Facebook: Nara Akira
東ジャワの州都スラバヤでAndi遺跡文化保護局長さんからお聞きし、スラバヤ西南モジョケルトからプナングンガン山麓へ上がって訪れたジョロツンドJolotundo遺跡ですが、出かけたのは訳がありますと前回お伝えしました。
Jolotundo遺跡の基本構造は、プナングンガン山麓を切り開いて造られており、背後の山岩壁の前に階段を上がると本殿・奥の祠が見えます。階段を上がった所は、広い水平の池で平面テラスとなっています。
東ジャワには、かって多くの古い山麓神社があり、その様式はPunden berundak崇められている雛壇式墓場、古代廟、村人が誓いを立てる所などと呼ばれるものです。地域の人々の語り伝えをJohn Miksicが図にしたものが下図であり、高校の歴史教科書にも載っています。
私が気づく特徴は、例えば番号を振ったようなものです。
今回訪れたJolotundo遺跡は、この東ジャワ伝統の古い山麓神社の基本的な構造を踏襲してヒンドゥー教様式で造られているとみられます。
人類の百貨店の当地では、古い聖地に新たに何度も宗教的な施設が造られている例は多々あります。また、今回は東ジャワを見ましたが、かっては西ジャワ、いやスマトラ島などにも在ったかも知れません。
さて、
エジプトの先史建造物は世界に誇るピラミッド群ですが、そこに最初で最後の女性のファラオ、ハトシェプストの造った葬祭殿があります。
ハトシェプストの数奇な運命は、治世が終わるとその栄光の事績を描いた数々のものが削り取られ抹消されるという正にドラマでした。
そのミイラは発見されず、彼女のナースであったミイラの傍らにボロ雑巾のようになって転がっているミイラ、専門のエジプト学者たちも全く気付かなったそれが女王なのではないのかという話があるくらいです。
(wikipedia) (ameblo)
他の男性ファラオたちとは異なり、女性なるがゆえにピラミッドは造れず代わりに後世の人々をして豪壮比類なきといわしめる葬祭殿を、ルクソール西岸の断崖を背に造りました。
(nabe-scm.com)
問題は、そのハトシェプストの葬祭殿と東ジャワのJolotundo遺跡に至る古い山麓神社の基本的な構造が類似ではないかというものです。単なる歴シニアの私の意見です。番号を振った所などが同様と思います。
先生方に聞けば、ハトシェプストのは紀元前15世紀半ば、Jolotundo遺跡は紀元997年で、古い山麓神社は、紀元前後だろうかはっきりしないということになります。そもそも似てないと言われる先生もいるでしょう。
私が注目しますのは、①東ジャワの村人たちがハトシェプストの葬祭殿を知り、かつ、真似をしたとは思えないこと。②一部のエジプト専門家が、ハトシェプストの比類なき葬祭殿は、エジプトの風土から生まれたとはとても思えない、他所から導入したものではないかと言っていること。にあります。
エジプトのファラオたちが大航海によって、神の地・宝物の地のPuntから金、香辛料、木、動物など沢山の貴重な宝物を得ていたことはヒエログリフの壁画に描かれ史実として認識されていますが、Puntの場所については東部エチオピアなど諸説あり不明です。
そして、ハトシェプスト女王が、このPunt大遠征により神に捧げる沢山の貴重な品々を得たことは、今も詳しく壁画等に残っています。
私は、その得た品物の種類・特色と海の民フェニキアの研究を経て、PuntはパンカルPangkal地域と考えています(本サイト―フェニキア項)ので、ハトシェプスト女王が葬祭殿の元になるデザインをも得ていたとしても驚きません。
むしろ、一部のエジプト専門家が、葬祭殿のデザインは何処か外からもたらされたと言うならば、それはパンカル地域しかないだろうと考えています。
実にロマン溢れる驚きの大ミステリーであり、引き続き追っかけて参ります。
(了)