結論的に、今や人類史人類史最先端の研究は日本史最先端の研究にも成って来ています。考古学は関東ローム層の下に、無いと思われた人類の痕跡を3.5万年前の“岩宿層”に発見し、その後の新たな発見に幕を開きました。そして近年、3.8万年前の伊豆の海における黒耀石採取のフネによる活動を、3.7万年前の長野の高地における高い認知力を示す多様な石器群を、北海道・白滝に当時の膨大な宝脈・黒耀石と人工の遺物が発見されて国宝指定に答申され、昨年も帯広で1.5万年前の黒耀石器がザクザクと発見されています。
一方、静岡・浜北では岩宿層・祖代と次代の縄文層の人骨発見による繋がりが明らかになり、これらから約4万年前の「曙海」の畔から北部九州へ家族が渡海した始まりから、沖縄へ南下し陸奥・青森を越えて北海道に北上して拡がった列島史が見えてきました。他方右図北米ニューメキシコにおける2.3-2.1万年前の足跡発見により、人類史「初期のアメリカ新大陸移住史」(FPAC : First Peopling of American Continent-単数)が、数千年遡る事となりました。1.3万年前頃のクローヴィス文化による始まり定説のみならず、全ての北米における既発見遺跡の意義が薄れて、行き着いた南米遺跡が注目されることとなりました。そしてDNA分析によってアジアと南米のつながりが明確になって「何処から論争」に一応の終止符が打たれると共に、舟で南米に南下した始まり説、太平洋岸Kelp昆布ハイウェイ説の登場で、日本と南米のDNA類縁性も注目されることになっています。ここで、これまでアジア(人)=シベリア(人)で終わっていた「何処から論争」は、ベリンジアからアラスカに至るシベリアの東端へ「誰が、何処から」が問題となります。米イリノイ大の研究で、カムッチャッカ半島及びアムール河口・北部樺太の人々は新着の種族であるとみられ、その深層が注目されることとなっています。
太平洋岸ルート説は、既に北海道、日本列島にまで延伸されたものが歴史動画に登場して来ていますが、右図千島列島の北端である占守島には6千年前の縄文痕跡が報告されており(米ワシントン大Dr.Fitzhugh)、また、明治32年の鳥居龍蔵の北千島現地調査から「余程古い」石器使用の遊動海民である留頓(ルートン)の状況が明らかになり、その後、人々は北に逃れた伝説の「コロボックルである」(大正6年)(Corobocle)と巷間の誤った認識を正し、師であり日本人類学の祖である東京帝大・坪井正五郎説の正当性を回復しています。気候や火山の爆発などで環境は厳しい千島列島ですが、処女地の昆布ハイウェイで海獣・鮭・海鳥卵・昆布などの食は豊かでした。次々に島が見えていて最長離隔距離は70-80kmですがフネで行けない距離ではアリマセンし、冬季には接岸の流氷で歩いて行けたと考えられます。重要な事は、近年の研究で留頓はカムチャッカ半島南南部に進出していたことが明らかになり、むしろそちらが主体であって北千島は西であり、正に留頓Routon「ルートンモングル(「西に住まえる人」の意)」であったことが明らかになり(北海道大 高瀬克範)ました。従って、イリノイ大の研究と合わせれば、深層では留頓・祖先が更に北方に進出していて新来のイテリメン・カムチャダールに圧迫されて南下して来た事が推測され、大昔のベリンジア関わりも視野に入ってきます。因みに、歴史動画では第1級の北の海民アレウト族に惹かれるのか、カムチャッカからアリューシャン列島ルートになっていますが、コマンダー諸島からアッツ島へは330kmで人類の家族での初期移住はムリだったと考えますし、ア列島の遺跡の発見からも東から西に拡がったと考えられています。
この点で鳥居龍蔵は、シベリア東端の沿岸民の祖先オンキロンのモノだと言われた竪穴・石器の海岸遺跡に注目すべしと言い置いていますが、驚くべき慧眼の指摘でした。さてこれらの事を踏まえ、近年のDNA分析による左図ミトコンドリア(母系)系統図は、時間的に祖人Sojin/縄文人(Jomon)を、場所的には北海道におけるコロボックル・留頓、北海道ヤマトを加えれば日本史版となり、愛知・伊川津縄文などのDNA分析が強化した南方共通性を主体にユーラシア内陸共通性が加味された特性を有する南方系説、ラインが異なるアイヌに「先住」を付した国会決議に対する内外の疑問がよく理解できます。米ニューメキシコ足跡で人類史の定説が崩れ、今や、世界人類史の最後の謎であるFPAC問題の探求は、日本史の始まり時代から現代に至る北方史の状況の解明が重要であり、人類史に日本史が絡み関わって今後の更なる探求が課題になっているのです。周回遅れの教室で論じ、世界に発信を、です。