前回は、表題のスタートである十勝帯広地域とそこに至る九州から北海道太平洋岸への拡がり状況をお伝えしましたが、いよいよ出発、まずは千島列島への進出です。
今、話題になってきています北海道の国後島や択捉島から、列島最北の占守島(終戦後の8月18日、ソ連軍が侵攻)まで約1,280km。他方のオホーツク回りルートは、オホーツク海北部の気温が低くルートも非常に長いので、飛び石ですが千島列島ルートが注目されます。
結論的に日本祖人は、3万年前頃の遺跡が残る帯広地域において、北での衣食住、濃霧・流氷などに慣れた、寒い冬の暮らしを含む準備行動がしっかり出来ていました。
そして、①いつも行く手に山が、島が見えていたラッキー。②島々は、海水面低下(100m)で砂浜が拡がり、ホップ(国後水道20km)、ステップ(択捉海峡35km)、ジャンプ(北得撫ウルップ水道77km)と着実に慣れながら最長難関に挑みえたラッキー。③渡った先々にも手つかずの様々な食べ物の魅力があったラッキー。④最も条件の良いときに船出すればよく、かつ、何人かでトライし誰かが成功すれば良かった確率のhuman journey。
そして、今のアリュート人などの凄さには及ばなくとも小舟は10km/hくらいの速度は出たでしょうから、最長海峡も明るくなる朝4―5時ころ漕ぎ出して夕には十分達し得る距離でもありました。
実はこのhuman journeyは、帯広―千島列島―カムチャッカ半島―ベリンギア(ベーリング海峡が陸地で繋がり)沿岸―アラスカ半島・同湾岸の沿岸という約9千kmの行程であり、3万年前頃から2万強年前のことです。
即ち、その歩みは平均すれば年間にせいぜい1km強程度の実にゆっくりしたものです。
勿論、進んで行ってから戻ったこともあったでしょうし、ある所で長い間、待つようにずっと水産物を獲り定住で暮らしていたこともあったでしょう。後続の新手が先住者を越えて前進して行ったのでしょう。暖かめの時期の移動は相当に早かったのかも知れません。
その旅路が、現代の冒険家、研究者の似せた行動体験の挑戦と一番違うのは、このスケジュールを意識しない、無理の無い、犠牲は出ましたが冒険を望まないゆっくりさです。
小説家がサラリーマンを書きますが、何十年という通勤の満員電車に揺られる名も無いサラリーマン暮らしをしないと分からないこともありますよね。
も一つは、今も6-7歳になると北の海に出て最初は綱付けられて海人となるべく学びます。失敗と小さな成功を重ねて見よう見まね口伝で鍛えられていく小舟乗り漁師のノウハウ、潮流潮汐に応ずる操舟術、そして造舟、祈りを伴う海人のしきたりなどを身につけます。
それに優れた者が尊敬される、若者が目指すはっきりした職人の世界のような社会、寡黙ながら言の葉の世界です。風についてだけでも何十という言葉の表現があり、字が無ければ文化・文明でないとしがちな歴史観は改める必要があります。
サッカーのメッシや体操の内村の技など、長い間に鍛えられ磨かれたものをとても記述できるものじゃないです。
続く者は、わずかな言葉、見様見真似でその境地を目指すわけですが、当時の人たちは北の海のこの分野では明らかに現代人より優れていたことでしょう。
他方、南方のポリネシアの海人と違うのは、エスキモーの人たちは極めて慎重で海岸からあまり離れることは無く、また、その技でロシア人を驚嘆させた(結局それが仇)アリューシャン列島に残るアリュートは、正に北の海人で、漁だけでなく長距離輸送もこなしますが、決して遥か沖合まで漕ぎ出し向かっては行かない慎重さがあるそうです。
全く見えない島々を庭を歩くように渡って行って現代人を驚かせるポリネシア人の動き回る海は、陽気も水も暖かいことが背景にあるのでしょう。
北の海は、水に浸かること、濡れることは命に関わってきますし、濃霧を動き回るのも容易ではないことです。また、潮流があり、海岸・浅瀬では砕け波、ねじれ波があったりして厄介です。
それでも海に迫る接岸できない崖は当時はその前が砂浜であり、今の大型船には評判のよくない港の少なさなども当時の小舟には何の問題もありません。
さて、最初の国後島は野付から歩いていけます。そして、択捉島へのホップの国後水道は、約20km、既に日本祖人としては、伊豆半島から見える黒曜石の宝庫の神津島まで丸木舟でその程度の距離を縦横に行き来(3.2万年前頃には)していました。
そして、ここでも行く手が見えていたことはラッキーでした。
最長水道を越える際の得撫ウルップ島小三頭山から新知岳まで150km、70強mの高さが見通し高ですので、山に100、200m上れば前方に陸地がある、途中の知理保以チルポイ島もあることが分ります(鳥の動きや流木などからも分かったと思いますが)。
それまで暮らして体験してきた北方領土には、手つかずの魚貝、海藻草・植物、アザラシ・トド・ラッコなどの海獣、海鳥・卵、時に鯨まで手に入れましたので、これまでの成功体験から前方に見える陸地にも十分期待したことでしょう。
現代の学者は、何故、更に寒いであろう北に向かうのかと問いますが分かりません。「山が見えたから」でしょうか。
列島は、(3大漁場の一つとして)その期待を裏切りませんでした。時代は早かったですが下図の縄文人の食(うち同種の水産物・海獣・海鳥主体の分)を準用できたことでしょう。そして、衣食住の改善を図り、島の暮らしに合わせて手に入る物で工夫していたのでしょう。
食材の豊富さと共に、流木が特徴として書かれていますので、造船、住まい、道具などに利用されていたようです。島によっては、シベリア松、白樺、はんの木、柳などや草花などが咲き乱れています。
海獣・海鳥などの皮は、衣類や履物としても活用されます。海の民の一つの特徴の入れ墨は、今でも見られます。
中には火を噴く火山、時に襲われる津波がありましたが、言い伝えて天・神に祈り捧げ物するだけです(確率のhuman journey)。
恐らく寒い冬の間は、竪穴皮テントの中で保存食料を飲食し、昔を語らい、天・神に祈り、ちょっとした祭りをし、晴れて様子がよければ猟漁をするといったことでしたでしょう。温泉もありますし。
島内を調べ、次に行くのは太平洋側にするか、オホーツク側を行くかも磯波や岩礁などの状況を慎重に見極めて選んだことでしょう。分かりませんでしたが、行く先のカムチャッカ半島とは熊の脅威が違いますので、基本的には安全に十勝帯広時代の延長の現地適応でいけたでしょう。
因みに、1999年、米人サイエンスライター・冒険家のジョン・タークは、大昔を想定した小舟シーカヤックで根室を出発し、千島列島を渡り最終的にはベーリング海峡のセントフローレンス島までの3千マイル、2度に分けた約6ケ月間の冒険航海を行っています。
こう見てきますと、日本祖人が、多くの水道・海峡で隔てられた寒い北の千島列島を渡っていくことは無理だったとは言えないでしょう。
次回、更に北上を続ける検討をします。実はベリンギアでシベリア・アラスカが繋がっていましたので、米新大陸進入の時期・場所は論じられないのですが。
(了)