Nara Akira http://www.sunda-wind.net
これまでこのホームページでは、南米アマゾンの一部3部族のDNAがアボジリニ(当時の南インド人にも近い)等に近いということから、人類の出アフリカ後、下図地域に進出した人たちをパンカルPangkal(元々のの意)人と仮称し認識しました。
緯度が同じ東西方向は、生活がし易いため進出展開は海を越えても豪まで早かったです。そして緯度を異にする北に向かい2ルートからの現生人類の進出展開の流れから「日本祖人」問題を考えてきました。
この日本祖人論に関して、朝日新聞社から「3万年前ヒトはこうして日本へ来た 航海を再現し検証」という実験が行われるという大変好ましい試みについての記事が報じられています。
但し、大きな資金を投ずる折角の実験ですので、記事内容から見ますといくつかの意見があります。
まず第1に、3万年前とありますが、その頃は既に日本へ来たパンカル人(当時の豪北東~南インドの地域)の子孫は、伊豆半島と神津島を盛んに往復し、黒曜石を南関東など広域で交易していますので、「こうして日本へ来た」という時代ではないでしょう。
要するに当時の日本に旧人はいたが、現生人類は未だいなかった4万年前に近い時代という設定なのだろうと思います。
その場合、海水面の低下状況とともに、出発地の台湾地域、そして先島諸島から大隅諸島に至る当時の植生(材料)を設定する必要があるでしょう。
大昔のトカラ列島の植生は豊かだったので渡海する現生人類も住めただろうという最近の研究結果もあります。
特に、舟を造る出発地の台湾周辺は重要でしょう。東アジア平野の豊かな緑の地域で、拠点と呼べる重要な地域でしたので。
パンカル人は台湾地域に至り、大変な数の人びとがある程度この地域での生活が飽和した状況になって更に北へ移動進出して行った訳です。
海の民がそこから目に見える与那国島へ漕ぎ出したのと、東アジア平野の北部地域にまで進出展開してから五島列島へ、北九州へと漕ぎ出して行ったのとでは、いずれが早かったのかなんとも言えません。
基本的には台湾地域で石器を使いしっかり作って与那国へ向かった舟は、家族の生計の大切な宝物でしたでしょう。
第2に、海水面の低下により下図のように東アジア平野(仮称)が出現しており、朝鮮半島という状況は無く、地名呼称に留意しないと誤解を与えます。
また、先島諸島など当時の南西諸島は、海水面低下を考慮した島と島の間の航路長とする必要があります。2万年前頃は、陸続きだったとみられていますので。
更に、東アジア平野の地域一帯はパンカル人の子孫でほぼ同様の人たちが主体ですので、大陸東アジア平野の北部から九州へ来たのか、南部から来たのかを論ずる意味はあまりないでしょう。当時の実証も難しいですし。
いずれにしましても、大陸内部で寒冷地適応の生活習慣やDNA変化を起こしていない南方の海浜・舟行の民が、まず九州に達し、黒潮と対島暖流に沿うように日本列島を北海道にまで進出展開した、列島人が均一的と言ってもよい状況でした。
従って、「日本祖人」と呼んで認識しています。
平野北部からは当然来れていますので、実験で南部からも島伝いに来れたとなれば、多地域の人たちが南北から九州に多数入ってきたことになります。
従って、当時の先進の九州と認識しており、それだけに既にお伝えした29,000年前頃の姶良カルデラ噴火が何とも辛い大災難でした。
他方、実験により九州への渡海は難しいと考えられれば、南西諸島のどの島以南で一定の時代に独自の発展を遂げたのだろうかという新たな問題が浮上するでしょう。その場合は、九州から南下して来る時期も考える必要があります。
これまで述べてきました時代の万年を経たずっと後に、日本の西部・南部更に北部からも大陸内部で寒冷地適応を経た人・子孫の多くの人が日本列島に入ってきて大きなインパクトを与えています。
従って、一概に大陸と言ってこの時期と混同しないよう認識する必要があります。
第3に、「オノが見つかっていないので丸木舟は除外」とありますが、「見つかっていない物は無かった。」とする考古の誤謬には注意が要ると思います。
そもそも、当時は狭かったとはいえ紅海・ペルシャ湾を越えてユーラシアへの出アフリカを果たし得た千人内外の新人類部族は、水を厭わない、水産物をも食す、海浜の環境での生活に適応できた、言わば海の民の資質を持った人たち(進化したサル的)ではなかったかと考えています。
生活の場であった当時の海浜は、海水面の上昇により舟などはもとより、石器であっても今や発見は大変困難です。
しかし、パンカル地域を北上した子孫は、舟も道具も航法も水産物の取り方などのノウハウはもとより、生活の必需品はしっかり受け継いで進出してきている逞しい海の民であることを考慮することが必要だとここで学んでいて思います。
大陸東岸地域の例えば黒曜石の状況は不明ですが、東アジア平野の北部では実際に見つかっていて各地の交易はあり、また、台湾地域は木材が得られた状況だと考えます。
むしろ、記事の報ずる試みは、草舟という厳しい状況で実験してみることとする、ということでしょう。
実験とは別に、パンカル人といえばアウトリガー(舟側方に張り出した腕木)というくらいのイメージです。渡海時期の波高によっては付けたでしょうし、1枚帆もあり得たとアジアの楽園Sundalandを研究していて思います。
さて、草舟設定で舟乗りがまず未知を偵察で行ってみるとするか、状況を把握した後に家族・家財道具を伴って移住すると設定するかも興味深いことです。
太古の昔を研究・想定しながら、実験というチャレンジで解明に迫ろうとされるこの実験結果に期待します。
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朝日新聞
3万年前、ヒトはこうして日本へ来た 航海を再現し検証
神田明美
2016年2月10日06時40分
約3万年前に人類が台湾から沖縄に渡った航海を人類学の研究者や探検家らからなるチームが再現して検証する。国立科学博物館(東京)が9日、発表した。この夏、与那国島から西表島の75キロを、乾燥した草を束ねた舟で渡る。来年は、さらに距離が長く、黒潮が流れる台湾から与那国島の海を航行する予定だ。
約20万年前にアフリカで誕生した現生人類が日本に渡ったのは、約3万8千年前とされている。チームを束ねる同博物館の海部陽介・人類史研究グループ長によると、ルートは三つ。朝鮮半島から対馬を通り九州へ入る「対馬ルート」、台湾から南西諸島を北上する「沖縄ルート」、ユーラシア大陸の北側からサハリンを経由する「北海道ルート」だ。
今回、再現するのは約3万年前と考えられる沖縄ルート。島と島の間を舟で渡ったと考えられ、距離も長く、難易度が高い。
どう海を渡ったか検証するため、現地で入手できる自然の材料で舟を作る。当時の遺跡からはオノが見つかっていないため丸太舟は除外。竹のいかだでは海を渡るのが難しいと考え、草舟で渡ったと想定した。
与那国島から西表島への航海は、与那国島に自生している多年草のヒメガマを、ツル性植物で束ねて作った舟を使う予定。計算では25時間程度かかる。台湾から与那国島への航行は、黒潮に流されるため200キロ程度になる見通し。
費用は5千万円の見込み。インターネットを通じて寄付を募るクラウドファンディング(http://readyfor.jp/projects/koukai)を9日始めた。
寄付者には特典として、プロジェクトの経過を随時、情報提供するほか、沖縄の遺跡調査体験や、航海再現実験の背景に関する海部さんの新著「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋)のプレゼントなどがある。(神田明美)