今の時期の5月の雨は、また、物事を少しずつ断続的に行うさまが「五月雨(式)」と言われるものです。
左図A北米北西海岸の先住民Nativesは、内陸と全く異なる密で多種多様な言語小種族で、B特にカナダの痕跡にはっきり残されており、C現在でも沿岸30種族は確認されています。1図の①先入の沿岸ルートと②後入の無氷回廊ルートを考えれば、①沿岸は五月雨(式)Samidare進入で、②回廊は、強い狩猟族のまとまり陸続の進入であったと考えれば理解できます。というのは、昨年9月末にニューメキシコにおける子供などの足跡が2.3-2.1万年前のものと発表され、それまでのクローヴィス石器人定説をなんと万年遡らせて学界を驚かせ、ショックで今も特に「誰が」最初の米大陸人(フネで沿岸から)だったのかを考察した説は未だに出ていません(依然シベリア人か?)。更に、発表で沿岸と回廊進入の差は10-8千年という事になり、1万年もあれば沿岸から入った人々はニューメキシコのように内陸にも拡がった訳で、アメリカ東部にも回廊開通以前の遺跡が発見されて示しています。しかし、左図のように内陸の多様性が乏しいことは、後入の強い狩猟族の比較的まとまった陸続進入による沿岸拡がり種族の駆逐・吸収であったのではと考えられるわけです。
そこで次に、最初の沿岸進入に至ったベーリング地峡・ベリンジア地域の状況を考えますと、2図①米カンサスなど3大学チームは、当時(氷期)の沿岸(昆布ハイウェイ)状況、海水面の低下、沿岸地形などから海岸線付近に散在していた一時的な列島小島(Temporary Archipelago)で暮らしていた人々が、その後の温暖化の海水面上昇で島におれなくなり追われるように移動進入して行ったのが始まりだろうという説を発表しました。しかし、昨年の2.3万年前の足跡発見からベリンジア越えは氷期最寒期LGM(2.5万年前頃)の事と一応考えられることから、追われるようにではなく、一時的な列島小島をそれまで同様に開拓的に移住してきたと考えるべきでしょう。またベリンジアに関しては、②優れた広域(北千島、ユーラシア東部など)のフィールドワーカーとして有名な鳥居龍蔵が、チュコト半島のチュクチ海岸族の先人石器人オンキロン痕跡に注目したことが特筆されます。おそらく北千島人の留頓・ルートンとの関連だったのではと思われますが、問題意識が「最初のアメリカ人」であったとすれば、あの時代における驚くべき慧眼です。
右図下A既に3.8万年前から伊豆海民は、黒耀石を求めてフネで東京諸島・神津恩馳島を行き来し、B狭くなっていた津軽海峡を越えて3.5-3万年前には北海道に拡がっていました。C近年の高橋克範氏の研究で、留頓の本拠地は遺跡痕跡からむしろカムチャッカ半島南部であったと考えられ、留頓先人が北上していればオンキロン、べリンジア進入と関わってくることになります。この北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoに関する問題は、日本祖史はもとより「最初の米大陸人」問題と関わる重要なもので、これらに関する総合的な研究は、膨大なアイヌ関連予算からでも割いて投じ、世界にも貢献すべきです。因みに、人類がベリンジアをTemporary Archipelagoから入って行った状況が、「Samidare」(の進入)であったことは用語として提唱すべきです。ともかくこれらの事を子供に教え世界に発信すべきです。