日本の始まりからの時期と遺跡の流れを知り得たならば、その延長で坪井説は受け入れられていたことでしょう。
さて、コロボックル説に関してです。
彼らについての話は、なんと既に江戸時代初期(1613年)、北海道での聞き取りを行った英人の本に現れ、また、北海道を訪れたり調査した人たちが明らかにアイヌ人とは異なる種族の小人・矮人たちがいたとして10指に余る記録が有ります。発掘に基づく学問的な始まりは、明治10年に大森貝塚を発見し大きな影響を与えた米人招聘教授モースが、貝塚があった当時の人たちはアイヌ人とは違う、それ以前のプレ・アイヌ人だと述べたことでした。(三上本から)
因みに、
平成18年の第169回国会で可決された「アイヌの人々を日本列島北部周辺、とりわけ北海道における先住民である」とした決議は誤りであって、アイヌに追われるように北に去って行った小柄で漁を主とする人々、日本祖人-縄文人の南方海人型の人々などこそ先住民です。
無論、この見方はアイヌの人たちがその後、迫害や差別を受けたことを軽視するものでは全くなく、ただ先住民の語を冠するのは適切でなく、米・中・豪などの先住民問題とは全く性格を異にする点を指摘しているものです。
長い歴史を有する日本国民の中の争いの新旧、性質の問題であり、迫害・差別をした者は西日本からのいわば混血した、アイヌより先住民の子孫たちですから。
そして、
理論歴史考古学からすれば、旧石器時代中期~後期の日本からの渡米を想像しうる論拠となりうるものは、時代が下った新しい遺跡・遺物ですが関連地域にあります。
シベリア東部・カムチャッカにおけるよりも古く、「海の民」が拡がって行った日本列島から、人類史における初めての渡米を日本学界は世界に提唱すべきと思います。
先ずは、シベリア内陸発の寒冷降雪地における生活環境に適応するようDNAを変化させた北方適応型だけでなく、海の民である日本祖人・南方海人型にしっかり目を向けて、北方だけでなく沖縄・南西諸島の古い遺跡など更にこの視点で研究を進めることでしょう。
このことが、米ネイティブ・インディアンなどと異なる、昨年米ハーヴァード医科大が南米アマゾンで見つけたと言う、出アフリカを果たした現生人類human journeyの古いタイプのDNAを理解する事にもなる極めて重要な点でしょう。
以下次回、更に続けます。
(了)