日本祖人は、米新大陸に渡ったのか?②

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前回、Harvard医科大が昨年行った南米の3古部族のDNA調査において、同じ南米や北米、更にシベリアなどにも見つからず、古さの残る豪アボリジニやパプア、アンダマン諸島等の人に近く、かつ、直路南米に至ることが考古学的に考えられないので、日本を経由する環太平洋ルートで南米アマゾンにまで子孫が達したと考えられることを紹介しました。

以下説明していきますが、結論的に言いますと、現生人類は出アフリカ後の東進、北上後の4万年前(BP)頃に九州に至り、北上して3万年前頃に北海道太平洋岸に達し、北方冬季の気候・生活環境を経験しました。

渡米が成功し発展したグループは、寒さが緩和した2.5万年前頃に、ルート上の最寒冷のベーリング海域を経てアラスカ南部に達し、最も寒かった最終氷期最寒冷期LGM2万年前頃の前には氷河のない米西太平洋岸に至っていたものと考えられます。

その後は、特に問題なく南下して南米最古の遺跡の形成以前にアマゾン流域に達したと考えられます。

まず、ルート上で一番問題となるベーリング海域を通過する点については、前回、最新の研究からカナダ、北米への進出は大平洋沿岸ルートであることを紹介しました。

時期については、Harvard医科大の発表前の通説である最寒冷期LGM後の温暖化時期ではなく、LGM以前に通過したと考えます。そうでないと、最寒冷期のベーリング海域通過はあまりに条件が厳しいですし、また、南米最古のチリ南部のモンテ・ベルデ遺跡(1.4万年前頃)よりずっと原始的で古いと思われるアマゾン古部族の存在が説明できません。

こう考えてくれば、南米アマゾンの南方型DNAを残す人たちは、寒冷降雪の北方適応型DNAの闘いに強い多くの人たちの2万年前頃の進出以前の寒冷緩和期にベーリング海域を越えて米新大陸沿岸に進入したとみられます。

その後の婚姻による人類の発展を考えれば200人以上の人々が、丸木舟で海流に乗って直路北太平洋を渡ったとは思われず、着実に歩を進めるベーリング海域ルートでしたでしょう。

当時の氷河・気候の状況をみますと、北海道太平洋岸に居た頃は下図の3万年前頃のアフトーニアン寒冷期であり、その後緩和期に千島列島からカムチャッカ半島、ベーリング海域を通過し、カナダ氷床を通過してLGM期には氷床の無い北米に達していれば進入発展の成功確率が高いでしょう。

さて次に、下図の細部のルートですが、前述のαルートの他に沿海州の方を回るオホーツク海ルートβもあり得ますが、寒冷の沿海州・樺太方向から北海道への多くの人の進入が2万年前頃ですので、αルートの可能性が高いでしょう。南方型人が初期にこの氷期を緯度を上げて北へ行くのは時間を要したのでは。

次に、ベーリング地峡南部海岸沿いAとアリューシャン列島沿いBのルートが考えられますが、B上のアッツ島とカムチャッカ東方のコマンドル諸島の間が400kmくらいあり、潮の流れも複雑で強いことから当時の舟では厳しく、寒いですがAの可能性が高いでしょう。

この地域のエスキモーの人たちは大変慎重なことで知られ、ここは波があり霧がたちこめることもあるため、岸からあまり離れずに航行するそうです。何しろ、転覆などして冷たい水に浸かればそのまま死を意味しますので。

他方、考古学的にも(9千年前頃のアリューシャン遺跡ながら)、アッツ島へはアラスカ半島の方から島伝いに西進して達したものと考えられております。

米大陸への進入は、比較的寒さが緩和された時期にルート上を着実な歩みで最寒期LGM前に氷床の無い北米に進入したとすれば最も好条件であったとみられます。いずれにしても、多く進入を試みた人々の中の数十%の成功した人たちが創った歴史とみられる厳しいものです。

以上の事から、当初、結論的にお示しした行程が一応の妥当性があり、人々の進入・南下に最も好条件なものとなります。

さて次回は、それでは日本祖人がそのルートを進むのはどうであったかです。

寒くなっていきます時期に正に寒い地域の話で恐縮です。

あまり注目されない寂しい地域で、かつ、万年の古さの日本祖人のアラスカ渡米の歩みがどうだったんだろうかについて、南方ボケ者が探って参ります(一応、出発地である北海道の雪深い道南の倶知安とオホーツクに近い道北で約10年間の勤務経験者です)。丁度、プーチンも来るようですし。

(了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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